昨年、突然のガン発覚いらい、たびたび弱音の行先としてこのブログに父の病状を書き込み続けていました。ですが先日それはやはり不義理の行為であったことが分かったため、最近は通常記事の中に触れる程度にしていましたが、それも今回が最後となります。なので、書くことを許してください。
本日、父は息を引き取りました。
最短で半年、と言われた父の当初の余命の予想からすれば一年半というのは十分生き永らえたと言えるかも知れません。ただ、最後の数か月、その進行はあまりに速いものでした。5月の終わり、極端な便秘によって体調を崩した父、一度は病院で診察と薬を出してもらうだけで無事戻ってきましたが、その後再び起き上がれなくなり、7月の頭に入院しました。ただ、7月中旬より食道の動脈瘤の手術のために以前からその時期は入院する予定でしたので、それが少し早まった程度にしか皆思っていませんでした。実際父は大部屋に入院し、年齢も立場も近い同部屋の他の患者さんと談笑するなど、元気に過ごしていたのです。大好きなプロ野球や競馬のチェックのために新聞をねだり、「退院したら視るからこの番組録画しといてくれ」など非常に意欲的に過ごしていました。予想より元気だったため、動脈瘤手術は予定通り行われました。しかしそのあと、父は急速に筋力が衰え、便を我慢することが出来なくなってしまったのです。一度は消えた腹水も再び出始め、入院前より体調は悪化していました。新聞も読みたがらなくなり、大好きなテレビを視る時間も短くなっていきました。7月末になるとその病院より「入院は長くなりそう。当病院は長期入院はさせないので、ほかの病院に移ってくれ」と転院を要請されました。ガンをはじめとするいくつかの症状を考えると今入院している病院以外に全部に対応できる総合病院は地元にはありません。転院先としてすすめられた病院もそこまでの規模ではありません。そこを詰め、この病院での入院継続をお願いしましたが「引継ぎはしっかり行うから」とけんもほろろ。今思えば、この時点ですでに担当医にはこの先どうなるかが分かっていて、匙を投げてしまっていたのかも知れません。
しかし、転院してから父は元気を取り戻しました。退院を目指したリハビリが治療に加えられ、毎日決まった時間に体を動かすようになってから再び気力を取り戻したのか新聞を読むようになり、テレビも見るようになりました。ただ、番組の途中にCMが入ったりニュースが入ったりすると看護師を呼んで「こんなの見たくないから早送りして野球を始めてくれ」とかなり我儘も言っていたようですが。わたしがお見舞いに行ったときも「調子はどう?」「絶好調だよ!」と声をあげ、野球の話をしてくれたものです。実際、涼しくなったら退院させようという話が新しい病院の担当医から上がり、こっちは「退院はいいけど部屋とかトイレの問題とかどうしよう」といろいろあわてたものです。しかし、そんな時期も二週間と持ちませんでした。再び体調を崩し、リハビリに耐えられなくなった父はほとんど寝たきりになりました。体力も気力も見る見るうちに衰え、昨日は会話ができたのに今日は一言二言最低限の返事をするのがやっと、そのくらい急速に弱っていったのです。今月の終わり、わたしは父が退院する前に少し夏休みを取り、久々に東京へ行って、あっちにおいてある荷物などを引き上げてくる予定でした。が、その2日前に「来週生きている保障はできない」と言われるほど衰弱しており、急遽中止にしたほどです。そして今日、病室に見舞いに来ていたわたしと母が多少よそ見をしている間にいつの間に心臓が停止していたのです。顔は大変穏やかで、微笑んでいるようでもありました。
死因がガンの進行のためかはわかりません。少なくとも「ガンが転移している」という話は一度もどちらの病院の担当医からも聞くことはありませんでした。わたしはやはり精神的に不安定になったことで、生への執着心がなくなり、それまで抑えていた体力の衰えの歯止めがなくなって一気に進んだためではないか、などと勝手に思っています。それだけに苦しむ期間が短く済んだのは父はもちろん毎日看病に通っていた母にとっても救いだった、というと親不孝でしょうか。
今、父は我が家に戻ってきています。入院中には「もうベッドはイヤだ、家に戻ったら布団で寝る」とたびたび言っていた父。おそらく無事退院できても要介護は避けられませんでしたから寝たきりになり、負担が増える布団寝など認められない要求でしたが、今は長年愛用していた布団で、静かに眠っています。最後に望みを叶えてあげられたのがわたしの精一杯です。
遺族としてはこれからが大変です。葬儀その他はもちろん何より相続の手続きがあります。ガンが進行せず、あと数年は大丈夫と誰もが考えていたため、あまり相続税対策をしていなかった父でしたから、相当の金額を払う必要があるはずです。正直それを考えていると、悲しんでいる暇など全くありません。こうしてブログを書くのが息抜きです。
と、いうわけでちょっとだけ休みます。まぁ最近は更新も滞ってましたからわざわざ語るほどでもないのですが。ブログ再開の時の記事は、書きかけの特撮関係の記事になる予定です。思いっきり好きなことを書きたいので。
本日、父は息を引き取りました。
最短で半年、と言われた父の当初の余命の予想からすれば一年半というのは十分生き永らえたと言えるかも知れません。ただ、最後の数か月、その進行はあまりに速いものでした。5月の終わり、極端な便秘によって体調を崩した父、一度は病院で診察と薬を出してもらうだけで無事戻ってきましたが、その後再び起き上がれなくなり、7月の頭に入院しました。ただ、7月中旬より食道の動脈瘤の手術のために以前からその時期は入院する予定でしたので、それが少し早まった程度にしか皆思っていませんでした。実際父は大部屋に入院し、年齢も立場も近い同部屋の他の患者さんと談笑するなど、元気に過ごしていたのです。大好きなプロ野球や競馬のチェックのために新聞をねだり、「退院したら視るからこの番組録画しといてくれ」など非常に意欲的に過ごしていました。予想より元気だったため、動脈瘤手術は予定通り行われました。しかしそのあと、父は急速に筋力が衰え、便を我慢することが出来なくなってしまったのです。一度は消えた腹水も再び出始め、入院前より体調は悪化していました。新聞も読みたがらなくなり、大好きなテレビを視る時間も短くなっていきました。7月末になるとその病院より「入院は長くなりそう。当病院は長期入院はさせないので、ほかの病院に移ってくれ」と転院を要請されました。ガンをはじめとするいくつかの症状を考えると今入院している病院以外に全部に対応できる総合病院は地元にはありません。転院先としてすすめられた病院もそこまでの規模ではありません。そこを詰め、この病院での入院継続をお願いしましたが「引継ぎはしっかり行うから」とけんもほろろ。今思えば、この時点ですでに担当医にはこの先どうなるかが分かっていて、匙を投げてしまっていたのかも知れません。
しかし、転院してから父は元気を取り戻しました。退院を目指したリハビリが治療に加えられ、毎日決まった時間に体を動かすようになってから再び気力を取り戻したのか新聞を読むようになり、テレビも見るようになりました。ただ、番組の途中にCMが入ったりニュースが入ったりすると看護師を呼んで「こんなの見たくないから早送りして野球を始めてくれ」とかなり我儘も言っていたようですが。わたしがお見舞いに行ったときも「調子はどう?」「絶好調だよ!」と声をあげ、野球の話をしてくれたものです。実際、涼しくなったら退院させようという話が新しい病院の担当医から上がり、こっちは「退院はいいけど部屋とかトイレの問題とかどうしよう」といろいろあわてたものです。しかし、そんな時期も二週間と持ちませんでした。再び体調を崩し、リハビリに耐えられなくなった父はほとんど寝たきりになりました。体力も気力も見る見るうちに衰え、昨日は会話ができたのに今日は一言二言最低限の返事をするのがやっと、そのくらい急速に弱っていったのです。今月の終わり、わたしは父が退院する前に少し夏休みを取り、久々に東京へ行って、あっちにおいてある荷物などを引き上げてくる予定でした。が、その2日前に「来週生きている保障はできない」と言われるほど衰弱しており、急遽中止にしたほどです。そして今日、病室に見舞いに来ていたわたしと母が多少よそ見をしている間にいつの間に心臓が停止していたのです。顔は大変穏やかで、微笑んでいるようでもありました。
死因がガンの進行のためかはわかりません。少なくとも「ガンが転移している」という話は一度もどちらの病院の担当医からも聞くことはありませんでした。わたしはやはり精神的に不安定になったことで、生への執着心がなくなり、それまで抑えていた体力の衰えの歯止めがなくなって一気に進んだためではないか、などと勝手に思っています。それだけに苦しむ期間が短く済んだのは父はもちろん毎日看病に通っていた母にとっても救いだった、というと親不孝でしょうか。
今、父は我が家に戻ってきています。入院中には「もうベッドはイヤだ、家に戻ったら布団で寝る」とたびたび言っていた父。おそらく無事退院できても要介護は避けられませんでしたから寝たきりになり、負担が増える布団寝など認められない要求でしたが、今は長年愛用していた布団で、静かに眠っています。最後に望みを叶えてあげられたのがわたしの精一杯です。
遺族としてはこれからが大変です。葬儀その他はもちろん何より相続の手続きがあります。ガンが進行せず、あと数年は大丈夫と誰もが考えていたため、あまり相続税対策をしていなかった父でしたから、相当の金額を払う必要があるはずです。正直それを考えていると、悲しんでいる暇など全くありません。こうしてブログを書くのが息抜きです。
と、いうわけでちょっとだけ休みます。まぁ最近は更新も滞ってましたからわざわざ語るほどでもないのですが。ブログ再開の時の記事は、書きかけの特撮関係の記事になる予定です。思いっきり好きなことを書きたいので。
推し量ることは出来てもそれ以上は本人にしか出来ない事なので
>入院中には「もうベッドはイヤだ、家に戻ったら布団で寝る」と
これは素晴らしい言葉だと思いますよ 気力を保てなくなるまではそれだけ体力を保てていた訳ですし
気力は血流を上げ体温が上がり体調が良くなりますし 内蔵や筋肉に集中して意識し何処にどんな臓器が有って筋肉がどこにあるか思う事で 疲れを軽減できる手掛かりになりますから 日常生活が楽になる訳で
一言で言うなら お父様との生活で活かせる所は蓋をせず生かし続けてください そう願います、 居なくなってしまうのは蓋をして考える必要が無かっただけで そもそもそうゆうものなのですよね
自分に当てはめ突き詰めていくと何も努力も悩む事も無い多少たくわえが有れば やりたいことをやり過ぎない程度に楽しめばいい 努力しても10年20年すれば意味合いはひっくり返る そう答えが出てますw
第3者が言うべきことではありませんが、
お父様を最後まで見守り続けてこられ、
病院で最期を看取れたことは、
一番の親孝行だと思います。
どうか無理せず、体調に気を付けてください。
お父様のご冥福をお祈りし、
哀悼の意をささげさせていただきます。
合掌。
お仕事なども大変でしょうが、お母様を勇気づけてあげてくださいませ。
ですが、一言だけ。
ご冥福と、ご心痛をお察しいたします。
親が亡くなる喪失感
その後の遺産等の処理
非常に大変だと思いますががんばってください
持ち家で今後もそこで暮らすなら、土地家屋は
8割が控除とか色々精度が複雑なので会計士等と
相談してみて下さい
謹んてお悔やをみ申し上げます。
ご家族の方も大変かと思いますが、葬儀や後処理等で心労や激務でありますのでなにとぞお体に気をつけて下さい。
謹んてお悔やみ
申し上げます。
ご家族の方も大変かと思いますが、葬儀や後処理等で心労や激務でありますのでなにとぞお体に気をつけて下さい。
不安定な気候もまだ続くようですし、忙しくなると思いますが体調にお気を付けください。