小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

 66番雲辺寺

2016-11-08 | 四国遍路 讃岐(香川...
 
5時起床。6時朝食。
横浜氏が「ゆうべ、うるさくなかったですか?」と言われる。夜中に奥さんからWindowsが勝手に10にされてしまったがどうしたらいいかと電話があったそうだ。それであれこれ話していたとのこと。10はこんな所まで追いかけてくるとおかしかった。でも、他人事ではない。帰ったら考えなくては。
奥さんにおむすびを貰いバス停に向かって出発。昨日Sさんが歩いてきた道。降りたバス停とは違うバス停。バス停はあったが時刻表に乗るはずの時刻が書かれていない。しばらく待つが気配もない。通りかかった人に聞くと殆どバスには乗らないけどと農協への道を教えてくれた。しかしバスの時間までかなりある。不安が増してきた。これくらいは歩かなければと励まし合って歩こうということになった。
さて、雲辺寺ロープウェイ乗り場はどっちの方向だろう。5キロくらいはあるはずだ。スマホでmapを見れば良いのだけどまた揉めるのが厭だからやめた。
Sさんは木工所にいた青年に道順を尋ね、結果、青年が車で送ってくれるということになった。地獄で仏とはこのことだ。ロープウェイ乗り場の駐車場まで送ってくれた。お摂待です、と。ありがとうございました。800台もの車を収容できる大きな駐車場。観光や車で訪れる人が多いのだろう。
ロープウェイは20分毎に出ている。この山上にあるのが讃岐最後の札所だ。

   
      


66番 巨鼇山 雲辺寺
 ご詠歌 はるばると雲のほとりの寺に来て 月日を今は麓にぞ見る

四国霊場のうち最も高い標高911メートル、四国山脈の山頂近くにある霊場で、現在は麓からロープウエーで山頂駅まで登ることができる。住所は徳島県だが、霊場としては讃岐の打ち始めの「関所寺」。縁起によると、弘法大師は雲辺寺に3度登っている。最初は延暦8年、大師が16歳のときで善通寺(第七十五番)の建材を求めてであったが、深遠な霊山に心うたれて堂宇を建立した。これが雲辺寺の創建とされている。2度目は大同2年(807)、大師34歳のとき、唐から請来した宝物で秘密灌頂の修法をなされたという。さらに弘仁9年(818・大師45歳)、嵯峨天皇の勅を奉じて登り、本尊を彫造して、仏舎利と毘廬遮那法印を山中に納めて七仏供養をし、霊場と定められた。





   
      


以後、僧侶の学問修業の道場として「四国高野」として栄えた。鎌倉時代には七堂伽藍も備え阿波、伊予、讃岐に接する寺として関所の役割も兼ねる大寺院でもあった。
実に広い境内。本堂が新しい感じがしたが平成になって立て直されたという。
お参りをして納経帳も書いていただいて境内を散策。まだ早い紫陽花の小さな蕾に満開時を思い描く。鬱蒼とした森林のなかの遊歩道の両脇には五百羅漢が果てしなく並び立っている。新しい羅漢さんを設置していたのでしばらく眺めていた。石だから重いのだろう。小さなクレーンで車の上から降ろしている。まだまだ新しい羅漢さんの募集もしていたが、歩きで上ってくる道にもずらりと並んでいて登山者を喜ばせているらしく、さらにそれを殖やすのかもしれない。焼山寺や太龍寺を歩いて登ったあの気概をいつの間になくしたのだろう。今回はとにかく讃岐一国を全部廻りたいというのが目的になっていたと言い訳しよう。四国の目的地までのアクセスが大変なので回数は減らしたいのだ。でもね、歩かなかったことの未練は残る。それが何度も遍路を繰り返すお四国病の素なのかもしれない。
とにかく!ここで讃岐一国の納経帳は埋まった。めでたいと思おう。
乗り場付近でロープウェイを待っていたら羅漢さんに混じって山頭火の句碑が目についた。懐かしく感じた。所々の札所で見かける山頭火の句碑。彼は61歳で没してるのでまだ足は丈夫だったんだろうな。








ロープウェイ駅でザックを宅配便で送って貰う。後は帰るだけだからお金以外はいらないだろう。身軽になって、しかも下り道だからさくさくと歩ける。バス停があったら観音寺駅まで乗っていこうという次第。
途中に大きな犬の学校があった。ブリーダーもしているらしく何種類ものかなりの数の犬が居た。いっせいに吠える。小さい犬ほど長い間吠える。さらに歩いて行くと番外十六の萩原寺の看板が出てきた。

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