story・・小さな物語              那覇新一

小説・散文・詩などです。
那覇新一として故東淵修師主宰、近藤摩耶氏発行の「銀河詩手帖」に投稿することもあります。

デッキ

2016年08月04日 05時36分18秒 | 小説

友人たちに会うために行った東京からの帰途、青春18きっぷ発売シーズンに運転される夜行臨時快速「ムーンライトながら」に乗った僕は、車内が暑いなと思いながらも、東京での二日間の趣味活動の疲れに、すぐに寝入ってしまった。

車両のモーターの音が控えめに車内に入り、レールジョイントの音が心地よく・・と言いたいところだが、真夏の列車の冷房を抑えてある車内の暑さは疲れた僕の身体に堪えてしまったようだ。

いきなり吐き気がした。

窓側の席に座っていた僕は、隣で寝ている男性の膝にあたらぬように通路に出て、小走りにトイレに向かう。

客室内とは比べ物にならないくらい、モーターの音が甲高く響くデッキからトイレに入り、客室内よりさらに冷房の効きが悪いトイレの、洋式の便座を上げ、一気に吐いた。

何度か嘔吐を繰り返し、やや落ち着いたので便器に水を流して、洗面所へ、ここで口を漱ぐ。 気持ちを取り直した僕は、自席へ帰ったが、また十分もしないうちに吐き気に襲われた。

また、隣席の人に気を遣って通路に出て、トイレへ向かう。

吐くと言っても、夕食に何かをたくさん食べたわけではないし、お酒を飲んだわけでもない。

列車待ちの東京駅のホームで、昼間の猛暑の余韻が肌にまつわりつき、いくら拭き取っても噴き出す汗に、ちょうど傍にあった自販機で冷たくて喉の渇きが取れそうなアイスコーヒーの缶を見つけ、それを飲んでホッとした…

 

 

 

だから僕の胃に入っているものといえば、その缶コーヒー位のはずだから、僕がトイレで吐くのも茶色の液体ばかりだ。それも、二度目とあっては吐き気だけで、出てくるのは胃液しかない。

「酒を呑んだわけでもない俺にこの仕打ちはないんじゃないの」

そう恨み言もでるが、自分の体調が悪く、やや熱中症気味の中、列車の暑さにやられたというのが正しい現状判断というものだろう。

二度あることは三度も四度もある・・僕は、また気分が悪くなって席を立つときに、隣席の人に迷惑をかけるといけないと思い、しばらくはデッキで過ごすことにした。

全席座席指定の臨時快速、デッキに出る人はまずいない。

 

列車はモーターのうなりを上げて突っ走る。それも驚くような高速でだ。

今や鉄道幹線の夜間は高速貨物列車で占められていて、それら貨物列車の筋を乱さないようなダイヤにせざるを得ず、本来はゆっくり走ってよいはずの夜行快速も時速百キロは出ているであろう高速運転を続けているのだろう。

デッキの床にしゃがみこんだり、時折立ったり、そして、時折襲ってくる吐き気に、トイレに行ったりしてすごす。雨が扉の窓にたたきつけられている。

深夜の通過駅は、明かりも消え、駅名も判然としない。

そういえば・・昔、このようなことがあったなと・・古い記憶が呼び起こされる。

ただ、そのころの僕は独りではなかった。

 

*****

 

あれは三十数年前、東京からの下り、銀河五十一号という列車だった。

東京駅の窓口、大阪行きの寝台急行「銀河」のチケットが取れず、窓口の駅員氏の勧めで後続の全車座席指定臨時急行「銀河五十一号」の存在を教えてもらい、僕らはその切符を手にした。

半分ほどの座席が埋まっている車内で、僕と君は並んで席をとることができたから幸運だったのかもしれない。

座席は青いリクライニングシートだったが、今の夜行バスや、今夜の「ムーンライトながら」の座席のように深くリクライニングする座席ではなく、わずかに少し傾く程度のシートだったが、それでも列車の座席といえばあの直角の椅子を連想する当時の僕らには高級な座席に見えたものだ。

列車がゆっくりと東京駅を滑りだし、窓を街の明かりが流れるようになって、君が僕にもたれかかってきた。

「ごめんね」君は囁くようにそういう。

「ええよ、べつに君が悪いわけやないし」

「うちの両親、特に母が曲者でさぁ・・もう、これ以上無理よね」

「いや、無理なんて言わず、認めてくれるまで頑張るしかないやろ」

僕たちはこの日、彼女の両親に結婚するつもりであることを報告し、その了承を得るために東京都内、根津にある君の実家を訪問したのだった。

ご両親のうち、君の父親は僕を見て案外気に入っていただいたようだったが、問題は君の母親だった。

 

しばらくは好意的に話す君の父親の話を聞いていた風だったが、突然頭を上げて、とんでもないことを言い出した。

「私は、人の将来を見る力があります」

「え??」

「あなたは、うちの娘の相手には不適格です」

「いや、お母さん、それはどのような理由で?」

「理由なんてありません、私は毎日、仏壇に祈っております。その答えが駄目ということです」

 

もはや、何を言っても無理だった。

君の父親がいくらなだめても、母親は頑として受け付けず、なだめるほどに感情的になってしまう。僕と君の結婚は認められなかった。

 

それでも僕らは諦めることはできなかった。

だからこの度の失敗はともかくとして次回を期すしかない。

尻尾を巻く猫のように、君の自宅を逃げ出した僕らは、そのまま都内をうろついて、結局は今夜中の列車で神戸に帰ることにしたのだった。

 

夏の暑い夜、東京駅から乗車した「銀河五十一号」の青い車体は、僕に東京での敗北を実感させてしまう。列車内は今夜の「ムーンライトながら」のようには暑くなく、冷房が程よく効いて心地よかったが、僕の心は塞いでいた。

 

列車は夜の東海道をひた走る・・

車内のほかの乗客が寝静まったころ、君が僕に更にしなだれかかり、君の息が僕に感じられるまで顔を近づけてきた。

「ごめんね・・」

息が熱い…

「デッキに行こうか」僕たちは座席を立ち、車両の端のデッキに向かった。

 

今宵の列車のようにモーターの音が聞こえた記憶はない。

ドアの形も平べったい一枚ものではなく、中折れ式の二枚ものだった。

それに、ドアの手前はステップになっていて、床が一段下がっていた。

 

「ごめんね」君がまたいう。

「ええよ・・また次、頑張るから」

君は僕の体をデッキの壁に押し付けるように、僕にもたれかかってきた。

僕たちは長い口づけを交わした。

 

列車は時折汽笛を鳴らしながら突っ走っている。

立ったまま、君を抱きしめながら、僕の指先は君のブラウスの中に入り込んでいく。

ため息とも叫び声ともとれる君の小さな声が、列車の音にかき消されていく。

 

あらわになった君の乳房を揉みながら、ぼくは破滅への道を進んでいるのかと暗澹たる思いだった。

 

結局、君と僕は分かれた。君は親を捨てる気などないし、僕もそれ以上のエネルギーを使いたくはなかった。

一度だけ君にこう聞いたことがある。あれは周囲が喧しい三宮の居酒屋だったか。

「親を捨てて、僕ら二人、一緒になる気はないか」

君は、言葉ではなく、かぶりを振ることで僕に答えた。

「NO」であると・・・・

 

*****

 

臨時夜行快速「ムーンライトながら」は、少し夜が白みかかっている東海道を走っていた。つい30分ほど前、浜松でしばらく停車し、ドアを開けてくれたおかげで僕は駅のホームに出てベンチでしばし休んだことで体調を回復させていた。

 

デッキの平べったい大きなドアの窓から見る空が、わずかに青味がかる。

通過する駅名が読み取れる。

座席に戻るつもりはなく、僕はあの夜のことを思い出しながら、まだデッキの壁にもたれている。

 

小柄な、色白の、少しやんちゃに見える君の、あの夜の姿や表情は、今の僕にとっては宝物の思い出だ。

そして列車の中で、立ちながらお互いの肌を合わせたあの不思議な時間。

 

もし、寝台列車である夜行急行「銀河」のベッドが確保できていれば、僕らはベッドで抱き合っただろうか?

いや、それはないだろうと、今は思う。

座席夜行の、何ともいえぬ怠惰な雰囲気が、僕らをあのような世界に導いてくれたのかもしれない。

 

トイレへ向かう人が多くなってきた。

夜は明けつつある。

名古屋到着の案内放送が流れ、列車はたくさんの線路が展開する都会の中に入っていく。

「名古屋からは関西線にしよう、そう、亀山からの気動車がいいな」

僕は気持ちを切り替え、あと少しの旅の余韻を味わうつもりになっていた。

 


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