flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

下城田寺

2009-12-01 00:00:00 | 城郭・城下町
(しもきだいじ 岐阜市城田寺)
 上城田寺から南に歩くと、下城田寺である。付近の民家は城ヶ峰から伸びる丘陵に沿うように建っていて、幾つかの神社仏閣がある。
(城ヶ峰)
    
 「舎衛寺縁起」によると、神亀二年(725)白山権現がこの地に影向し、三所権現として祀られ、天平元年(729)には「木田寺」を興し聖武天皇の勅願所にしたという。その後、天慶五年(942)西天より飛来した二流の玉幡(仏教用具のはた)のうち、一流がこの寺に落ち、この幡に「舎衛国」の文字があったため、寺号を舎衛寺に改めたという。然し、明応の城田寺の戦いにより、焼失してしまう。
   (舎衛寺鎮守白山神社)
 
 明応四年(1495)この地に住む土岐成頼は、四男元頼に家督を継がせるため石丸利光に元頼を擁立させ、船田合戦を起こした。
(船田合戦終焉之地碑)
    (真言宗舎衛寺)
 一族の石丸利定、秀道らが斎藤勢の西尾直教を破り加納城を攻めたが、反撃に遭い討死した。間もなく斎藤勢が味方の古田氏を攻めたため、一族の石丸正信、馬場氏、国枝氏ら援軍を送ったが敗れた。船田城主石丸利光は城を焼き捨て、元頼と共に南近江の六角氏のもとへ敗退、成頼は不本意ながら嫡男である政房に家督を継がせることになった。然し、石丸氏へ味方した利光の娘婿である織田寛定を攻めるため、尾張へ布陣していた斎藤勢の隙をついて、子の石丸利高が細川氏、六角氏、北畠氏らの後援を得て美濃へ進行した。元頼を総大将、利藤の子毘沙童を副将として二軍に分けて進軍したが、戦況が変化したため利高の進軍を止めさせようとするも、利高はこれを拒んだ。そのため、津島から竹鼻を通り、墨俣で出迎えていた斎藤勢を破り、成頼の住む城田寺城に向かった。然し、斎藤氏に味方した岩倉城主織田寛広と斎藤妙純の娘婿である朝倉貞景らに城田寺城を包囲され、援軍として駆けつけた六角氏も斎藤方の京極氏に破れ降伏した。その後、斎藤勢の奇襲に合い、利光、利元、そして元頼も自害した。舎衛寺の前に「船田合戦終焉之地」の碑が建てられている。

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 漫ろ刈谷 2009 秋 | トップ | 怪しい空 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
舟田合戦 (mino阿弥)
2009-12-03 12:52:08
この戦いは、結局どちらも勝者はなく無益な戦いであったと思われます。斎藤利国はこの戦いの後、六角氏討伐に行き馬借の集団に襲われ自害しています。不用意な情けない結末です。土岐家の相続争いが守護土岐氏や斎藤守護代家を衰退させ、のちに斎藤道三が台頭するきっかけになりました。しかし斎藤利国の妻利貞尼は妙心寺に莫大な寄進をして妙心寺中興の人となり今日の妙心寺発展に貢献していることは特筆すべきことです。戦いにつぐ戦いで庶民は、どうして暮らしていたのでしょうか?
返信する
mino阿弥さま (てんゆう)
2009-12-03 18:34:00
土岐氏も親子間の確執があったことが分かりますね。
そこから後の研究者が、血縁関係や親の思惑などを推測していきます。
河野氏も同様のことが言えます。
子孫繁栄が結果、一族闘争で衰退していく。
この土岐氏の出来事も残念ですが、この時代のこの勢力の武士たちには有りがちなことですね。
おっしゃるように、戦いに翻弄される庶民たちはどうなっていたのでしょう。
寺社も焼き討ちされる戦乱の世。
そのあたりを調べてみると、新たな視点が見えてくるかもしれません。

以前、生涯教育の講師が発した「武士は人を殺すのが生業」という言葉を思い出しました。
それは間違いなのですが…
返信する

コメントを投稿