ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

伏見稲荷神符17 地中から現れた王家のしるし

2009-09-27 22:04:52 | 日本文化・文学・歴史
今まで記紀に書かれている神話は、虚構の話であって実在性はないと思われている
が、出雲の神話の中で初めて人間の匂いを感じた。
出雲王朝の末裔という富氏の主張が『古事記』の逸話や諏訪神社の神紋と深く係わ
っていると思われるからだ。富氏の主張には出雲井神社や富村の富神社など具体的
な地名が出てくる。私は朝日カルチャースクールで『出雲国風土記』を学んできた
ので早速地図を広げて、出雲井神社や富神社を探してみた。

出雲井神社は富氏の証言通りに出雲大社の東に確認できたし、富村は出雲市とは斐
伊川をはさんだ東側の対岸にあり、山陰本線の西沿いに富神社もみつかった。
『出雲国風土記』によればこのあたりは出雲郡出雲郷という国名を負った意義深い
土地であり、また風土記には各郡に<神名火山(かんなびやま・神の宿る所)>
があるが、富神社から数キロ先に神名火山(仏経山)がある。この仏経山を取り巻
くような山中で(地図の上ではこのように見えるが実際にいってみると、出雲は低
い山の連なる山地でどれが神名火山かもわからなかった。)日本中を驚かせた二つ
の大発見があった。



富村にある富氏の祖先を祀っている富神社からは数キロ東の神庭字西谷より、1984
年に埋納された銅剣358本が、1985年には銅矛16本と銅鐸6個が発見された。
神庭荒神谷遺跡である。さらに1986年には神庭荒神谷遺跡から南東約3.4キロの
大原郡加茂町大字岩倉の山中の谷あいで39個もの埋納された銅鐸が発見された。
加茂岩倉遺跡である。
これらの青銅器は弥生時代中期(紀元前100年~紀元後50年位の間)の物と考えら
れている。1997年4月に「古代出雲展」が東京で開催された折に、これらの遺物を
見ることができたが、会場に入ると目の前の壁面いっぱいに並べられた銅剣の迫力
に思わず息をのんだ。



この神庭荒神谷と加茂岩倉遺跡の青銅器にはここ以外では発見されたことがないと
いう特徴があった。
銅剣の茎(なかご・中心)に「×」の印が刻まれていたのだ。
銅剣358本のうち刻印のあるものが344本、刻印なしと断定できるのはわずか
3例のみという。
また加茂岩倉遺跡発掘の銅鐸からも吊手に「×」を刻んだ銅鐸が12例みつかり、
二つの関係が注目された。

2002年新春朝日カルチャースクールで佐原真先生の「銅鐸の謎」を受講した。
ご自身がすい臓がんの治療を受けていることを告げての講義であった。はじまりは
痛々しい様子であっても、語り出すほどに声が大きくなり熱き学者魂がひしひしと
伝わってきた。3月12日「明日から抗癌剤の投与のため入院します」と告げ最後の
講義を終えられたが6月10日に永眠され、私たちが最後の生徒になってしまった。
その佐原先生にも「×」をなぜ刻印したのかは謎のようであった。

しかし、この×印が天神に国譲りを迫られた国神である出雲王朝の王者の紋章
<交い矛>であったなら、謎は解けるではないか?
大国主命の末裔・富氏によって二千年前の歴史が語り継がれていたのである。





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