ことこと愛する日々

『ことことカフェ』@よしだあゆみのつれづれ日記
   kotokotocafeayumi@mail.goo.ne.jp

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連載[7] 宿命とは?

2008-09-01 14:23:43 | 腎臓病のこと(連載)
 連載形式でここまで書いてきて、ようやく腰の座りがよくなった気がしています。
 ブログを書き始めたはいいけれど、やはり病気のこと、特に父への葛藤のことを書かないままでは、いちばん大事な‘肝’の部分を避けて通っているような気がしていました。

 どういう経緯で自分が‘支配者’だったと気づいたのか、なぜ愛することの初心者なのか、なぜ「ことこと愛する日々」なのか。そして、『ことことカフェ』のコンセプトとやっていきたいこと。そのあたりのことも、これでさらに詳しくお伝えすることができたかなと思っています。

 病気へのネガティブな想いや父への想いをブログに書くことで、両親を傷つけてしまうのではないかと、ずいぶんと迷いました。
 けれども、いまは父と同じ遺伝子で生まれてきた意味を納得でき、愛に生きるくらしをメインテーマに据えることができたのだから。自分の至らなさも受け容れ許すことができたのだから。
 これもすべて両親が無条件で愛してくれたおかげで気づけたのだから、その過程を本心をごまかすことなく書きたかった。両親ともっとわかり合うために、もっと慈しみ合えるようになるためにも書こうと思いました。

 また、同じように親御さんと同じ病気になったことで苦しんでいる方たちや、腎臓病をはじめいろいろな難病・慢性病と共に生きている方たち、病気の家族をもった方たちや、病気ではなくても親から受け継いだ体質や性質(性格も含めて)で苦労している方たちへのエールになったらよいなぁという想いもこめて書いています。
 わたしの拙い体験談が読んでくださった方の心に触れ、少しでもお役に立つことができたとしたら本当にうれしく思います。
 感じ取ってくださったことをメールやコメントで読ませていただけると、お腹の底からよろこびとエネルギーが湧いてくるのを感じます。病気への不安や疲れなども吹き飛んでしまいます。
 同じ時代のこの日本で生かされているどうし、一緒に楽しく生きていきましょうね!
 心からのエールを送らせていただきます!!

 このような体験を通じて、「宿命」ということについてもいろいろと考えるようになりました。
 たどり着いた答えは、至ってシンプルなものでした。
 「宿命」とは「命が宿る」と書きます。宿命とは命が宿っていること、すなわち「生きていることそのもの」だということです。
 「生きていることそのもの」を味わうために、人は宿命を背負って生まれてくる。いま生きている人はすべて、何らかの宿命を負って懸命に生きている、生かされているのだと思います。
 そう思うと、すべての人の人生が尊く愛おしく感じられます。「生きること」はほんとに素晴しいですね。

 宿命や運命について考え、連綿とつづいてきた命の連鎖に思いを馳せ、出逢うことが決まっていたと感じられる夫との関係を思うにつけ――次第に、たましいのことや輪廻転生、因果応報のこと、死後の世界や目に見えない世界のことについても興味をもつようになりました。
 これは、わたしにとって本当に自然な流れでした。
 病気や父との関係、夫との関係を考える延長線上に、スピリチュアルなことについても考えるように(感じ取っていくように)なること。これはきっと、初めからプログラミングされていたのだろうな、とさえ思えます。
 心理的な自然の流れのなかで、2005年の秋頃から目に見えない世界のことについて少しずつ興味をもつようになり、「愛する」ということについてもようやくわかってきた昨年。
 そして、ことしに入ってから、自分のなかだけで考えたり想いを馳せていたことが、いろいろな人と交流することによってさらに彩りを増して意味深く感じ取れるようになってきました。

 このあたりのことについて、また少しずつ連載で書いていきたいと思っています。

 いつも読みにきてくださり、ありがとうございます! 心から感謝いたします。
 よろしかったら、これからもどうぞお付き合いくださいませ。
 愛と感謝をこめて――。
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連載[6] お父さんの子でよかった

2008-08-26 21:29:22 | 腎臓病のこと(連載)
 病気がみつかってショックを受けたものの、のちに夫となる彼と出逢うことができたわたしは、生きる希望がみつかったとばかりに彼との関係にのめり込みました。
 幸いにも彼のほうもわたしのことを気に入ってくれて、お付き合いをはじめることができました。
 付き合いはじめると、なにかずっと昔から彼のことをよく知っていたような、ずっと前からこうして一緒にいたような感覚に陥りました。それを話すと、彼のほうも「おんなじことを感じてた」と言われたりしたものでした。
 付き合えば付き合うほど彼のことが好きで好きでどうしようもなくなり、この人とずっと一緒にいたい、結婚したいと思うようになりました。
 
 仕事のほうはといえば、念願だったライターへの道もあきらめなければいけないのかな、と落胆していました。腎臓病のハンドブックなどを読むと、慢性腎不全レベルになったら重労働やフルタイムの仕事は避けて軽作業や家事ていどの仕事にしましょう、などと書かれてあったからです。
 でも、病気だからって夢をあきらめたくない、どうせ一度きりの人生なんだから挑戦してみたい! という想いでやってみようと決め、それまで勤めていたソフトウェア会社を辞めました。
 この決心ができたのも、彼が背中を押してくれたおかげでした。

 夜間の専門学校時代の友人が編集プロダクションに就職していたので相談したところ、抱えていた仕事の一部を回してくれることになり、幸運にも初めからフリーライターとして仕事を始めることができたのでした。
 それにしたって、初めからフリーで仕事を始められたのは、実家に住んでいたからできたことです。父と母が元気で(父は透析を受けながらでも)働いてくれていて、食べることには困らない状況だったから叶った夢でした。

 連載[5]で、病気になってしまったことへの負の感情を両親にぶつけることはできなかった、と書きました。けれども正確にはまちがいで、わたしは十分ぶつけていたのです。
 (病気になっちゃったんだから。大事に扱ってよ。)
 直接言葉にこそしなかったものの、こうした想いを無言のうちに両親にぶつけて責めつづけていたのだと思います。日々の生活のなかでの傲慢な態度と、敬意に欠いた物言いで。両親や妹に対する思いやりや感謝もいちじるしく欠けていました。

 父と母と妹はそれでも一言も文句を言わず咎めることもなく、わたしを大事にしてくれました。
 母は家のことを手伝ってと言うこともなく、つねにわたしの体調を気遣ってくれました。わりときびしい食事療法をしなければならなかったのですが、毎日の食事を作るのはほとんどが母。わたしは作ってもらった食事の栄養を「腎臓病食品交換表」で計算して記録をし、こうして・ああしてと指示していただけだったように思います。
 父とは直接病気のことを話すことはあまりなかったものの、好きなことをするのはいいけど無理はしていないか根を詰めていないか、といつも心配してくれていることが母の話から伝わってきていました。
 
 けれどもわたしは、父のそうした愛情に無頓着でした。
 彼との関係にのめり込み、依存症と思えるほど甘えるようになったのも、胸のうちに父への複雑な感情を抱えていたからです。

 ものごころついた頃から、わたしは父に対して心から甘えられないところがありました。
 遠い記憶のなかで覚えているのは、父にものすごい勢いで叱られて引きつけを起こすほどわんわん泣きわめいている記憶です。父に叱られると恐ろしい、という記憶。
 また、何か気に入らないことがあると母に対して怒鳴っている父をよく見ていたので、幼いながらもその理不尽さに納得がいかなかったり、怒らせると恐い人、という想いが幼い頃からありました。そして、病気がちになり体が思い通りにならないとイライラを母にぶつけていた父の姿を見て、病気だからしょうがないと頭ではわかってはいても、母が可哀想だという想いをずっと持っていました。

 父への幼い頃からの恐怖心、甘えたくても素直になれないかたくなな心、母を怒鳴っていたことへの憤り……そこに、さらに病気のことが加わりました。
 父の病気(体質)が遺伝してしまったことで、病気のことに対する父への恨みがましい気持ちが合わさって、父への想いはさらに複雑な二重構造になっていました。
 病気になってしまったことで父の病気のつらさは理解できるようにはなったし、父だってなりたくて病気になったわけではない、母から(わたしからみると祖母から)の遺伝でなってしまったのだから父を恨んではいけないとわかってはいても、腹の底では納得できなかったのです。父から病気が遺伝してしまったことが、とても悔しかった。
 だから父に甘えられない分、彼に対する依存心と甘えは根が深いものでした。

 彼とは本当にご縁があったのだと思います。子どもが産めないかもしれない持病があることを承知で、彼は結婚しようと言ってくれました。彼の両親や弟たちも、結婚に反対することもなく嫁として家族として受け容れてくれました。

 病気がみつかってからも、ライターになることができ、好きな人と結婚することができ、念願の本を2冊も出すことができ、夢だと思っていたことをどんどん叶えることができました。彼と家庭をもち独立して、食事療法や家事も自分でやりくりするようになり、病気のことも彼の支えで乗り越えてくることができました。

 それでも、どこかでつねに満たされない想いがありました。
 人間関係でつまずいたのも、相手の人の感情を受け止めることが恐くて本音を言えず、逃げてしまうことが原因でした。

 けっきょくは、父に対する葛藤の問題にいきつきました。
 7年間の内省のあいだに、わたしはずっと父との関係、父への感情について考え、向き合ってきたのだと思います。

 父からものすごく叱られて泣きわめいていた記憶――その原因となった出来事を去年のある日、突然思い出すことができました。これはわたしがとても悪いことをしたからなのです。それは叱られて当たり前! というようなひどいことをしたせいで叱られていたのだと。そのことをはっきりと思い出しました。父はわたしに対しては、正統な理由がないかぎり、頭から叱りつけるようなことはしない人だったということを。

 また、そうしたくないのに母を怒鳴ってしまった父の気持ち、体が思い通りにならない苛立ちを配偶者にぶつけてしまう気持ちも、まったく同じことを自分も夫にしていたことに気づき、あぁ、父もこういう気持ちだったんだ、こういう弱いところがあったんだと、その心理を肌身で自分のこととして理解することができるようになりました。

 そうして内省していくうちに――
 父と同じ体質で生まれてきたのは、父と同じ病気になって父と同じ苦しみを肌で感じ取り、わかり合うため。父という人を受け容れ=自分を受け容れ、父を許し=自分を許し、父を愛し=自分を愛するようになるためだったのだと気づいたのでした。

 同じ病気になったのは、父と同じ苦しみを体験するため・理解するためと書きましたが、わたしには一生かけてもわからないことがあります。
 それは、子どもに(しかも娘ふたりともに)自分の病気が遺伝してしまったという苦しみ、悲しみ、悔しさ、やり場のない怒り、罪の意識……父のこのやりきれない想い、苦しみの深さは、子どものいないわたしには想像することはできても、肌身でわかってあげることはできないということです。そういう意味では、わたしや妹よりも父のほうがはるかにつらいと思います。

 だから父のためにも、わたしは毎日を楽しく幸せにすごしたいと思うのです。わたしの幸せが父と母の幸せにつながり、自分を本当の意味で愛することが父を愛することにつながり、夫を本当の意味で愛することにつながっていくのだと思っています。

 もとより、わたしは生まれた瞬間から、父に無条件に愛されてきました。父はわたしをずっと手放しで愛してくれていたのに、それを表現することが上手でなかったため、わたしが感じ取れていなかった、感じ取ろうとしていなかっただけでした。
 病気がみつかる前から、わたしはじゅうぶんに父から母から妹から愛されていました。それが当たり前になってしまって自覚さえできないほどに……。

 わたしが父と同じ病気になる「宿命」で生まれてきたのは、愛を知るためでした。
 両親や妹から無条件に愛され、夫や友だちに愛を注いでもらい、ご縁のあった方たちから大切に想っていただいていた――。そのことを長い歳月をかけて噛みくだいて、ようやく愛を知ることができたほど、わたしは「愛する」ということがどういうことなのか知らなかった、わからなかったのだと思います。
 愛を深く知るために、病気と子どもが産めないという体験をすることになったのだと、いまは思っています。

 いまは、心の底から「お父さんの子でよかった」と言えます。

 お父さんの子に生まれてきて本当によかった!!

 本当の愛を教えていただくことができたからです。
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連載[5] 家族のスタイル

2008-08-23 00:06:30 | 腎臓病のこと(連載)
 25歳になったばかりのある日、腎臓病がみつかりました。腎機能はすでに3分の1になっており、近い将来透析になることも覚悟したほうがよいと言われてしまいました。

 透析生活を8年間つづけてきた父が言ってくれた、
「しっかり受け止めなさい、受け止めるしかないから」
 という言葉は、大きな説得力をもって心に響いてきました。
 そうなんだ、受け止めるしかないんだ、この現実を。

 同時に、なんて前向きな両親なんだろうと、妙に感心もしていました。
 娘がこういう状況におちいっても、すぐに気持ちを切り替えられるような言葉で励ましてくれる。力になってくれる。前向きなんて言葉では足りない。超・超前向きな親! でも、そうやって超前向きになって現実を笑い飛ばしでもしなければやってこられなかったとも言えます。
 父も母と同じく、わたしの前では気丈に励ましてくれたけれど、夜ひとりになったとき、あるいは母の前では泣いたのではないかと思うのです。娘に遺伝してしまったやりきれなさや罪の意識で……。それでも、つらいことも苦しいことも前向きに考えて笑い飛ばして乗り越える。それが父と母の、わたしの家族のスタイルだったのだと思います。

 けれども、父が階下におりて一人きりになってしばらくすると、ふたたび感情がこみあげてきました。
 とにかく、どうして、どうしてわたしだけ? という理不尽な想いと、悔しさ、悲しさ、やりきれなさ、病気への怒り、憎しみ……。
 受け止めることなんてできるわけないよ! と思いました。

 同時に、両親へのなんともいえない恨めしい気持ちが湧いてもきました。
(こうなる可能性があったなら、なんで早いうちに血液検査をしなさいとか言ってくれなかったの?! どうして食事にもっと気を遣うとかしてくれなかったの?!)
 25歳にもなって大人になっているにも関わらず、わたしは病気になったことを父のせいにし、体調や健康の管理ができなかったことを母のせいにしてしまいたかったのです。
 両親の前では心配をかけるから泣いてはいけない、と自分を必死に保っていたけれど。それは、自分のなかのドロドロの感情を両親にぶつけてしまったら、そのことで父や母が徹底的に傷ついてしまうのを見るのが恐ろしかったからです。傷ついた両親を受け止めることはとてもできないと思ったからです。

 今になって一つだけ思うのは、あのとき、ありのままの感情――悔しさや悲しさや理不尽な想い、両親への憤りまですべて――をぶちまけてしまったほうがよかったのかもしれないということです。
 ドラマのシーンによくあるように、両親の胸に飛びこんでこぶしで叩きまくり泣きわめいていたら……。
 両親はきっとわたしを抱きしめて、つらいね、悔しいよね、と一緒に泣いてくれたのでしょう。
 父は理不尽な病気にどれだけ悔しい想いをしたか、それでも体と心を保つためにどれだけ歯を食いしばってがんばってきたかを。母はそんな父を支えるためにどれほど苦労し、どんな想いで娘たちを守ってきたかを語ってくれたでしょう。
 早く気づいてやれなくてごめんね、と泣いて謝ってくれたのでしょう。
 そこでおたがいにカタルシスを感じることができたのかもしれません。

 でも、わたしはあのとき、両親に感情をぶつけることはできませんでした。
 それがわたしたち家族のスタイルだったから。負の感情が湧いたとき思ったことをそのまま口にして相手にぶつけたり、ドロドロの感情を人前で見せるということを(とくに母は)しないようにしてきた家族だったから。そういう想いは胸にしまって笑い飛ばし、明るく前向きに生きてきた家族だったからです。
 わたしは今でも母が中心になって築いてきた家族のスタイルが好きだし、誇りにも思っています。だから、あのときの自分はああするしかなかったし、あれでよかったのだと、心から思っています。

 ただ、このスタイルには弱点があります。家族全員が明るく前向きになることで、本当の(とくに負の)感情をさらけ出せなくなり内側に溜め込むことになること、自分自身さえも騙し騙しいくようなかたちになること、の二つです。
 わたしも、おそらく両親も、のちには妹も、病気に関してはこの弱点の部分でそれぞれに苦しんだのではないかと思っています。さらけ出しぶつけ合ってしまえれば、少しは楽に生きられたのかもしれないし、おたがいにもっと深くわかり合えるのかもしれないとも思うのです。

 (さらに言えば、この弱点がわたし自身の人間関係をつくる上での最大の弱点になっています。相手に対する負の感情や相手にとって耳が痛いような本音をぶつけることができないのですね。(それが相手にとってはマイナスだとか耳が痛いことではないかもしれないのに。相手の反応が恐くて本音を言えないのです。)だから、ときに本当の感情をごまかして無理に合わせようとしてしまう。この弱点のために人間関係で失敗したことが何度かありました。これはわたし自身の大きな課題です。)

 そんなわけで、病気に対する怒りや負の想いを両親にぶつけなかったかわりに、病気と共存するありのままの自分を受け容れるかわりに、病気には負けない! 健康な人にだって負けてたまるもんか! 同じくらい、いやそれ以上のことをしてみせる! というエネルギーに変えて突き進むという道を、わたしは選ぶようになったのでした。
 そうして気を強くもつことで自分自身を保つことができたのだと思っているし、負けずぎらいパワーで乗り切ってきたことは数え切れないほどありました。

 けれども、あの頃のわたしはもっと大切なことに気づいていなかったのです。
 病気をもらったかわりに、多くの学びやギフトがもたらされていたことを。
 病気がみつかる前もみつかってからも、たくさんのあふれるような愛に囲まれていたことを。
 愛に生きるくらしを人生のメインテーマに据えることができれば、病気や子どもがいないことなどはマイナスにはならない、ということになかなか気づけなかったのですね。

 わたしにとって最も大きなギフトが、のちに夫となる彼との出逢いでした。
 病気をいただいたおかげで、わたしは彼と出逢うことができ、彼と人生をともにするという幸せをいただいていたのでした。

 つづく――。
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連載[4] 宣告の日

2008-08-21 15:13:28 | 腎臓病のこと(連載)
 SEとして働いていた25歳のとき、とつぜん足の親指の付け根が赤く腫れ、激痛におそわれました。少し前から、ヒールを履いたときなどに痛くて外反母趾かなと気になっていたところでした。
 その頃は仕事が忙しく、午後十時すぎまで残業をして帰ってくることがほとんどでした。それに加えて、文章を書く仕事=ライターになりたいという気持ちが大きくなっていた時期でした。
 書いたものを読んでもらって人と交流したいという気持ちと、人さまに読んでいただける文章を書く練習も兼ねて、当時、友人知人50人くらいの人に宛ててミニ新聞を作って発行していました。
 仕事から帰ってきてからと休日の時間を使ってミニ新聞を作っていたので、体に相当無理がかかっていたのではないかと思います。体は何度も注意信号を出していたと思います。それでも、夢を叶えたいという想いのほうが強かったため、体からの信号に気づけませんでした。うすうす気づいてはいても見て見ぬふりをしていたというのが本当のところです。
 とうとう体が悲鳴を上げ、症状になってあらわれました。

 そのときすでに父は透析を受けており、透析生活8年目くらいの時期でした。
 わたしが痛みを訴え、赤く腫れ上がった足の親指を見せたときの両親の反応を、今でも覚えています。父が透析になる前にも同じ症状が出たことがあったからです。
「俺と同じか?」
 父は一言呟き、
「そうだね、お父さんもあのときこんなふうに赤く腫れたよね、痛風だって言われて。痛い痛いって言って氷水で冷やしたじゃない?」
 母もそう言って、わたしの患部に触れてきました。
「痛いっ! ちょっと触るだけで痛いんだから」
 叫びながら足をひっこめました。患部は真っ赤に腫れて熱をもち、指でちょっと触れるだけでも針で突き刺されたような激痛が走り、床におろすこともできないほどでした。
 わたしも思い出していました。父も同じように、痛い痛いと苦しみながら洗面器のなかに足を入れて氷水で冷やしていたときのことを。
 たしかに同じかもしれない……。両親も同じ気持ちであることは伝わってきました。
「痛風かもしれないから、すぐ病院で診てもらってきなさい」

 大学病院で診てもらうと、やはり血液検査で尿酸値が異常に高く、痛風の発作であることがわかりました。
 さらに、腎機能がすでに3分の1にまで下がってしまっていること、ここまで悪くなっていると完治はむずかしい、いま持っている腎機能をなるべく維持していく保存治療をしていくことになるが、いずれ透析になるかもしれないということを、当時の主治医に言われました。

 診察室を出たわたしは、待合室の長椅子にぼんやりとしたまま座り込みました。
 やっぱりそうだったんだ……という想いとともに、
 (もうそんなに悪くなっていたなんて……。どうして?! なんでこんなに悪くなるまで気づけなかったの?!)
 父を見てきたので、腎臓病がどのような症状が出てどのような過程を経て透析になるか、そして透析の大変さもよく知っていました。
 (あたしもお父さんのようになっていくの?)
 お腹の底から突き上げるように想いがこみあげてきました。周りに人がいるのに、涙がとめどなくあふれてきて、どうしていいかわからなくなりました。驚き、疑問、怒り、悔しさ、戸惑い……いろいろな感情がこみあげてきて、とても混乱しました。

 けれども会計を済ませて薬をもらい車のハンドルを握った頃には、わたしは気持ちを引き締めていました。
 帰ったら、このことを報告しなければならないのだから。しっかりしよう! しっかり! と自分に言い聞かせて、車を運転して帰りました。

 帰宅すると、父は透析クリニックの通院日だったので、母だけが家にいました。
「どうだった?」
 居間に入っていくと、母はすぐに訊いてきました。
「うん、やっぱり痛風だって。痛風用の薬、もらってきたよ。あと、腎臓がかなり悪くなってるって言われた」
 母の表情が一瞬にして曇りました。大きなため息。
「やっぱりそうだったんだねぇ……そうじゃなきゃいいなと思ってたけど……。なに、そんなにもう悪いって言われたの?」
 わたしは血液検査の結果票を母に差し出しました。
「クレアチニンが普通は0.9までらしいんだけど3.3だから、もう3分の1しか機能してなくて腎不全の状態なんだって」
「え、もう3分の1……」
 母はじっと検査の結果をみつめていました。母にはクレアチニン3.3がどのくらいのレベルの数値なのかがわかっています。
「急にそうなったわけじゃなくて少しずつ悪くなってきただろうから、あとは薬と食事でいまの腎臓が悪くならないようにするしかないんだって」
「そう……そんなに悪くなっているの、わからなかったねぇ・・・」
 母のため息のあと、沈黙が流れました。
「しょうがないな、なっちゃったものは。でも、痛風で出たからこれくらいでみつかったんだから。お父さんなんか急にクレアチニンが15くらいに上がって倒れたんだから。それを考えたら、まだよかったんだよ。大事にしていけば、ね」
「うん、そうだね」
「薬を信じて飲んで、食事もきちんとやっていけば、きっとよくなるよ」
 どんなときでも母は明るく前向きに物事を考える人で、何でも笑い飛ばしてしまうところがあります。そんな母の励ましの言葉で、わたしも少し前向きな気持ちになってきました。
「そうだよね、まだ治る可能性がないわけじゃないんだし、食事も言われた通りに気をつければよくなるかもしれないもんね」
 それからしばらく、ここのところ食べすぎていたことや疲れていたことなど、症状が出た原因で思い当たることを母と話し合いました。母は、食事づくりのことはやるからどうすればいいか教えて、ということと、これからは無理をしないようにしなさいね、と言って、また励ましてくれました。

 母と話しているときは一瞬前向きになれたものの、二階の自分の部屋に戻ると、母の前では抑えていた感情が一気に噴き出してきました。
(なんでこんなになるまで気づかなかったんだろう?! こんな若いうちから治らない病気になっちゃって! まだ25だよ、あたしの人生、まだまだこれからなんだよ! なんで? なんで何も悪いことしていないのに、なんであたしだけ?!)
 あとからあとから感情がこみ上げてきて、ベッドに倒れ込み、突っ伏して泣きました。階下の母に気づかれないように、枕に顔を当てて声が漏れないようにして……。

 泣き疲れてぼんやりしていると、透析から帰ってきた父が階段をあがってくるのがわかりました。わたしは急いでテレビをつけ、前から見ていたふりをしました。落ち込んでいるところを父に見せたくなかったからです。
 父が部屋の戸を開けて、
「やっぱり悪くなってたって?」
 と、声をかけてきました。
「うん。クレアチニンがもう3.3になってるって。痛風の薬をもらってきたよ」
 わたしはテストの点数を報告するような感じで、淡々と言っていました。
「そうか、もうそんなに悪くなってたか・・・気づかなかったな……。俺は40後半からだったからな、そんなに早く悪くなるとは思わなかったな」
「うん」
 わたしは父の顔が見られず、視線をそらしてうなずきました。
「悔しいよな、父さんも思ったよ、何も悪いことしていないのにな。なんでだろうってなぁ・・・」
 父とわたしのいる空間は、一瞬途方もなく悲しくやりきれない空気に包まれました。返す言葉がみつかりませんでした。
「母さんがさっき泣いてたよ。あゆみもなっちゃったかって……」
 母が泣いている・・・さっきはあんなに明るく前向きに励ましてくれたのに、心のなかではそんなに悲しんでいる。父の病気で苦労してきた母に、わたしの病気でまた心配や苦労をかけてしまうことになる・・・。
 ふいに喉の奥からこみあげてくるものがあり、涙があふれてきそうになりました。でも必死で涙をこらえました。父の前で泣いたら父も傷つく、泣いちゃだめ、そういう自制心がはたらきました。
「でもしょうがないな、なっちゃったものは!」
 沈黙をやぶるように、父が明るい声で言いました。
「もうなっちゃったもんはしょうがないから。あとは無理しないでいまの腎臓を大事にして。だいじょぶだよ、まだ若いんだから、よくなる可能性だってあるし、まだまだ持つよ」
「うん、そうだね、がんばればよくなるかもしれないもんね」
「うん。まあ、だけどなぁ・・・俺もいろんなことやってみたけど、透析になっちゃったからなあ。何やってもだんだん悪くなっていっちゃうんだよな。お前もいずれ透析になるかもしれないから。それも覚悟しておいたほうがいいな」
「…………」
「でもな、あゆみが透析になる頃には今より進歩して、いい方法ができるかもしれないしな、家で透析ができるようになるかもしれないから。医学はどんどん進歩しているから。まぁあんまり気を落とさないで」
「うん」
「しっかり受け止めなさい。受け止めるしかないから、な。あんまり無理しないで大事にしてやっていきなさいよ」
 父はそう言って、最後は笑顔さえ浮かべると、階下へおりていきました。

 つづく――。
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連載[3] 水飲みっ子

2008-08-14 19:17:01 | 腎臓病のこと(連載)
 父は、ことしで透析生活25年目。大ベテランです。
 わたしは腹膜透析から数えると8年目。妹も現在、腹膜透析をしています。
 父方の親戚のなかには、ほかにも同じ病気の人が何人かいます。

 25歳のときに腎臓病がみつかり、検査の結果、わたしの病気は遺伝性の腎臓病であることがわかりました。
 その後、当時の主治医のチームは、原因を調べるために父の故郷へ出向き父の兄弟や親戚の血液を採ってきたりしながら、研究をつづけてくれていました。
 2001年の遺伝子解析の結果、父やわたしや妹の遺伝子のなかの一部が、ほかの人とは異なっていることがわかりました。

 腎臓は余分な水分を排泄したあとで、体に必要な水分をふたたび吸収して体に蓄えておくという働きをしています。
 水分を再吸収するにあたっては、水分をより分けて通過させる働きをする膜たんぱく質「アクアポリン」が必要です。(このアクアポリンは1992年に発見され、‘水チャンネル’とよばれています。)
 遺伝子解析の結果、父やわたしはこのアクアポリン(AQP2)の部分に異常があり(遺伝子構造の何番目のどの部分が悪いかということまでわかっています)、尿の濃縮と尿量の調節がうまくできない「腎性尿崩症」であることがわかりました。
 具体的には、水分を再吸収する量が普通の人よりも少ないため、尿が3倍くらい多く出てしまう。そのぶん水分を摂らなければ脱水になってしまうという体質です。

 現在ではここまでのことがわかっていますが、根本的な治癒の方法はみつかっていません。
 そして、わたしが子どもの頃は、父自身も母もこのような遺伝子のしくみについて知るすべはなかったのでした。

 父と同じように水をたくさん飲む体質だとわかったのは、わたしが乳呑み児のときでした。ミルクを飲ませようとしても嫌がってまったく飲まなくなり、高熱を出した時だったそうです。
 母は困り果て、「あゆみが冷たくなっちゃったよぉ」と泣きながら実家に連れて帰り、そのまま病院へ駆け込みました。
 くわしく調べてもどこが悪いというわけでもなく、医師は原因がわからないと言う。父がふと思い立って「水を飲ませてみるか」と飲ませてみたら、ごくごくとおいしそうに大量の水を飲み干し、たちまち元気になってしまったのだそうです。
 ふつう赤ちゃんは白湯を少しほしがることはあっても、真水をそんなにたくさん飲むことはないので、母もまさか水分が足りなくて具合が悪くなっているなどとは思ってもみなかったのだそうです。
 父と母はいまでもそのときのことを、「あのときはわからなかったからな、可哀想なことをしたよねぇ」と申し訳ながって話してくれます。
 4年後に生まれた妹も、生まれたあとすぐに、同じように水を飲みたがる体質だとわかりました。

 わたしと妹は、父と同じく異常なほど水をよく飲む子どもでした。普通の子どもより3倍もおしっこが出てしまうため、そのぶん3倍の水分を飲まないとすぐに熱を出してしまう(脱水症状をおこしてしまう)体質でした。
 毎時間のようにトイレに行き、水を飲んでいました。夜中も2、3回は必ずトイレに起き、その度に(小学3年生になるくらいまで)母を起こしていました。わたしと妹の2人に何度も起こされ、母は一晩ゆっくり熟睡できた夜はなかったのではないかと思います。
 水分は糖分の入ったジュースなどではだめで、体にすぐ水分を補給できる真水でなければだめでした。一度に、300cc入りの大きなコップに3杯くらいは平気でがぶ飲みしていました。
 よそのお宅へおじゃましたときなども、そのおうちの方がジュースを出してくれようとするのを、母は「この子たちは水飲みっ子なので水でいいんです。水じゃないとダメなんです」と言って断っていました。「ほら、1杯じゃ足りないんだから台所で水を飲ませてもらってきなさい」と母に言われ、水道から水を汲んでもらい何杯もいただいたものでした。

 そんな調子ですから、家族で旅行に行くときなどもたいへんでした。
 とにかく水とトイレ。それが一番大事。父とわたしと妹の3人が大量に水を飲むので、水筒なんて可愛いものでは何本持っていっても足りません。灯油をいれる大きさのポリタンクに水を入れて車のトランクに積んで出かけていました。
 林間学校や修学旅行のときには、父は事前に担任の先生に宛てて、
「この子は水をたくさん飲まないと脱水になって具合が悪くなります。いくら飲んでもお腹をこわしたりはしませんので、水を飲みたがったら、どうぞ飲みたいだけ飲ませてやってください。」
 と手紙を書いてくれたものでした。
 クラスメイトに「いつも水飲んでるね」とからかわれながらも、水道を見たら飛びつくようにして水を飲んでばかりいた、という記憶が残っています。

 そんな特異体質の夫と子どもが2人いた母は、とても苦労をしただろうと思います。
 特にわたしのときは、初めての子育てだけでもわからないことが多いなか、ほかの子と違った体質の子どもを育てるのは不安ばかりだったのでは、と思うのです。

 父は、わたしが中学2年生くらいの頃から腎臓病の症状が出はじめ、48歳のとき(わたしが高校3年生)から透析を受けることになりました。
 電気店を営んでいた父は、家族を養うために相当無理をしていたのではないかと思います。体力の要る仕事で体を酷使して、ぎりぎりまで我慢していたため尿毒症になって倒れ、病院に運ばれてそのまま透析生活に入らなければなりませんでした。

 父がそのような経過をたどったので、父と同じ体質であるわたしと妹も、「腎臓には気をつけないとね」と言われていました。
 けれども、年を取ったときには気をつけなければね、という程度で、まさかあれほど若いうちに病気の症状が出てしまうとは、両親もわたし自身も思っていなかったのでした。

 つづく――。
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連載[2] 自宅分室

2008-08-09 09:08:27 | 腎臓病のこと(連載)
 まずは、現在の生活のことから。
 週に3日、透析クリニックに通って透析をしてもらっています。
 生まれつきもって生まれたこの病に対しては、人生におけるその意味を16年かけて理解することができたので、いまは透析を受けていることがつらいということはまったくありません。
 50年前ならとっくにこの世にはいない命。いただいた命です。生かしていただいていることがただありがたく、感謝の毎日です。

 一番心がけているのは、時間のやりくりかなと思います。
 平日の週3日、透析に4時間+通院などの前後の時間を入れるとそれぞれ6時間ずつ時間をとられるため、時間のやりくりに工夫が必要になってきます。
 通院による透析を受ける前は、自分の腹膜を使って腹膜透析(CAPD)を5年半していました。自宅で治療ができたので、いまよりも時間的な制約は少なかったのですが。
 通院になってからは家にいられる時間が減ったので、主婦としては家事に使える時間が減ってしまったことがいたい! PC作業も家にいるあいだにすることになります(透析中にノートPCを使っている人もいますが、わたしはクリニックにいる時間だけはPCをやめるようにしているので)。

 家では、夫のことや家事と『ことことカフェ』関連のことと、書道しごととPC作業(PCアドレスでのメール、ブログやレビューの編集&アップ作業、mixiなど)をするようにして。クリニックでは、手帳に予定やアイデアを書き込んだり、ブログやmixi日記に書くものの下書きをしたり、手書きでできることをします(左手は針が2本刺さっているので使えるのは右手だけなんです)。
 読書もクリニックにいるあいだに。それと、ポータブルDVDプレイヤーを持ち込んで、レンタルしたDVDや録画した番組などを観ています。ケータイでできること(ケータイメールのやりとりや、mixiのコメントなど)は移動の時間や寝る前にベッドの中で……というふうに。
「いまこの場でしかできないこと」を優先してするようにしています。

 クリニックに通う日は、ギリギリの時間まで家事をしたりPCに向かったりしているので、それからが大変! お風呂に入り、夫の夕飯と自分のお弁当(透析中にクリニックで食べます)をわぁーっと作って支度して、走ってバスに飛び乗る(またはチャリンコに飛び乗って漕ぐ漕ぐ)という感じ。いつもバタバタと入室するので、透析前の血圧はいつも高くて。少しは余裕をもって準備をして家を出ようと思うのですが・・・。

 このような毎日なので、透析クリニックは「自宅分室」だと考えるようにしています。そのあいだに体のなかをきれいにしてもらい、エネルギーをチャージしてもらうガソリンスタンドのようなものですね。

 3年半前、腹膜の機能が下がってしまい通院の透析に移行しなければならなくなり、時間の制約が大きくなるなぁと落ち込んでいたとき――。
 友だちのRさんが「自宅分室ができたんだね」と言ってくれたんです。
 この彼女、画家の卵で、とてもいい絵を描きます。いますぐにでも売れる絵が描けるとわたしは思っているのですが、Rさんの発想にはいつも目を見張ります。
 そんな彼女に‘自宅分室’というキーワードをもらったおかげで、意識を切り替えることができました。そっか、そう考えればいいんだ、と。

 この話をぜひブログに書かせてもらいたいのだけど、とRさんに話したところ、彼女からは、
 「実際はわたしの発想ではないのです。あゆみさんだったらどういう風に考えるだろうと想像していたら思い浮かんだので、ほんとうはあゆみさんの発想かもしれないです。」
 こんなふうに書かれたお返事がきました。
 読んでいて、涙が出てしまうくらいうれしくて、感激……。
 そうだったんだ、わたしだったらどういうふうに考えるだろうと想像してくれて(落ち込んでいた気持ちを察して、ほんとうにわたしの身になってくれて)言ってくれた言葉だったんだ。これはほんとに彼女の愛情だなぁ、愛から言ってくれた言葉だったんだなぁと……そう思ったんです。

 こうして友だちにも恵まれ、心を助けてもらったおかげでいまの命があるのだと思っています。だから1日1日を大切に、時間を大切にやりくりしながら楽しく暮らすことがモットーです。
 わたしの毎日は書きたいこと、やっていきたいこと、学びたいこと、読みたい本や観たい映画、アクセスしたい人、会いに行きたい人がいっぱいで、もうほんとに毎日めいっぱいです。

 いま、腎臓病で保存治療をされている方はたくさんいらっしゃると思います。毎日きびしい食事制限をして、透析にならないようにと血のにじむような努力をされていることと思います。
 もちろん透析にならずに済むのが一番よいことだと思いますが・・・もしもこの先透析になったとしても、人生終わりじゃないですよ(^^)v
 (わたしも以前はそう思っていましたけれど。)
 時間のやりくりはできます。体調と食事管理に気をつければ、健康な人とあまり変わらない元気な生活もできます。大丈夫!! 気の持ち方一つですから。

 いつだって人生終わりなんてことはないです。自分から舞台をおりない限りは。
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連載[1] まずは、病歴について

2008-08-08 12:10:40 | 腎臓病のこと(連載)
★腎臓病の病歴

 SEとして働いていた’90年(平成2年)12月、25歳のとき、腎臓の病気がみつかりました。病名は「家族性若年性痛風腎」と「腎性尿崩症」。尿の調節がうまくできないことによって痛風腎となる遺伝性の腎臓病です。
 その時点で腎機能は3分の1になっており、慢性腎不全となっていたため完治はむずかしいと診断されました。以後8年半、通院(投薬&検査)と食事療法によって腎機能を維持する保存期治療を受けました。

 ’99年(平成11年)4月、34歳のとき、腎機能の低下により、自分の腹膜を使って透析をおこなう腹膜透析(CAPD)を導入。それから5年半、自宅で自己管理のもと、1日4回の腹膜透析治療をおこなっていました。

 2004年(平成16年)12月、腹膜機能の低下により、血液透析を導入。週3日クリニックに通っての血液透析を開始。
 透析クリニックに通い始めて現在3年半以上が経ちますが、体調はいたって安定しており、とても元気に生かしていただいています。


★病歴はといえば、これだけです。
 でも、病歴を、こんなに短く事実のみを客観的に書けるようになるなんて、以前のわたしには想像もできないことでした。
 この短さにまとめられるようになるまでには、のたうち回るほどあがき、苦しみ、心の闇に呑み込まれそうになったことも、夜通し泣いた夜も数え切れないほどありました。それだけの時間が必要であり、咀嚼し、消化する必要があったということです。

 そうして、もって生まれた遺伝子による病(体質)とわかった25歳のときから16年かかって、ようやく自分の人生にとっての意味や課題を理解することができ、クリアになったと思っています。
 なので、いまは不幸とか大変という意識はまったくなく、つらいとか苦しいとか悔しいとか悲しいとかいう感情もまったくありません。恵まれた環境で元気に生かしていただいていることがただありがたく、感謝の気持ちで毎日くらしています。
 健康な人よりも体調管理に注意は必要です。けれども、いまのわたしにとって病気はマイナスにはなっていないのですね。
 ここまでの経験は、これからの大切なしごとをしていくためにあったのだと思っています。こういう体験をした自分だからできること、をしていくために。 

 これまで、腎臓病のことをブログに書くことをためらっていました。
 透析のことを書くことで、『ことことカフェ』に参加してくださる方々やブログを読みにきてくださっている方々に、体調に気を遣っていただいてしまうことは避けたいという想いがあるからです。
 また、以前は、何かができなかったときの言い訳にいつも病気を引き合いに出していたので、もう言い訳には使いたくないという気持ちも。
 そんなこともあって、これまで病気のことや体調のことは書かないできました。

 ただ、いまのわたしがあるのは、この病の遺伝子をもって生まれてきたおかげなのです。周りの人たちの大きな愛に心から感謝できるようになったのも、病の体験があったからこそです。
 わたしの体験談が、少しでも誰かのお役に立てるのならば。
 おこがましい言い方だと思うけれど、これが一つのお役目ならば。
 また、透析生活をしている方たちや腎臓病とともに生きている方たちに、少しでもエールを送ることができるのならば。
 という想いで、病気のこともきちんと書いておこうと思うに至りました。

 これから、いまの心境に至るまでのこと、少しずつ書いてみようと思っています。

 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
 いつも読みにきてくださって、ありがとうございます。
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