(静岡県浜松市中区 県指定史跡)
この日は「遠州大念仏宗円堂」を改修して開館した、犀ヶ崖資料館に立ち寄り、職員の方からのご説明を受けた後、同所にある徳川軍本多忠真顕彰碑(討死場所)、江戸時代の俳人大場蓼太の句碑、徳川軍夏目吉信顕彰碑(討死場所)等を訪れた。
(三方原古戦場犀ヶ崖碑)
(本多忠真顕彰碑)
(旧宗円堂)
(夏目吉信顕彰碑)
三方原丘陵地に裂けるこの溝は、深さ約13mであり、浜松城北側に向かって次第に幅の広がった地形となっている。元々水脈のあった谷が、地震によって広がり、このような地形になったのだという。享保元年(1716)の「遠州濱松城圖」には、「犀ヶ掛」とし、深さ五十間(90m)と書かれている。
元亀三年(1572)武田信玄勢と戦った徳川家康勢は、軍勢が相手の半分であったこともあり浜松城へ敗退した。そして武田勢はこの犀ヶ崖近くに陣を構え、野営しているところを徳川勢は攻め、この犀ヶ崖に布を敷いて武田勢を落とし込んでいったという。それが地名の「布橋」の由来となったとされる。
戦いの後、谷底から人馬の呻き声が聞こえたり、けが人が続出したり、イナゴが大発生するなど災いが発生したため、住民は祟りと思い、僧侶を招いて念仏を唱えたところ次第に鎮まったとされ、その後遠州大念仏として毎年供養が行われるようになった。
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