言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

嵯峨天皇のいのり、空海のおもかげ ②

2016-10-01 09:29:05 | 言の葉綴り
言の葉 18 嵯峨天皇のいのり、空海
のおもかげ ②
古寺巡礼 京都|28 大覚寺 淡交社 平成20年12月発行 監修 梅原猛
巻頭エッセー 宗教学者 山折哲雄著
嵯峨天皇のいのり、空海のおもかげ
より抜粋 見出しは当方にて附す

観月会の写真(同書より)
旧暦8月15日、大沢池を中心に催される中秋の名月を愛でる観月の会




その4 〈真言院とは何だったのか〉
天皇と空海の生前の記憶が宸殿と五大堂に深く刻まれつづけてきたことは、まず疑うことができない。なぜそうかといえば、いま私の眼前には、かっての宮中におけるあの象徴的で劇的な光景が蘇っているからだ。ときは承和元年(八三四)、空海がこの世を去る前年のことである。
この年、空海は宮中に年来の悲願であった「真言院」という密教道場を建てることにやっと成功している。嵯峨天皇はすでに譲位して上皇になっていたが、空海は天皇の一貫した支援のもとにこの計画を実現にこぎつけたのである。そこにいたるまでの空海の足跡を、天皇とともにもういちど追ってみよう。
大同四年(八〇九) 嵯峨天皇即位
弘仁七年(八一六) 空海、勅許を得て高野山を開創する。
弘仁九年(八一八) 空海、「般若心経秘鍵」を講義し、天皇、「般若心経」を書写する。流行していた疫病がやむ。
弘仁十四年(八ニ三)天皇譲位(淳和天皇即位)。空海、勅許を得て東寺を開創する。

この年譜からわかるように、空海が死の前年になってようやく宮中の中心部に真言院をすべりこませることに成功したのは、高野山に真言密教の足場を築いてから十八年、京都の前戦基地として東寺を建設してから十一年、という時点においてであった。それはまさに、空海にとっては生涯をかけた総仕上げの事業だったのである。
それでは、真言院とはそもそも何だったのか。その内部構造をのぞいてみよう。真言院の全体は、いくつかの付属施設を含む複合的な殿舎になっていたが、その中核部分が密教儀礼をおこなう「壇所」と称するところだった。南面して東西にのびる建物である。東側の壁面に胎蔵マンダラ、西側に金剛界マンダラを掛け、それぞれの前に護摩壇を設けている。さらに東側の廂には十二天の画像が掲げられている。
その壇所の北壁をみると、五大明王の尊像が横並びに配置されている。向かって右から金剛夜叉、降三世、不動、軍荼利、大威徳の順だ。中央尊は例によって不動明王である。その全体を称してとくに「五壇」という。この殿舎を壇所と呼ぶゆえんである。
ここでとくに注意しなければならないのが、不動明王とちょうど対面する形で、南壁の中央に「御加持座」と称する特別の場が設けられているということだ。天皇ご自身をそこに招き、その玉体にむかって加持祈祷をおこなう座席という意味だ。マンダラを礼拝して護摩を焚き、真言陀羅尼を唱えて、不動をはじめとする五大明王の霊威の発動をうながす。五壇のカリスマに祈願を捧げておこなう玉体加持にほかならない。これはやがて「五壇の御修法」と呼ばれるようになるが、要するに玉体の安穏と天皇家の安泰、さらには鎮護国家と五穀の豊穣を祈願する国家的な儀礼をめざすものだった。
(略)

その儀礼的な記憶が、大覚寺においては五大堂の内陣と荘厳の中に揺曳している。宸殿から歩みでて、五大堂の御加持座に座る嵯峨天皇の姿が彷彿する。その面前で護摩を焚き、真言陀羅尼を唱え、五大明王に祈りを捧げる空海のイメージが、時空をこえてこの嵯峨野の地に浮かびあがってくるのだ。
このように私が幻想するのには、それなりにわけがある。それがたんなる妄想でないことを明らかにする根拠がある。かっての内裏の心臓部に建てられていた真言院の、戦略的ともいうべき位置づけがそれだ。
それというのも、その真言院の建物がちょうど紫宸殿(および清涼殿)と並ぶ内裏の中央部に建てられていたからである。天皇がいつでもその居所から最短距離を歩いていける場所にあったということだ。この紫宸殿と真言院の関係が、大覚寺の建築プランにおいてそのまま宸殿と五大堂に反映している。そして今日の大覚寺・宸殿の南側には、内裏・紫宸殿の南庭にあたる広々とした庭がつくられているではないか。左近の梅・右近の橘までが、内裏の南庭を飾る左近の桜・右近の橘を模している。
大覚寺を大覚寺たらしめている本来の中心軸が、まさに宸殿と五大堂に投影されていることが、ここからわかるであろう。それは何よりも、空海と嵯峨天皇の親密な交流に端を発し、内裏の中央に設置された真言院の政治的意図を、ひそかに嵯峨野の地に継承しようとするものだったのである。

五大堂 当方、今年7月13日訪れた折の映像



その5 〈心経殿の創出〉
この宸殿と五大堂の並立は、はたしてそれだけで一個の独立した寺としての結構をそなえているといえるであろうか。おそらくそうはいかなかったのではないか、と私は思う。なぜなら五大堂は、いってみれば真言院の「壇所」を別置したものにすぎなかったからだ。宸殿もまた、「紫宸殿」をたんに縮小したミニチュア版にすぎない建物とみられないこともないからである。そういう点では、五大堂も宸殿もともに、付属的な建物としての機能しかもちえていないといってもいいだろう。
こうしてそこに、心経殿の創出という新しい発想が登場してきたのではないだろうか。真言院(密教のシンボル)と紫宸殿(内裏のシンボル)の二つの機能を統合する、もう一つ高次の礼拝対象としてのシンボルの設営である。大覚寺という独立した伽藍を真に誕生させるための魂入れの工夫だった。それが嵯峨天皇によって書写された「般若心経」を祀りあげることだったのだ。
「般若心経」の日本への伝来は奈良時代にさかのぼる。法相宗の僧・玄昉が唐からもち帰った経典の中に、それはあった。天平三年(七三一)、光明皇后が発願し法華寺の境内に写経所が設けられて、写経の事業が本格的にはじまったのである。
いつごろからか玄奘によって翻訳された二百六十ニ文字の「般若心経」が尊重されるようになった。さきの玄昉と同じように唐から帰朝した空海が『般若心経秘鍵』を書いたのも、そのような時代の流れの中においてであっただろう。
こうして、大覚寺の心臓部分に礼拝本尊として「心経殿」をすえる構想が自然にできあがっていったのではないだろうか。その心経殿を礼拝する殿舎として、嵯峨天皇と空海の御影(肖像)を安置する御影堂が建てられたのである。
その御影堂の内陣からは、「般若心経」を唱えつづける天皇と空海の肉声が今もきこえてくるようだ。

心経殿 同じく、7月13日訪れた折の映像


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