(広島市中区中町・小町 市指定史跡)
平和大通りには、岩で組まれた池の跡がある。これは、かつてこの場所に存在した、国泰寺の庭園池の跡である。国泰寺の前身である新安国寺は、文禄三年(1594)安芸安国寺の僧恵瓊(えけい)が開基した。天文十年(1541)毛利元就によって滅亡した安芸武田氏の子、竹若丸は、家臣に連れられ安芸安国寺において出家し、その後、東福寺竺雲恵心に師事した。毛利氏が恵心に帰依していた関係から、恵瓊は毛利輝元に付き、外交僧となった。そして、毛利氏が豊臣秀吉に正式に臣従する際の交渉を務めたことによって秀吉の信任も厚くなり、秀吉から六万石の領地を与えられている。然し、関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、恵瓊は首謀者の一人として処刑され、毛利氏は萩へ移された。代わって広島に来た福島正則は、弟の普照を新安国寺に招き、寺号も国泰寺と改めた。この国泰寺は、広島築城当時の海岸線付近に位置しており、境内の愛宕池は、潮の干満によって見え隠れしていた岩を巧みに利用して造られている。「愛宕池」の名は、池のそばに国泰寺の鎮守社愛宕堂があったためと言われている昭和53年(1978)国泰寺は西区己斐に移転した。
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