実戦教師塾・琴寄政人の〈場所〉

震災と原発で大揺れの日本、私たちにとって不動の場所とは何か考える

六年が経ち(下)  実戦教師塾通信五百四十号

2017-03-24 11:12:48 | 福島からの報告
 六年が経ち(下)
     ~いま言えること~


 1 帰還賛成/反対を越えて

 先だっての3,11『福島民報』のトップ見出しは、
「県内全原発廃炉 可決8割  市町村議会」
だった。記事には、安倍首相の「(廃炉は)東電が判断すべきだ」というインタビューへの失望感が書かれている。
 このトップ記事の横に、大きな写真がある。

浪江町・請土(うけど)漁港から、出発を待つ漁船である。
 請土を知っている読者は少ないかも知れない。それは第一原発近くから、北西方向に長く伸びた浪江町にある。町に沿って原子雲が流れた。原発のすぐ近くにあった請土地区だが、線量が低かった。この三月、請土地区も避難指示が解除される。帰還への賛否が分かれる中、県内有数の漁港だった請土漁港の人たちは、この時を涙で迎えるという。
 この涙、強硬に「帰還反対」を訴える人たちも流す。また、
「二度と戻らない」
と決めている人たちが、一時帰還して田んぼに収穫するお米を見る時もだ。そして、被災地ツァーで、
「福島に帰ってはいけない」
と訴える人たちが、相馬野馬追の祭を見る時も、涙するのである。何が起こっているのか。
 ここに戻れないという、無念な気持ちばかりがあるのではないからだ。愛した場所がまたやって来るという感慨がある、また、昔の元気を取り戻そうという場所がある、そして、この場所を愛する者たちの営みを見るからだ。そんな時、みんなの気持ちは「帰還賛成/反対」とは別なところにある。
 「戻ってはいけない vs 帰って来い」
という言葉で福島を語るには、余りにこぼれ落とすものが多すぎる。

     これは防潮堤完成間近、いわき豊間/沼の内海岸。

 2 「母屋に行くよ」

もうお馴染み、楢葉町渡部さんの庭からのショットだ。冬を飾ったひまわりを覚えていると思う。いつの間に向こう側にあった林が消え、洋風な家が姿を現した。新築ではない。林の中に建っていたという。手前の畑では、いよいよ芋の栽培が始まる。ここから歩いて数分の、母屋の解体も本格化する。
 この日は、お母さんと息子もいた。前期(だったかな)の入試だとかで、授業はない。生徒はおやすみだ。「高校は楽だよね~」と私が声をかける。天神岬の公園で、この日再開するアイス屋さんを目当てに、いわきの仮設から楢葉の自宅まで出向いたという。

「広報ならは」三月号の記事。町の復興戦略会議で、農業復興の道筋を語り合う渡部さん(右)。
 この芋の事業、町をあげての「収益性の高い『儲かる農業』」と銘打っているが、売り込んで来た会社から苗を買い、しかも年間の利益は100万円を大きく下回る。働きづくめなのに? という私に、
「米はもっと採算があわない」
「農業は、もともと労働と利益がつりあわない」
と、渡部さんは言う。じっと聞いていた母と息子は、口をそろえて、
「ワタシ働き口を探そう/オレ就職先考えよう」
と言うのだった。お母さん(奥さん)は、この三月で、スクールバス付き添いの契約が切れる。どうやら渡部さんの構想は、私の方が詳しいみたいだった。
 また、みんな母屋の建て直しを待ちかねている。いま暮らしているこの離れは新しいし広いし、持て余しぎみとさえ思える。でもみんな、
「母屋へ戻って暮らしたい」
と言うのだ。

 3 暮らし/幸せ
 六年間見ていて、ようやく分かって来たことがある。
 暮らしと住まいを追われた福島の、とりわけ双葉郡の人たちは、初めは逃げるだけで精一杯だった。でも避難所や親戚、そして仮設住宅と振り回されながら感じた。
○ちっとも落ち着けない
○こんなところさっさと出て行きたい
どこに行っても「よそ者」、様子の分からない人たちや周辺。毎日の葛藤が、以前の暮らしに思いを強くしたのは間違いない。岩手や新潟を転々とした渡部さん一家だが、息子は、
「会津だけは行きたくない」
と、今でも言う。そして今、みんなは「楢葉」の「母屋で暮らしたい」と言うのだ。

 もうひとつ。お金のことだ。お金持ちであることが、必ずしも幸せではないということだった。
 お金は必要だ。農業だったら、原材料や機械の減価償却など、合わせた額は我々サラリーマンとは比較にならない。しかしそれは、「生業(なりわい)」と呼ばれるものに「必要なお金」だ。
 今回が不幸なのは、一年~何年かかけてやって来るお金が、一気に「補償金」という形になってやって来たことだ。

「毎月~毎年少しずつ入ってきたものがヨ、一度に入って来ちまう」
「すると使っちまうんだよ、人間てのは」
「宝くじに当たったみてえなもんだよ」
渡部さんがしみじみと言うのだった。落とされたお金を、「生業」のため蓄えようとした時、双葉郡の人たちは、一体どれだけの忍耐を要したのだろう。決して見ることのなかった大金を前に、ある人は投資に走った。ある人は「安全」な場所に家を建てた。あるいは千万円単位をカジノに投じた。
「でもさ『金』って、それでなくなっちまうんだよ」
まだ続く。
「六年も農業離れてゴロゴロしてたらさ」
「もう昔のように働けねえ人間になってるのさ」

ひとつひとつが、ずしんと響くのだった。


 ☆☆
NHKの『絆~走れ奇跡の小馬』見てますか(今日は「後編」)。重たいのは分かってましたが、切ないですね。野馬追の人たちとは、たったの一度しか会っていませんが、よく覚えています。一頭の馬を維持/用意するために、年間三百万円必要だと言うのです。
「そのため、オレたちは毎年働いて(生きて)るんだ」
という、あの凄味(すごみ)はなんとも形容しがたい。

     我が家の木蓮、今年も立派で~す

 ☆☆
森友問題、なんか「劇場型」政治の頂点とも言うべき展開を見せてますね。
○「証拠を追求される心配がない」から、森友がずけずけ言えるのか
○「証拠がない」から、行政/政治家が安心してるのか
どっちなんでしょうね。
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六年が経ち(中)  実戦教師塾通信五百三十九号

2017-03-17 12:19:11 | 福島からの報告
 六年が経ち(中)
     ~海岸のいま~


 1 「足もないしね」

 3,11、いわき駅前の朝。右手奥が駅。

あの頃の夜、暗闇に包まれた街に、駅がうっすらと浮かび上がっていた。駅舎が危険な状態にあるということか、原発事故のため常磐線が使えませんという意味か、駅に通じる階段はすべて黄色のテープで閉ざされていた。

「自分家がどこにあったんだか、さっぱり分かんなくなっちまったよ」
海岸に住んでいたおばちゃんたちが言うのだった。
 昔からの読者は、2011年のこの写真を覚えているかも知れない。豊間の海岸は、破壊された堤防の側から撮ったものだ。

 そしてこれが、二年後(2013年)の3,11。同じく豊間地区の様子。瓦礫がすべて撤去されて、住居の土台だけが残った。あちこちに花が手向けられていた。

近くの道路には、地元いわきばかりでなく、全国各地からの車が停車し、追悼の人たちが降り立っていた。

 午後2時46分には、海岸のどこでもお坊さんの読経が始まっていた。

 そしてこれが現在の姿である。区画整理の終わった場所。ここが最初の写真と同じ場所だと分かる人はいないはずだ。おばちゃんたちの言う「自分家がどこにあったんだか……」と言うのは、こういうことなのであった。おそらく住居の地面は、すべて2mぐらい嵩(かさ)上げされている。

 これは堤防の方に向かって撮った風景である。堤防の上に立っているフェンスのようなものは、これから作られる緑地帯の基礎だろう。そして分かるだろうか。いま現在は、海には立ち入れないようになっている。本当の「完成」のあかつきには、堤防を越えて海を見られるし、お祈りも出来るのだろう。しかし、自慢ではないが、この辺の地理に詳しい私でも、今年の3,11は、ことごとく海への道は阻(はば)まれていた。驚くほど人影がない。

 まだ工事中のところは多く、ダンプやトラクターがひしめく中で、ここにいるのが申し訳ないような気持ちになる。

 あとで聞けば、漁港などいわきの海岸でも、何カ所か追悼の催しがあったらしい。しかし今までは、海岸に行けばどこでも人々はお祈りをしていた。塩屋崎灯台にツァーのバスが止まっていたが、私は合流しなかった。

「今は(みんなで行く)足もないしね」
おばちゃんたちは言うのだった。

 2 楢葉町職員の給与
 本当は別なことで3,11の話を締めくくろうとしていたのだが、ここのところニュースを賑わしている、楢葉町長の発言について報告しないといけない。
 読者もご存じと思う。
「避難先から帰還しない職員は、昇給・昇格させない」
という、町長の発言のことだ。そして、
「率先して職員が帰還する姿勢を示すべきだという思いからだった」
とは言っていないのに、読売が記事にしてしまった。このことで読売の本社がおわびを掲載した(15日朝刊)。
 ことの発端から書こう。昨年11月22日早朝に、震度5の地震が福島を襲ったことを覚えているだろうか。津波警報が発令され、楢葉の渡部さんの息子が通う四倉高校も休校になったことを、このブログでも書いた。第二原発の燃料プールが冷却停止にもなった。
 町長はただちに町の職員を招集したのだ。しかし、100人いる職員のうち、町に住んでいるのは35人。全員が集まるのにかなりの時間を要したという。そんなことがあっては困るという思いが、議会で出てしまった。公的な場で言うつもりはなかったんではないかというのが、渡部さんの感想だった。
 確かに読売の記事とは微妙にずれて来る。
 大変な現実を抱えている、そして大変な思いをしながらみんなやっている。そのことだけは確かなのだ。


 ☆☆
2011年当時は、私と何度もぶつかった社協(社会福祉協議会)の所長。何年かして仲よくなったのに、センターを訪ねたら、
「所長辞められました」
という話。まだ50歳ですよ。また、その社協がやって来た仮設住宅でのお茶やおしゃべりの「友の会」。今月でおしまいです。
何かいい話はなかったのか、と言われそうですね。いい話と言えるかどうか分かりませんが、少し分かったと思うような話を、次回の「下」で書きたいと思います。

 ☆☆
白鵬休場! 場所前はいい感じだと思ってましたが、残念。とにかく身体と相談しながらの、これからの相撲人生。焦らないで、と思うだけです。
「こんな(ひどい)白鵬を見たことがありません!」
とは、言わずと知れた舞の海のコメント。オマエは何度この言葉を言ったと思うんだよ。正直に「ざまあみろ!」と言うがいい。

   柏高島屋の「白鵬展」行って来ました。

 ☆☆
久しぶりの学校でのお勤め、一応終了しました。最終日の子どもたちに感動しました。見つめる目と聞き入る顔、寄せ書きにあふれる子どもらしい言葉に、感謝感謝です。
みんなありがとう!

   今年のお彼岸は、ずいぶんと豪華です。
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六年が経ち(上)  実戦教師塾通信五百三十八号

2017-03-10 11:53:45 | ニュースの読み方
 六年が経ち(上)
     ~新聞に見るあの頃~



 ☆震災直後 - 三月☆
 明日で震災/津波と原発事故から六年になります。一体あの頃、私たちはどうしていたのだろうと思って、スクラップを見てみました。
 3月11日の後、うかつにも私は新聞の切り抜きをしませんでした。一週間ほどしてようやく始めた切り抜きを、今も続けています。今回とりあえず、2011年のあの日から秋まで、少しですが拾い上げてみました。覚えてるつもりが、もう記憶の片隅においやられていたり、分かってはいても、リアルタイムの新聞で見ると、驚くようなことばかりです。
 まず、この二枚は新聞ではありません。私が福島のいわきに着いてすぐの写真。これは四倉の写真です。いま思えば干物工場「ニイダヤ」のすぐ近くです。国道6号線は、足の踏み場もないほどでした。実はこれでも、道路が見えるだけ復旧しています。最初に動いたのは、地元商工会議所の青年部だと聞いてます。

もう一枚が、四倉を北に上がった久之浜です。幼稚園のすぐ向こうに、海沿いの通りがありますが、そこにもたくさんの車や舟がひっくり返っていました。


 ☆☆三月の新聞☆☆


「今の仲間を捨てて、旅館なんかに行けないよ」
「(避難所から)出て行ったヤツは、戻ってこないでくれ」
等という声が、被災者の間に飛び交った時期でした。
 万単位の被災者は、あふれんばかりの避難所をあとに、親戚を頼ったりもしたのですが、
「一週間もいたら、胃が痛くなって」
という方たちの話を、私はたくさん聞きました。避難所での気兼ねは、親類のところでも必要だったのです。
 そして、福島で頂点だった「恐怖」は、東日本/首都圏も覆(おお)っていました。

震災から10日後発行された『週間ポスト』のグラビアです。右側が四万円なりの「本格的装備」。左側はホームセンターで揃えられる7千円のウエア。売れたんです、当時は。下の説明部分で、京都大学の小出先生が、
「政府は『人体に影響はない』とばかり繰り返していますが、人体になんの影響もない放射性物質などありません」
と、怒ってます。

当時は、まるで作業員のエラーのような報道です。今でこそ私たちも、原発事故前には、当たり前のようにこういう環境で、作業員の人たちが仕事をしていたのが分かります。

当時の各地で観測された放射線量。浪江町は「45」という、身の毛もよだつような数字です。町のひとたちが、この一番線量の高いエリアを通って避難したことを、私たちは思い出さないといけません。放射能影響予測ネットワーク(SPEEDI)のデータを、文科省は自治体には知らせず、米軍だけ流しました。
 実は私たちの住む柏が「ホットスポット」として報道されるのは、このあとです。いわきでも「1,06」。すでに原発は、1,3,4号機が爆発しています。30万人いたいわきの人たちは、半分(自主!)避難していました。
 そして記事にあるように、国際放射線防護委員会は、事故直後に「年間被爆量の見直し」を言い出しました。いま福島では、年間20ミリシーベルトは公然の数字です。

 ☆☆☆夏~秋☆☆☆


7月の記事です。懐かしくもなんともないですが、読者も覚えていると思います。冬の電気、大丈夫でしたね。九州の川内原発が再稼働しましたが、日本での原発ゼロの実績は、積み上げられました。

それから10日あまりが過ぎて、国際的権威の日本エネルギー経済研究所が報告を出しました。さて、この検証がされた形跡はありません。20万人の失業者はどこに行ったのでしょう。それと、この記事の裏側で、『日本沈没』の作者、小松左京氏が逝去(せいきょ)したことが報告されています。

地震と津波から半年後、今度は台風が岩手県大槌町を襲いました。
 その左側の記事にも注目です。震災・原発事故で迷走ぶりをさらけ出した、民主党(当時はこの名前でした)の野田総理大臣!は、9月にはこんなことを言い出してました。
 そしてこの男は、ここから二カ月余りの後(12月16日)、なんと大胆にも、そして無責任に、
「原発事故収束宣言」
を出すのです。この発言を引き継いだのは、
「原発は完全にコントロール下にある」
と言ってオリンピックを誘致した、今の首相であることは、言うまでもありません。


 ☆☆
この記事がアップされる頃、私は福島にいます。11日は海岸でお祈りし、出来たらおばちゃんたちに会ってきます。負担にならないように、いきなり顔を出しますが、会えるかな。

 ☆☆
前号でお知らせしましたが、バイクが届きます。どうでもいいぜ、という読者がほとんどでしょうが、私は嬉しいです。維持費も重量もすっかり軽くなります。

     整備中の愛車で~す。
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技術ではなく(7) 実戦教師塾通信五百三十七号

2017-03-03 11:49:33 | 子ども/学校
 技術ではなく(7)
     ~「集団」を目的とする時の過(あやま)ち~


 1 正門

 昨年11月以来の「技術ではなく」の発行となる。この一年間、今の学校にお邪魔して感じたことを残しておきたい。

 いつものように正門前に立ち、生徒に「おはよう」と声をかけたら、
「うるせえな、バカ野郎」
という、つぶやきともつかない声が返ってきた。もちろんこれは、いま行っている学校での話ではない。私がかつて勤務した中学校での話だ。こう返されたのは教頭なのだが、このあとの感想がいい。
「あれが、あいつの『おはよう』なんだな、きっと」
普通だったら、なんだその言いぐさは、などと刀を振り上げてしまうが、違っていた。
 実はこの生徒、普段はしょうもないカッコウで、遅刻常習の生徒である。それがここのところ遅刻もせず、「普通」のカッコウで正門をくぐっている。オレは一体なにをやってるんだ、みたいなこいつの心境はありありなのだ。そんなこいつの胸の内を、この教頭は自分の中に投影させた。
 いつものように慌ただしい朝なのだが、私はこの心優しい教頭と、正門前で語り合った。

 2 「おねだり」/「評価」
 学校は、あいさつを無条件で肯定し奨励(しょうれい)する。私も別にそれを無下に否定しようとまでは思わない。しかし、教室に大きな声で「おはよう!」と入ってきた先生が、もう一度教室に入り直して、
「オマエら、元気ねえぞ!」
と、子どもたちに「お返し」を「おねだり」する姿は珍しくないし、やっぱり……いただけない。いいものはしつけるという考えでやっているとは思えないぐらい、強引な色合いを持っているからだ。おそらく、先生たちも元気が欲しいんだろう、ぐらいに私は思っている。
 いつの頃からかは忘れたが、私は朝、まるでやけっぱちのように大声で教室に入って行くことをしなくなった。決定的となったのは、中学校の教員になってからではないだろうか。
「センセイ、何そんなに熱くなってるの?」
「いま会話中。センセイ、少しうるさい」
「朝からしんどくないの?」
とでも言いたげな子どもたちの様子に諭(さと)されたのかも知れない。そうなって、
「いいや、許さん! あいさつは万人共通の礼儀だ!」
と、私は思わなかった。良かった。
 この「あいさつ」、ご存じと思うが、成績評定の項目に入っている。行動評価の欄だ。「元気よくあいさつが出来る」というやつである。正義感や責任感ならまだしも、あいさつが評価されて通信簿に記入される。中学校では「内申書に響くぞ!」などという、とてつもなく間抜けな言葉が聞こえたのは確かだ。こんなにも先生の嗜好(しこう)で左右される項目はいかがなもんでしょうか、と私は結構頑張っていたはずだ。通信簿の内容を決定する権限は、校長が持っているのである。しかしこの項目が、全国の学校でずっとそのまま修正されることなく来ている。ため息をつくのは、私だけではあるまい。

 3 あるべき姿?
 声が大きかろうが小さかろうが、気持ちよくあいさつする子はいる。そのせいで朝のスタートがまったく違う。
「ああ、気持ちいいなあ」
と心から思う。でもそれでおしまい。それでいい。あいさつとはそういうものだ。今日は元気がないな、どうしたんだろうと思い、ついその子に、元気?などと聞いてしまう日もある。でもそれでおしまい。それでいい。それがあいさつだ。
「もう一回だ、この野郎!」
「人が『おはよう』って言ってんだろ!」
こうなるのは、クラスという集団の中の「セレモニー」として、あいさつが位置づけられるからだ。

 大声をいさめ、静かに教室に入るようになった私は、ワタシいま来ました、ここにいます程度のあいさつになる。あるいは目が合った子や、そばに来る子とあいさつを交わす。それで何度となく「おはよう」が口から出て行く。そうなってみて、
「毎日元気な方がいい/みんな元気な方がいい」
という気持ちが、実は、
「毎日元気であるべきだ/みんな元気であるべきだ」
という気持ちに寄り添っていたことに気づくのだった。
 セレモニーや行事の時は別だ。あいさつにも特別な「ハレ」の姿と、毎日代わりばえのしない「ケ」の姿があるのだ。

 子どもたちは、夕方から夜、学校と違う時間を過ごし、翌朝再び、学校の門をくぐる。子どもたちはそこで、喜んでか仕方なくか、生活を仕切り直す。子どもたちは早く、あるいはゆっくりと目覚めればいい。私たちがそう思えるなら、
「『おはよう』って言ってんだろ!」
と、子どもに迫ることなく、
「『うるせえな、バカ野郎』があいつの『おはよう』なんだ」
という「間合い」を収穫できるのだ。



        手賀沼の河津桜。満開です。
 ☆☆
今日は雛祭りですね。何人かの子どもたちに「お雛さま飾った?」と聞いてみたんですが、飾っている家はひとりでした! 家にあるかどうか聞けないし、どうして?とは聞けませんでした。まだ小さい猫がいて、雛にじゃれるのが心配で、という子がひとりいたんですが……どうなっているのかなあ?


     こちらは我が家の桃?です。蕾がふくらみました。
 ☆☆
天皇陛下、今度はベトナム訪問です。私のようなものは、このことがなかったら、フランスがベトナムを再び領土とすることに抵抗しようと、戦後もベトナムに残った日本兵がいたことなど、知る由もありませんでした。すごい……

 ☆☆
もうすぐ、私の(中古ですが)新しい愛車(バイク)が来ま~す。多分、来週には紹介できると思います。春よ来~い!
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蛭田さんの話  実戦教師塾通信五百三十六号

2017-02-24 11:52:02 | 福島からの報告
 蛭田さんの話
     ~「世界初」ではなく~


 1 たわわな乳


「いやあ、あんなにアップされてると思わねえもんよ。老けたなあオレ、しわだらけなんだ~」
蛭田さんと生まれたての子牛と母親は、今月の「広報ならは」の表紙を飾った。十分にりりしく、そして生き生きとした蛭田さんだと思うのだが。また、特集を組んだのは地元の福島テレビ、そして河北新報である。

全国ネットでも蛭田牧場のことは流れたので、皆さんの中にも、新聞やニュースで目にした人がいるかも知れない。
 去年の夏、やっとの思いで買いつけた5頭からのスタート。

そして今の蛭田牧場である。36頭になったそうだ。はち切れんばかりの乳の牛もいる。



 
 向こうでのんびり昼寝中の牛が2頭。近づくと、そのうちの一頭は去年の夏はドーベルマンぐらいの大きさの子牛だった。もう立派な大人になっていた。立ち上がってこちらにやってくるので、手を伸ばすとなめてくれた。

 かたわらでサイロに牧草を入れている。


 2 「そっちに流されたらダメだと思ってね」
 蛭田さんところの乳は、農協牛乳のブランドで製品化され市場に出る。しかし、
「これは純然たる『蛭田牛乳』ですよ」
と、出来立ての牛乳を振る舞ってくれた。

私は「冷たい」方もおねだりし、ご馳走になった。これが苦節5年10カ月の味だとか、やっぱり濃い!などと思うこともなく、私は、
「美味しい」
「美味しい」
と言って、次々飲んでしまう。私のようなものがなんと言おうと、安っぽいのは確かだった。
「乳脂肪分を薄くするわけには行かない、そればっかり思ってました」
楢葉を追われ、その間は臨時の仕事に就いたり、除染作業もやったという。その間も牛や牧場を考えて、何度も自分を追い込んだのだろう。でも、そんなことに蛭田さんは一切触れない。どうせ分かってもらえないことだ、それを分かってもらおうとする暇があったらやらないといけないことがある、蛭田さんはそんな風に思っているのかも知れない。
「『復興』って言葉もねえ、そんなものに浮かれてたらダメだと思って」
「メディアが一気にやってきて、旧警戒区域での酪農再開は『世界初』とか言ってくれるんだけどねえ……」
オレも同じことを口走ってたんじゃないか、私はハッとする。どこまでも慎重に語る蛭田さんから、思わず目をそらしてしまいそうだ。
「放射能がないってのは『当たり前』。そんな『普通』のことを『大変』とか『自慢』の種にしたくない」
こういう人を目の当たりにしていることに、私はありがたいと思わないわけにはいかない。こういう人がいるのだ。

蛭田さんが立つすぐ横に耳しか見えないが、生まれたての牛(乳牛ではない)の赤ちゃんが見えますか。
「メディアは出産のところを撮りたがるんだよねえ」
という蛭田さんだ。私たちが牧場に着いたころ、ちょうど生まれたらしい。蛭田さんが気づかない間の出来事だった。人が手伝って引っ張りだすのをよくテレビなんかで見るが、
「和牛は小さいから、大丈夫なんだよ」
ということだった。
 牛の赤ちゃんは、まだ立てない前足をぶるぶると震わせながら、一生懸命伸ばそうとしている。母牛がじっと見守って、時折励ますようにモ~と声をかけるのだった。

 3 「仲村トオルと同じだよ」
 蛭田牧場をあとにして、私は渡部さんのダンプの中でつぶやく。
「メディアを利用しようって人たちもいっぱいいたのに」
「どうしてあんなに地道に考えられるんだろう」
渡部さんが言った。
「きっと仲村トオルと同じだよ」
私は、え?と運転席に目を向ける。
「(仲村トオルは)カメラも連れて来ねえしよ」
「目的はそういうんじゃねえんだってことじゃねえか」
「きっと前の生活を取り戻したいだけなんだよ」

ああ、渡部さんもそうなんですよねと、私は思った。


 ☆☆
学校の体育は、今サッカーです。子どもを遊ばせ子どもと遊ぶ、球技はその両方を約束してくれる。楽しいですねえ。相手をスルーする楽しさを、ボールをピタリと止める快感を、ちっちゃい子でも味わえる! 若い先生たちも一緒にやろう!と挑発してます。

 ☆☆
その体育が雨にたたられて、DVD鑑賞とあいなりました。私になにか仕事はないですか、の結果、職員室でマルつけ。すると、
「先生、今日は『空き』ですか」
と同じく「空き」の先生に、にこやかに声をかけられました。そうか、オレは今「空き」なのか、きっと初めてで最後の「空き」。現役を思い出させる、強烈な響きでした。
懐かしい!
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