
先日行われた6・30アキハバラ解放デモについては、ネット上で賛否が割れている。当サイトの「アキバホームレス検証」を取り上げてくれた、にゅーあきばどっとこむ様からの評価が辛いのはさびしいが、一人目の賛同人として、やはり何かコメントをしなければなるまい。
デモの進行については、肯定的評価としては、人が沢山集まった事と、それぞれが思い思いの主張やパフォーマンスを出来た事、事故や事件が起きなかった事がある。その反面として、グダグダでまとまりがなかった事、明確な主張が見えなかった事、サウンド機器がうまく働かなかった事があるわけだ。
こうしたデモの進行についての評価以外に、デモそれ自体についての批判が、掲示板上に溢れかえったわけである。
「主催者や参加者の中に左翼系の政治運動員が居るのではないか?」という指摘については、仮にそうだとしても、現実にこのデモはそうした左翼系の政治スローガンを叫ぶ為に利用されたわけではない。少なくとも私は主催者たちにその様な邪心がある様には見えなかった。無論、今後の事として、何らかの政治団体が秋葉原やデモ活動をするオタクたちを自分たちの政治路線の宣伝の為に使うかもしれないという懸念はあるし、そういう動きについては気をつけていく必要がある訳だ。
掲示板などでは「主催者たちはオタクの代表者面をするな」という声も聞かれた。しかし、彼らは一度も代表者を名乗ってはいない筈だ。そもそもオタクに代表者なんか居ない。唐沢俊一や岡田斗司夫や森永卓郎ならば良いのか?彼らとて「オタク評論家」ではあっても、オタク全体の利益代表者なんかではない。「世間の目には代表者に見えてしまう」って? なるほど、つまり「代表者面するな」という人にとっての代表者は「世間にそう見える人」という事であって、結局それは「どこにも居ない」という事だし、「そう見える人」には誰彼となく、必ず誰かから「代表者面するな」というクレームが付くはずだ。
勿論、私自身、宅八郎が「オタクの代表」というテロップ付きでワイドショーに出ていた時代には同じ事を思ったわけだし、宅自身が「宮崎勤で付いたマイナスイメージを払拭したい」と主張しながら、かなりイタい恰好でテレビに出ているという事に強い反発を覚えたものだ。宅がそんな恰好を芸にしているのならば、それは自嘲行為であり、それこそオタクを侮辱しているとさえ思ったので、確かに「代表者面するな」と言いたい人の気持ちは判る。
しかし、彼らの恰好は、明らかに団塊の世代もしくは全共闘世代をカリカチュアライズしたものであって、こうした世代に喧嘩を売っているのである。大谷昭宏は自分が学生時代に学生運動のとあるセクトに居たという事を書いているが、その頃の自分をパロった恰好の人たちに批判されているわけであるから、私としては痛快である。「あしたのジョー」を旗印にしてこうした運動を行い、サブカルチャーの生みの親となった筈の彼らが、今ではネクタイを締めて「有識者」の看板を掲げながら、必死になって現代のサブカルチャーをバッシングしているわけである。これ以上の皮肉はないだろう。
さて、批判の中で最も目立ったのは、「そんな事をするとオタクのイメージが悪くなる。」というものだ。これには、「そもそもオタクはそんな事して「解放」を訴えるほどには迫害されていない。」という向きと、「俺たちはどうせ後ろめたい事をしているんだからコソコソとやらせてもらっているので目立つ様な事はしないでくれ。」という向きがあると思う。つまり、迫害なんかされていないとするか、自嘲意識の中に浸ってしまっているかという事だろう。
私はこのサイトを主催させていただいている様に「オタクは迫害されている」と考えている。確かに「電車男」はオタクをメジャーにしたし、ベネチア展でオタク文化の芸術性を世界に訴える事もできたし、元皇族の黒田清子さんは披露宴でクラリスのコスプレをしたし、マンガ好きの麻生太郎が外務大臣を務めている訳だから、「10万人の宮崎勤」との偏見を持たれていた時代に比べれば、確かに世間に認められていると言えるだろう。
私は確かに、新潮社版の「電車男」には釣られて感動してしまったが、後に手にした検証本によって、それは怒りに変わったと言って良い。また、テレビドラマの「電車男」は、ウジウジしていて引っ叩きたくなった。これでは宅八郎の時と何も変わりはしない。むしろ、カリカチュアライズされた性格という意味では、ウジウジしている分だけ、テレビ版の電車男の演技の方がムカつくわけだ。確かに伊藤淳史は名優だし、ドラマのテーマ曲やフィギュアのキャラクターがDAICON4から引用されているので、「オタクのドラマ」としては由緒正しいわけである。しかし伊藤にウジウジオドオドした演技が要求されたという事は、結局オタクとはその様なものだと見下されているという事である。「代表面するな」「イメージが悪くなる」と私が言うとしたら、こうした舐められた様なイメージに対してという事になるだろう。
確かに、中森明夫が命名した「おたく」とは、根暗な趣味人たちが自嘲的に自分たちを称する文脈で誕生したものだ。だからテレビの「電車男」に対しても、自嘲的・自虐的に支持を表明するオタクが居てもおかしくはない。
しかし、それで良いのか? 我々自らの自嘲的・自虐的なオタク観こそが、マスコミによるバッシングを呼び込んでいるのだとしても? 「フィギュア萌え族」について、オタク界の「重鎮」たちは、「身を低くして嵐が過ぎるのを待て」と言ったり、発言者に賞を与えたりしているが、それは結局、「自分たちは疚しい事をしているのです。だからもっとイジメて自分たちの根性を叩きなおして下さい。」と言っているのに等しい。そうした自虐的な態度を取るからマスコミがつけあがるのではないか? マスコミほど、大事件が起きるたびに叩きやすいスケープゴートを求めたがる奴らはいないのに!
こうしたオタク自身の自嘲的・自虐的な姿勢こそが、報道においてさえも身に覚えの無い蔑まれたイメージを付加されてしまう一因なのである。最近の例では、私自身が有志と共に過剰演出疑惑を指摘したテレビ朝日の一連の若年ホームレス報道がある。果たして我々は、本当に「人付き合いが苦手で、仕事が長続きせず、辞める度にオタクの世界に逃避して、挙句にホームレスになった。」というストーリーに自嘲的な共感を覚えるのだろうか? これがオタクの中の自嘲的なセルフイメージを「世間」に向けて投影する為に加えられた「演出」なのだとしたら、明らかにやり過ぎである。私はこれを受け入れられない。
とり・みきが指摘した事だが、宮崎勤が逮捕された時に、マスコミが大々的にオタクバッシングを行った背景には、一種の同族嫌悪があったそうだ。この当時、部屋にあれ程のビデオライブラリーを持っていたなかには、宮崎勤の他には、他ならぬマスコミ関係者が居たのである。故に彼らは、自分たちと宮崎勤との差異を強調するのに必死だったのである。その差異こそが、宮崎がコミケに参加していた事であった。
こうして、コミケに集まっていた自嘲的で自虐的なオタクたちを、マスコミは必死になって叩く事になった。叩かれたオタクたちは、身を低くして嵐の過ぎるのを待つか、お互いの差異に拘ってオタク同士で「お前こそが宮崎だ」と罵り合うか、「俺は宮崎でもオタクでもない。ただのファンだ。」と言い張る様になったわけである。
自嘲も自虐も、仲間意識があるからこそ楽しめる。そうやって仲間意識を確認しあってきたという事もあるだろう。しかし、保身の為に仲間意識がほころびてしまえば、それらは同族嫌悪に直結してしまう。オタクとマスコミ、そしてオタクとオタクの間の不幸は、こうして始まったのではないのか?
オタクの真の解放は、オタク自身と「世間」との合作である「自虐的オタク観」からの解放によって成り立つのである。
確かに、開き直って、敢えて社会に理解を求めない事も、卑屈になって、「僕は根暗なオタクなんですぅ」とウジウジオドオドするのも、個人の自由である。
しかし、敢えて言いたい。非生産的・非身体的なだけのもののみではなく、性的な表現も暴力的な表現も含めて問いたい。
それは本当に「うしろめたい趣味」なんですか?
あなたは、そうした自虐意識に、つけこまれてはいませんか?
と。
---
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想像力はベッドルームと路上から様:「イデオロギーの敗北」と「趣味の勝利」〜取りあえず、「アキハバラ解放デモ」を全肯定しておこう〜
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へこあゆニュース様:今日の気になったニュース
DIG@BOOKOFF様:[イベント] 『6・30アキハバラ解放デモ』
( ;^ω^)<へいわぼけ様:突如アキバで“6・30アキハバラ解放デモ”発生! 彼らの言葉に耳を傾けろ!
神聖マルチ王国様:『6・30アキハバラ解放デモ』について思うこと
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アキバ総研様:アキバの路上で「6・30アキハバラ解放デモ」決行! 三派系全学連、2ちゃんねる共斗委員会、「ハルヒ」SOS団支部など500人以上が参加
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コアニュース様:【社会】アキハバラは本当に解放されたのか 6.30アキハバラ解放デモ
Thirのはてな日記 様:アキハバラ解放デモ
Discommunicative様:他人の評価を恐れて沈黙するより、たとえ煙たがられても自分の意見を堂々と述べたほうがよい
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再イオン化・はてな様:弱い者たちが夕暮れ、さらに弱いものを叩く
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GOITO's WEBSITE様:"オタク"が終わったあとに
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冬枯れの街様:【祝】13日の金曜日〜人を呪わば穴いくつでも掘る覚悟を!〜
アキハバラ解放デモに「こういうことやるから…」
2ちゃんねるにおけるニュースを紹介するサイト「痛いニュース(ノ∀`)」で、「突如アキバで“6・30アキハバラ解放デモ”発生…mixi等から500人以上参加」と題されたスレッドが紹介され、話題を呼んでいる。..........
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デモの進行については、肯定的評価としては、人が沢山集まった事と、それぞれが思い思いの主張やパフォーマンスを出来た事、事故や事件が起きなかった事がある。その反面として、グダグダでまとまりがなかった事、明確な主張が見えなかった事、サウンド機器がうまく働かなかった事があるわけだ。
こうしたデモの進行についての評価以外に、デモそれ自体についての批判が、掲示板上に溢れかえったわけである。
「主催者や参加者の中に左翼系の政治運動員が居るのではないか?」という指摘については、仮にそうだとしても、現実にこのデモはそうした左翼系の政治スローガンを叫ぶ為に利用されたわけではない。少なくとも私は主催者たちにその様な邪心がある様には見えなかった。無論、今後の事として、何らかの政治団体が秋葉原やデモ活動をするオタクたちを自分たちの政治路線の宣伝の為に使うかもしれないという懸念はあるし、そういう動きについては気をつけていく必要がある訳だ。
掲示板などでは「主催者たちはオタクの代表者面をするな」という声も聞かれた。しかし、彼らは一度も代表者を名乗ってはいない筈だ。そもそもオタクに代表者なんか居ない。唐沢俊一や岡田斗司夫や森永卓郎ならば良いのか?彼らとて「オタク評論家」ではあっても、オタク全体の利益代表者なんかではない。「世間の目には代表者に見えてしまう」って? なるほど、つまり「代表者面するな」という人にとっての代表者は「世間にそう見える人」という事であって、結局それは「どこにも居ない」という事だし、「そう見える人」には誰彼となく、必ず誰かから「代表者面するな」というクレームが付くはずだ。
勿論、私自身、宅八郎が「オタクの代表」というテロップ付きでワイドショーに出ていた時代には同じ事を思ったわけだし、宅自身が「宮崎勤で付いたマイナスイメージを払拭したい」と主張しながら、かなりイタい恰好でテレビに出ているという事に強い反発を覚えたものだ。宅がそんな恰好を芸にしているのならば、それは自嘲行為であり、それこそオタクを侮辱しているとさえ思ったので、確かに「代表者面するな」と言いたい人の気持ちは判る。
しかし、彼らの恰好は、明らかに団塊の世代もしくは全共闘世代をカリカチュアライズしたものであって、こうした世代に喧嘩を売っているのである。大谷昭宏は自分が学生時代に学生運動のとあるセクトに居たという事を書いているが、その頃の自分をパロった恰好の人たちに批判されているわけであるから、私としては痛快である。「あしたのジョー」を旗印にしてこうした運動を行い、サブカルチャーの生みの親となった筈の彼らが、今ではネクタイを締めて「有識者」の看板を掲げながら、必死になって現代のサブカルチャーをバッシングしているわけである。これ以上の皮肉はないだろう。
さて、批判の中で最も目立ったのは、「そんな事をするとオタクのイメージが悪くなる。」というものだ。これには、「そもそもオタクはそんな事して「解放」を訴えるほどには迫害されていない。」という向きと、「俺たちはどうせ後ろめたい事をしているんだからコソコソとやらせてもらっているので目立つ様な事はしないでくれ。」という向きがあると思う。つまり、迫害なんかされていないとするか、自嘲意識の中に浸ってしまっているかという事だろう。
私はこのサイトを主催させていただいている様に「オタクは迫害されている」と考えている。確かに「電車男」はオタクをメジャーにしたし、ベネチア展でオタク文化の芸術性を世界に訴える事もできたし、元皇族の黒田清子さんは披露宴でクラリスのコスプレをしたし、マンガ好きの麻生太郎が外務大臣を務めている訳だから、「10万人の宮崎勤」との偏見を持たれていた時代に比べれば、確かに世間に認められていると言えるだろう。
私は確かに、新潮社版の「電車男」には釣られて感動してしまったが、後に手にした検証本によって、それは怒りに変わったと言って良い。また、テレビドラマの「電車男」は、ウジウジしていて引っ叩きたくなった。これでは宅八郎の時と何も変わりはしない。むしろ、カリカチュアライズされた性格という意味では、ウジウジしている分だけ、テレビ版の電車男の演技の方がムカつくわけだ。確かに伊藤淳史は名優だし、ドラマのテーマ曲やフィギュアのキャラクターがDAICON4から引用されているので、「オタクのドラマ」としては由緒正しいわけである。しかし伊藤にウジウジオドオドした演技が要求されたという事は、結局オタクとはその様なものだと見下されているという事である。「代表面するな」「イメージが悪くなる」と私が言うとしたら、こうした舐められた様なイメージに対してという事になるだろう。
確かに、中森明夫が命名した「おたく」とは、根暗な趣味人たちが自嘲的に自分たちを称する文脈で誕生したものだ。だからテレビの「電車男」に対しても、自嘲的・自虐的に支持を表明するオタクが居てもおかしくはない。
しかし、それで良いのか? 我々自らの自嘲的・自虐的なオタク観こそが、マスコミによるバッシングを呼び込んでいるのだとしても? 「フィギュア萌え族」について、オタク界の「重鎮」たちは、「身を低くして嵐が過ぎるのを待て」と言ったり、発言者に賞を与えたりしているが、それは結局、「自分たちは疚しい事をしているのです。だからもっとイジメて自分たちの根性を叩きなおして下さい。」と言っているのに等しい。そうした自虐的な態度を取るからマスコミがつけあがるのではないか? マスコミほど、大事件が起きるたびに叩きやすいスケープゴートを求めたがる奴らはいないのに!
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とり・みきが指摘した事だが、宮崎勤が逮捕された時に、マスコミが大々的にオタクバッシングを行った背景には、一種の同族嫌悪があったそうだ。この当時、部屋にあれ程のビデオライブラリーを持っていたなかには、宮崎勤の他には、他ならぬマスコミ関係者が居たのである。故に彼らは、自分たちと宮崎勤との差異を強調するのに必死だったのである。その差異こそが、宮崎がコミケに参加していた事であった。
こうして、コミケに集まっていた自嘲的で自虐的なオタクたちを、マスコミは必死になって叩く事になった。叩かれたオタクたちは、身を低くして嵐の過ぎるのを待つか、お互いの差異に拘ってオタク同士で「お前こそが宮崎だ」と罵り合うか、「俺は宮崎でもオタクでもない。ただのファンだ。」と言い張る様になったわけである。
自嘲も自虐も、仲間意識があるからこそ楽しめる。そうやって仲間意識を確認しあってきたという事もあるだろう。しかし、保身の為に仲間意識がほころびてしまえば、それらは同族嫌悪に直結してしまう。オタクとマスコミ、そしてオタクとオタクの間の不幸は、こうして始まったのではないのか?
オタクの真の解放は、オタク自身と「世間」との合作である「自虐的オタク観」からの解放によって成り立つのである。
確かに、開き直って、敢えて社会に理解を求めない事も、卑屈になって、「僕は根暗なオタクなんですぅ」とウジウジオドオドするのも、個人の自由である。
しかし、敢えて言いたい。非生産的・非身体的なだけのもののみではなく、性的な表現も暴力的な表現も含めて問いたい。
それは本当に「うしろめたい趣味」なんですか?
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記憶のメモ帖様:アキハバラ解放デモとソレへの批判に対する雑感と『オタク』
伊藤剛のトカトントニズム様
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雨宮処凛がゆく!様:「ワーキングプアの反撃」と「アキバ解放」と「反貧困」、の巻
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世界のはて様:なぜオタは、自分やその同族をメタ視しては、勝手に自己嫌悪に陥りますか?
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Discommunicative様:他人の評価を恐れて沈黙するより、たとえ煙たがられても自分の意見を堂々と述べたほうがよい
いろきゅう.jp // Programmable maiden traumend 〜夢見るPG〜様:『6・30アキハバラ解放デモ』
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革命的非モテ同盟:俺って中核派なの?
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重複分についてはお手数ですが、削除いただけませんでしょうか?
ごめんなさい。重複分を消そうとして、まちがえて全部消してしまいました。すいませんが、もう一度投稿していただけないでしょうか?
確かに、仮に後ろめたくても、犯罪と結びつけれるのは御免ですよね。
問題は、こうした後ろめたさを自嘲的に語るという事が、傍目には「ほらやっぱりオタクはキモいじゃん。自分たちでも言っているし」と映るという事なのです。大事件のたびに判りやすいスケープゴートを欲しがるマスコミが、それを放っておく筈がないでしょう。
なので、あえて、「自虐的オタク観」という言葉を用いて、オタクの在り様を問うた次第です。
全開をまとめると
1.心理的にはうしろめたい、サブカルだし。
2.犯罪者予備軍と言う意味ではうしろめたくない
ってことですね。
キモイキモクないの論争については正直余り意味がないかと。正直コスプレとか自分からしたらキモイですし。
ここまでは、主観の問題として表明する事もまた表現の自由でしょう。不快ですが。
そこから進んで犯罪者予備軍(そもそも人間全員犯罪者予備軍ですが)としてオタクを俎上にあげるのは事実に基づいてないし、それまで甘受するなら「つけこまれている」
でしょう。
「キモいかキモくないか」というのは、おっしゃる様に主観の問題ですので、もう少し別の表現をすれば、
「ほらやっぱりオタクは人付き合いが苦手じゃん。自分たちでも言っているし。」
「ほらやっぱりオタクはロリコンじゃん。自分たちでも言っているし。」
「ほらやっぱりオタクは犯罪願望を持っているじゃん。自分たちでも言っているし。」
という風に、内輪の自虐ネタにマスコミがつけこんでいるのではないかという事なのですよ。
エロ要素の有無に関係なく、確かに自己満足の為の媒体である以上は、「心理的なうしろめたさ」を完全に排除する事はできない。というのは、確かにそうですね。極論すれば、「非生産的な活動」は全て「うしろめたい活動」って事になりますし、その人の世間体や倫理観と、その人の趣味・趣向との間に葛藤が生じるという事は間々あるわけです。
そうした「うしろめたさ」につけこまれて、「犯罪に結び付けられる」という事を容認はできないという事ですが、私としては、一歩進んで「ネガティブな物語にされる」という事も容認できないわけです。
手前味噌ですが、テレビ朝日が若年ホームレス報道のキャンペーンを貼った際に登場した、東西の「オタクの街で暮らすホームレス」については、「ホームレスになった経緯」について、定型的な「物語化」が行われているわけです。
報道番組などで犯罪者の生い立ちが「物語化」される傾向は、1980年代に始まっていて、広く知られている宮崎勤や小林薫の生い立ちや犯行の動機も「物語化」されたものです。小林薫に至っては、捜査線に浮かぶ前から「プロファイリング」によって「物語化」されていたわけです。
東西2名の若年ホームレスは、勿論、犯罪者として物語化されたわけではありませんが、物語化の手法は同じです。大谷昭宏が係わった番組以外では巧みに言葉を選んで断言を避けてはいますが、どちらのケースでも視聴者は次の様に「物語」を受け止める筈です。
1.オタクなので、人付き合いが苦手
2.人付き合いが苦手なので、仕事が長続きしない
3.仕事を辞める度に、引きこもってオタクの世界に逃避する
4.定職に就く事を勧める親と喧嘩して家出する
5.ホームレスになって、オタクの街でゴミ漁りをして暮らす
6.ホームレスになっても懲りずにオタクの世界に逃避している
奇妙なのは両名ともに、物語がこうしたテンプレートに乗っかっている事です。だからと言って「捏造」だと断言はできませんが、一人一人に色々と複雑な事情がある筈なのに、どちらも「オタクのステロタイプ」を軸にした物語に単純化されているわけです。
確かに20分間弱の映像でその人の複雑な事情を説明するのは不可能ですが、どうして両名ともにソックリな物語になってしまうのでしょうか?
これはやはり、(番組が想定する)視聴者側の「オタクは理解不能」という認識と、「自嘲的なオタクたちをどう表現しても反論はないだろう」という算段を出発点にして物語を作ったからに他なりません。
こうしたネガティブなステロタイプは、オタクの自虐性を反映したものではないのか? 少なくともオタク自身の自嘲と、オタク同士の同族嫌悪、そしてマスコミから受けた同族嫌悪による合作ではないのか?というのが私の考えなのです。
確かに、デモ活動を起こす事を、「自虐」と取るか、「偏見への抗議」と取るか、「単なるお祭り騒ぎ」と取るかは、人それぞれでしょう。しかし、「代表者面するな」「イメージが悪くなる」「俺たちは運動なんかしたくないから余計な事をするな」という言い分をイチイチ聞いてしまえば、このデモに限らず、またオタクに限らず、いかなるアピールもできなくなってしまいます。
「近い立場に居て、違う意見を持っているけれど、運動したくない人」からの同族嫌悪なんて、どんな問題にも存在する訳ですから。
また、デモを1回やったからといって、オタクが理解されるとは、私も思いません。しかし、理解不能な筈のオタクたちが、「何だかわからないけど声を挙げている」という事だけでも伝われば、それは充分に意義のある事です。
注目?
されまくり大きくなるとそれを利用した利権主義者が生まれ
そして法規制が強くなる
そうしたいがためのデモとしかおもえん。
こっちを締め上げさせる為のやり方だ。
取り合えず法規制の締め上げが強くなった場合の責任は取ってもらえる保険は示してもらいたいね
まぁあんたら過激派と従来のオタとの二勢力を作り上げたわけで次はどうしたい?
殴り合いでも発生させるのか?
これでマスゴミの勝ちになるなこっちは負けだ
件の番組の類似性については「報道意図に沿った人選」
をやってるせいだろうと思うのですよ。
だから「悪意」だろうけど「奇妙」でもなんでもない。
(言うまでもなく捏造でない、とするならばですが)
その偏向振りに道徳的な問題はあるのは言うまでもない
ですが。
オタク一般を語ったり、まして糾弾するには元になる
個体数が少なすぎですから。
ただし、大谷氏がマスコミでオタクを糾弾する事は自由
です。
そしてその是非と信頼性を判断するのは視聴者です。
ただ、オタクサイドが従前どおり何も声をあげないと
欠席裁判になってしまう危険性について何らの
リアクションを起こさないとしたら、それは
「カリオストロ公国式結婚」
であり、オタクサイドの不作為でしょう。
クラリスとは違って声を上げる事はできますからね。
この点はオタクと大谷氏の暗黙の「合作」といえる部分
でしょう。
その点では、先日のデモはこれを否定する声の一つだと
思います。そこは評価に値する。
正直私個人としては「変態と嫌ってもいいから放っといてくれ、犯罪者じゃないし。」と思いますけどね。
まあ、声を上げなければいけないタイミングでしょう。
悪い形で受け手に伝わった可能性もあるので手放しで
評価だけしてられませんが。
それは今後の課題。
これを機に締め付けが強くなったりとかさ
そう、宮崎ショックみたいに
そういう可能性を考えないのかなぁ、と
オタをやってこれるのは
世間が大目に見てくれてるからってのもあると思いますが
6.30デモのエントリー。興味深く拝見しました。
ご報告が遅れましたが、先日の「オタクホームレス」に関しては、JCJの放送関係の会員に情報は流しましたが、反応はありませんでした。
特定した被害者がいないと、BPO(BRC)などに提訴するわけにもいかないのかな。
ご存知でしょうが、一応BPOのサイトをご紹介しておきます。
BPO=放送倫理・番組向上機構
http://www.bpo.gr.jp/
BRC=放送と人権等権利 に関する委員会
http://www.bpo.gr.jp/brc/index.html
他にはメディア総研の出している雑誌「放送レポート」で、放送の問題を扱っています。一般の商業雑誌ではないので、興味本位の扱いにはならないと思います。
http://www.mediasoken.org/
お知らせまで。
商業的なエロ同人サークルが注目された事で、「バーチャル(略)委員会」が法規制を
主張したという事もありますね。
しかし、このデモはそういう「やぶ蛇」を狙ったものではありません。
また、あなたは、我々を「過激派のオタク」、あなたを「従来のオタク」と仰いますが、
そうではなくて、「主張するオタク」と「隠れるオタク」の違いだと思います。
マスコミ関係者が宮崎勉に感じた同族嫌悪が、非難の矛先をオタクに向けさせ、
オタクの習い性である自虐性がこうしたバッシングを容認してしまい、
オタク同士の個性がオタク同士の同族嫌悪に繋がったのだと私は思うわけです。
「主張するオタク」にだって自虐性があります。
私が宅八郎や「電車男」に感じたのも同族嫌悪でしょう。
マスコミも「主張するオタク」も「隠れるオタク」も、誰も勝利はしませんし、
敗北もしません。
勝利させるべきは「表現の自由」を含む精神的自由権なのです。
自虐的な価値観に留まっている限り、それは権力によって少しずつ侵食されて
いって、やがては失われてしまうでしょう。
「オタクホームレス」という物語を語る為に、「オタクの街で暮らすホームレス」を
取り上げたという事でしょうから。
大谷氏がオタクや若者を嫌うのもまた精神的自由権として保障しなければなりません。
問題は、それへの対等な批判ができないメディアの構造にあります。
オタクからあれ程の反発を受けた大谷氏を、テレビ朝日は「オタクホームレス」という
物語を報道する番組に起用したわけですから、偏向と受け取られても仕方がないでしょう。
問題は、あまりにもマスコミ側が一方的に表現していて、視聴者がそれを検証する手段が
絶対的に不足してしまっている事です。(なので私は微力ながら活動しているわけです。)
あるある大事典はネット上や批判本で多くの批判を受けていたのに、マスコミ自身が
問題にするまで、かなりの時間が掛かってしまいました。
(「あるある大事典糾弾デモ」でもしていれば、もう少し早かったかもしれません。)
本来ならば、「言論の自由」の枠組みで解決するべき問題だったのに、このままでは
権力による規制が強化されてしまうでしょう。
大谷氏はしたり顔で関西テレビを批判していますが、自身も「言論の自由」の自殺に
加担している事を自覚するべきなのです。
確かに私には厳しい点ですが、いままで批判側がネット上だけで活動していた事も、
そして、不当な非難に晒された側が自虐的に受け止める事で精神の安定を図ってしまった
事もまた、「言論の自由」を弱体化させてしまった一因だと思います。
仰る様に、表現方法を工夫しなければならないという事は今後の課題ですね。
向けた事にあります。
「デモ活動をする」という事を、宮崎ショックでの「変態犯罪者予備群」と同じ
文脈でバッシングする事は、マスコミ自身が「言論の自由」の自殺に手を貸すという
事です。
オタクをやる事は、そんなに世間に大目に見てもらわなければならない様な事なの
でしょうか?
「朝ズバッ!」での不二家報道問題でも指摘された「顔ボカシ」の問題が、
ここにも横たわっていますね。顔さえ隠せば、コメントや振る舞いがどの様な
オンエアになっても構わないとする体質があるのかもしれません。
ホームレスの男性が実在するとしても、オンエアを見られる可能性は低いですし…
私は素人ですが、報道の質的向上の一助となれば幸いです。
「放送レポート」を紹介して下さりありがとうございます。
NGO-AMIが「フィギュア萌え族」について問題にした事がありますね。
私が同じ様にできるかどうかは判りませんが、検討してみます。
これからもよろしくお願いします。
昔からオタク問題に注目し、それをテーマとする社会学的な研究をおこなっていますが、「フィギュア萌え族」つながりで貴ブログを閲覧させていただいたことがあります。当時から貴ブログの趣旨には全面的に賛同しています。
この度のデモが保守的な「オタク」に叩かれることが実行前からわかっていましたが、実際に圧倒的に叩かれてみれば気持ち的に辛いものがあります。
古鳥羽さまの記事のような正論は、このようなときには非常に力強く感じられます。
同じ信念を持たれる同志がいることを、心より嬉しく思っております。
お互いの信念が貫き切ることをお祈りして、書き込みさせていただきました。
これからもがんばってくださいませ。
「Z(ガンダム)をやる時は、はっきりとその時代の子供に何を伝えるか考えたんです。それが…」
「『てめーらアニメばかり見てたらバカになるぞ』
『鬱になるぞ』
『アニメなんかよしなさい』―――だのと…」
「本気でそれを言おうとした!!」
…とまあこの姿勢はつい最近でも変わらず、今月発売のアニメージュの連載『富野に訊け!!』(因みに私はこの雑誌のモノクロ活字部分ばかりを満喫で立ち読みしています)でも、こんな雑誌ばっか読んでいるとアニメ業界でしか生計立てられない人間になっちまうので、さっさと読む事を卒業しなさいなどと仰っています。
さて、アニメはキライじゃないが、飯を食う為に世間に少々揉まれてきた私にとって、やはり富野さんの言うとおり、世間からパッシングを受けるのは仕方が無いかと思います。
やはりオタク系と非オタク系とでは見た目からしても一目瞭然です。
先日池袋で飛び込みセールスをやっていて、その仕事の一服中に某とらのあな店を出入りする人と、そうでない道行く人々を交互に眺めていると、とてもそれがよくわかりました。
服装、目の配らせ方、歩き方、表情、等等がやっぱりパンピーと比べて違和感を感じるんですね。
まあそういう趣味を持っていて、会社ではピシッと営業成績やコミュニケーションが取れていればいいのですが、どうもそういう人々はそういうことができそうもないような空気をかもし出しているんですね。
しかし、たとえばこれが格闘技オタクだと話が別になります。
毎日自分の体を鍛え、精進している姿が例えば会社の同僚や上司に知られても、プラスにしか作用しないですから。
ただ、アニメオタクだとその効果は全く期待できません。これがまあ、難しいところです。
やっぱり社会や世間の側からだと、人間的に厄介で、しかも使いどころにも困るような人々を敬遠するのは、自然の成り行きだと思います。
というわけで富野さんの仰るように、「いい年こいたらアニメなんて見るな!」とまではちと言いすぎですが、少なくともいい年こいたら趣味の部分が家の外から一欠けらでも出て行くようなことが無い様、細心の注意を払って趣味の姿と社会人の姿を使い分ける事ができて、初めて一人前のオトナとなるのではないのでしょうか。
そもそも大のオトナが今放映中のアニメの大半の視聴をしつつゲームをやっていたら、その人間は確実に廃人です(というよりアニメ多すぎ!!)。
そういうわけでこの手の趣味を持つ人は、かなりの自己制御力を要すると思いますが、頑張るしかないのです。
以上、古鳥羽護さんは、私並びに富野先生の意見を如何に思われますか。
感想を聞かせていただければ、非常にありがたいです。
余談でかつ個人的なことですが、年を取ればとるほどアニメ見るのが辛くなってきます。
最近では酒を入れずに視聴できるアニメは『デスノート』『クレイモア』位しかなくなってしまいました。特に萌え系の視聴はしんどいです。
『鬱になるぞ』という言葉はこういう事かと確信させられます。
以上、マガ9条常連投稿者の衆愚代表からの一意見でした。
デモは、他人に迷惑をかける行為だと思います。
どうせやるのなら、一般の方が見てもっと楽しいもの(あるいは迷惑のかからないもの)にすべきだったのではないでしょうか。
富野御大のお考えがそれからどの様に変わられたのかを追ったわけではありませんが、「アニメなんかやめなさい」という言葉の裏には、御大自身が最近の作品についていけなくなったのか、もしくは最近のアニメ界を憂慮しているのかという事があると思います。
さて、私はアニメ好きでパソコン好きな「おセンチでちっともトンでいない少年」だったわけですし、おそらく、コンピュータ関係以外の世界では生きていけない人間でしょう。就職は宮崎ショックが冷め遣らないオタク叩きの最中だったので、パソコンオタクとしてのメンタリティーが固定されてしまう事については、正直言ってかなり悩みました。「パソコンオタクだから」という理由で、私自身を見もせずに私を拒絶した女性が居たからです。それでもオタクを「卒業」などはせず、プロとして通用するだけの知識と心構えを新しく身に付ける事でプロの技術者になりました。こうした決意の背景には、その女性以前に交際していたパソコンオタクに偏見のない女性の存在があったし、大学の偏差値自体は大した事はなかったけれど、プロとして通用するだけの知識を身に付ける為に人より余分に勉強して、高度な資格を取ったという事もあります。
私は確かに、日頃は実用的なソフトウェアの開発に関わっていますが、現在の様にアニメやゲームのデザイナーやエンジニアの育成体制が充実していれば、そういう道を選んだかもしれません。
「好きである事」を世間体を気にして押し殺してしまうという事は、実は社会の中における自分自身の価値を潰してしまう事だと思います。
あなたは格闘技オタクは精進しているがアニメオタクの表情には違和感を感じるとおっしゃいましたが、世の中には色々なタイプの人間が必要なのです。確かに私の同僚の営業マンは、あるスポーツで県内ベスト8メンバーになった経験があり、明るく、有能な人物です。また、同僚のマネージャーの中には、スポーツの才能と技術者としての才能の両方に恵まれた人も居ます。私は彼らを深く尊敬してはいますが、だからと言って彼らとは異なる性質を持った私自身の事を卑下はしません。私の様なタイプの人間が創意工夫をして仕事をするのをマネージャーが管理したり、できた製品を営業マンが顧客に売り込んだりしているわけですから、性質の違いはお互い様なのです。
もちろん、この様に言い切れるのは、私の職場の雰囲気が良いからでしょうし、良いチームに居るからでしょう。「環境セクハラ」にならない限りは、パソコンの壁紙も、デスクにフィギュアを置く事も自由です。もし、非オタクの同僚が「お前の趣味きめぇ〜死ねよ」と言ったり思ったりしていたら、仕事はどんどんギクシャクしていってしまうでしょう。しかし、オタクの中にはこういう抑圧された環境でコソコソせざるを得ない人も居る。これは、せっかくのオタクの価値を減じてしまっているという点で、社会にとってもマイナスです。
もしも、オタクが「人間的に厄介で、使いどころにも困る」のだとすれば、それは使う側の目が曇っているからです。同僚の営業マンがスポーツ競技で県内ベスト8経験者であるという事と同じ様に、私が高度な資格試験に合格した事は評価されるべきです。彼のスポーツ成績は地元での営業でかなりの武器になりますし、私の場合は幸いにも会社が求める技能であるから評価されたわけですが、それらを抜きにしても、本来ならば、営業マンのスポーツ好きと私のパソコン好きは社会から対等に評価されるべきなのです。
「オタクはいらない」と社会が言うのならば、そんな社会は変えなければいけない。オタクが舐められているのが原因ならば、オタクの側の自意識も変えなければならない。オタクもスポーツマンも同じ様に頑張っているんだから、胸を張って好きな事に打ち込めば良いのだと。
また、アニメオタクだからと言って、現在放映されているアニメを全部見る必要はないですし、それこそ自分の好みや余暇時間に合わせて楽しめば良いのではないでしょうか?テレビゲームにしても、特にプレイステーションの登場後には、メーカー側が顧客層を「大人になってもゲームで遊ぶ」と分析したからこそ、数々のタイトルが発表されて市場を大きくしてきたわけです。自分の好みや余暇時間に合わせて楽しむのはむしろ当然の事で、「卒業」する必要なんてないでしょう。
それと、あなたがどうして、鬱になるほどの苦しみに耐えてまで、お嫌いな萌え系のアニメをチェックなさるのか、私は理解できないのですが?
余談ですが、私はSyuu-Chanさんと同じ様に平和系のエロゲーを好みますし、シナリオによっては泣いた事が何度かあります。あまり豊富とは言えませんが自身の恋愛経験と重なる事や、ストーリーで表現された登場人物の人間性に心を打たれる事があるからです。若い頃に三人のアニメ作家から聞いた「良い作品を創る為に恋愛しろ」というのは、「良い作品を鑑賞する為」でもあると思います。
その一方で、本田透の様な「非モテ」の人たちの言い分も、私は判るのです。晩婚化という現実の中で、歳を重ねる程に、女性から要求される年収、学歴、身長、ルックスが現実離れしていくという事を、非婚男性である私自身は身に染みて知っています。宗教が心を癒せるのならば、ラブストーリーだって心を癒せる筈です。なので、アニメやゲームについて、良い絵や感動的なシナリオを書きたいのならば、私もアニメ作家たちが言った様に、男性に対しては「若い内に、女の子の尻を追っかけてみろ」と言います。その結果、エロゲーやラブコメの世界を桃源郷にするのは、生き方として自由だと思います。それで精神のバランスを保ち、社会と調和して生きていけるわけだから。
「エロゲー好きやフィギュア好きは小児性犯罪者予備群である」という大谷昭宏を初めとする一部有力マスコミが流布した言説は、明らかに、個人的な嫌悪感に基づいて、オタクを社会から排除しようとするプロパガンダであって、看過する事はできません。もしも、富野御大がそれに組する意図で言っているのでしたら、御大にこそオタク文化の現場からご退場していただくしかないでしょう。
以上、色々と個人的な経験を元に書かせていただきましたが、この様に書く事が、マガジン9条にも書いておられると仰る貴方への礼儀だと思ってお返事させていただきました。
テロや暴動は論外ですが、「迷惑を掛ける行為だから」という理由で、デモを禁止したり規制したりしようとする事は、「言論の自由」や「表現の自由」を抑圧する事ですし、それは民主主義の根幹を揺るがす事だと、私は考えます。
その上で、もっと楽しい活動だとか、もっと有効なデモのやり方だとかを考えていく事は大切ですね。
さて、まず先に貴方が疑問に思っていた「それと、あなたがどうして、鬱になるほどの苦しみに耐えてまで、お嫌いな萌え系のアニメをチェックなさるのか、私は理解できないのですが?」ということですが…
A.1:私自身が「表現」というもの自体に興味を持っているから。
A.2:仮に自分が「表現」をするとしたら、自分はどの様な「表現」をし、またどんな「表現」が自分には向かないのか、その距離感をつかみたいから。
A.3:いわゆるB級のノリが好きだから(つまり作品の「電波」に当てられて軽く鬱になるけど、苦しみに耐えている訳ではない)。
…とまあ、こんな感じでそれなりに楽しんではいるんですね(因みにフィギュアやグッズとかは一切買わないので、企業側の立場からすると最悪の客でもあるのですが)。
閑話休題、さて、貴方のお返事を一言で要約すれば、
「私は、非オタの人間の事を尊重しているのだから、非オタの側もオタクを尊重すべきだ。日本には『言論の自由』が保障されているはずで、それに基づいて主張する私の意見は正しいはずだ。」
といったとこでしょうか。
おっしゃる事は分かりますし、貴方が相応にスキルや文章力に優れた有能な人物である事もよく分かります。しかしまあ、こういっちゃ何ですが、なんでこうカタく、原理原則主義的で、物事を白黒はっきり付けたがり屋の感じがするんですかね。
たとえば貴方の「富野御大がそれに組する意図で言っているのでしたら、御大にこそオタク文化の現場からご退場していただくしかないでしょう。」という意見。
私からすればこれこそ「何で?」です。
たとえ富野先生がどういう思想の持ち主であろうとも、先生が優れた作品を作るスキルを持ち続ける限り、別に「ご退場」する必要はないでしょう。
そもそもアニメ作品の製作現場に直接拘っていない貴方が、「ご退場」を口にするのも奇異な話です。
ようするに、文章から察して貴方は私より10前後は年上だと思いますが、すごく「若い」感じがするんですね。
仮に貴方が20代の大学生ならまだ話がわかるのですが、やはりどの様な職種(とはいえ表現の世界に直接かかわっている人の一部は例外かもしれませんが)に付いたとはいえ、30代や40代になって世間や社会の仕組みを肌で感じていけば、たとえ偏見や逆風を感じたとしても、それを「流す」技術が自然と身につくはずです。それと偏見や逆風をできるだけ最小限にさせるコミュニケーション力も体得できてくるでしょう。
こういうと、「偏見の目でマイノリティを抑圧する多数派の態度が問題」と貴方はおっしゃるのでしょうが、ではそう主張する事で、小中学校の教室で、あるいは世界のヘイトクライムの起きている現場でその「正論」だけで通用すると思いますか?
人間には残念ながら、相手の思っていることを完璧に理解する事はできず、所謂「バカの壁」というのが歴然と存在するのです。
だからといって抑圧に甘んじろという訳ではありません。
重要なのは、その様な逆風が来たとき、ガチンコでぶつかるのではなく、論理やユーモア、ウイットを駆使して柔ら技で一本をとっていく事ではないのでしょうか。
ライオンには狐の知恵で向かうべきなのです。
そういう話のうえからいけば、徳間書店アニメージュ編集部の方々は、はるかにオトナです。
何しろ、「こんな雑誌なんか読むな!」などと主張する富野先生や、愛犬の追悼にコラムの紙面を総て費やす安彦先生の文章をそのまま掲載するのですから、その狸の太っ腹感は大したものです(だからこそいい年こいた私がついつい読んじゃうんですけどね)。
さて、貴方がやっている行動をざっと見た感じで言えば、所謂「日本の戦争責任・戦後賠償」を主張する人々と同じ傾向があると私は思います。とどのつまり、やる意味が感じられないどころか、かえって事を悪化させる危険性すらあります。
「日本の戦争責任」を主張する人々は、それをする事で平和になるという前提で行動し、日本の過去の悪事を真偽を省みず盛んに暴きたて、保守派層の怒りを買い、いざ自分たちが被害者と看做していた北朝鮮の悪事や中国の軍拡といった具体的な問題が出たときには何も答えられないか、開き直りをみせ、それがまた保守やネットで突っ込まれ、その挙句、反中嫌韓や憲法九条の危機を招いたことは貴方も噂では聞いたことがあるかもしれません。
彼らは日本を謝罪させる事にばかり熱狂し、「具体的に世界で戦争による死者をなくすためにはどうすればよいのか」を全く考えてこなかったから、自業自得といえばそれまでなのですが…。
こういう事例を「他山の石」としたとき、貴方は「目的と手段を混同している」可能性について、自らで思い当たる事はありませんか?
さて長くなりましたが結論です。
私自身は「オタクを社会から排除しようとするプロパガンダ」で、日本のオタク産業が消滅するとは到底思えないのでデモなどする意味が無いかと思いますが(一大産業となったシステムをみすみす崩壊させるほど社会は愚鈍ではあるまい)、もしそれでもやる意義あるとお考えですが、次のことを留意してはいかがでしょうか。
・たとえば大谷昭宏氏などを批判するとき、正面からガチンコでやりあわず、論理やユーモア、ウイットを駆使し、相手が一本取られたと思わせるような寸鉄一閃的な批判をすべきでは。
・世間を批判する前に、まず自らの近い立場から出てきたと看做される、「宮崎勤」や「オウム真理教」等に対し、改めて貴方が総括すべきでは。(一例を挙げれば岡田斗司夫氏は「宮崎勤」事件に悩んだ末に、アニメ制作をやめてしまっています)。
・そもそも職場やスキルに恵まれ、かつ趣味もきちんと持ち、充実した人生を送っているであろう貴方が、何故に
「「好きである事」を世間体を気にして押し殺してしまうという事は、実は社会の中における自分自身の価値を潰してしまう事」
を危惧し、デモや抗議活動を行っているのか、まずは自分を省みて熟考べきでは。つまり、貴方は言葉では表現しきれない欲求不満を常に抱えて生きているのではないのか?。
・そもそも「自分自身の価値」なるものは、バカの壁を持つ厄介な「他者」によって確立するものではないのか?。
以上、大変おせっかいな長文を投稿してしまい、まことに申し訳ございませんでした。
私の書いた意見は、あくまで一意見です。
あまり深読みせずに、さっと流す感じでこういう意見もあるのだなという程度に読んでいただければ、幸いに思います。
あの、未だに私はあなたのお立場を把握できないのですが?(笑)
つまり、あなたは多様な表現の中で自分に向いた表現を模索する為に、軽く鬱を覚える様な「B級」の萌えアニメをも鑑賞していて、その中で「こんなのばかり見ている奴は人間として終わっている」という感想を持たれたという事ですね? だから歳を喰ったら、世間体を考えて「卒業」するべきだと?
でも、あなたはあなたなりに楽しんでいらっしゃるのですよね? だったら、人はそれぞれ、自分の時間や好みに合わせて楽しんでいるって事ですし、自分が歳をとれば、供給側が対象としている年齢層との間に差が開く場合もあるわけですから、自分にあった作品にシフトするのも自由です。また、その人の感性によっては、対象年齢層の異なる作品を楽しむ事も自由でしょう。
まぁ要は、あなたが自覚なさっている様に、「お節介」って事です。
私ですか? 実はハルヒを見た事がないんですよ。(爆) ボークスの60cmドールにハルヒがあるのは知っているし、ハルヒが海外のメディアから日本のキャラクター表現の具体例として取り上げられているという事は知っているんですけどね。
閑話休題、さて、私があなたにお返事差し上げた内容ですが、富野御大やあなたの言い分についてどう思うのかって部分もあったと思います。確かに、「御大にこそオタク文化の現場からご退場していただくしかないでしょう。」は言い過ぎでしたね。
ただ、私は御大がかつて、自分の後進になるであろう熱心なファンたちの為に「アニメばっかり見ていないで現実を経験しろ」とおっしゃったのを直接聞いていますから、それがオタクバッシングを意図したものに変節してしまったのだとしたら、ファンの一人として悲しいのですよ。
また、Zの劇場版についてNHKの取材に答えた時には、「熱心なファンだけに受け入れられるものを作るつもりはない。ジョージ・ルーカスの様に世界中にファンを作りたい。まあ、熱心なファンはありがたいんだけども、それだけに留まりたくはない。」とおっしゃっていました。この事からも、御大は特に「社会からオタクを排斥する事」なんて意図してはいないと、私は信じたいわけです。なので、もしも大谷昭宏に組するような意図で言っているのならば、表現の現場から立ち去っていただくしかないと考えたのですよ。
なぜって、もしもジョージ・ルーカスが「30歳にもなって、スター・ウォーズの公開日に映画館にダース・モールのコスプレで並んでいる奴はキモいからやめろ」と本気で言ったとしたらどうなります? 自分の表現物でお祭りができる様な「熱心なファン」を大事にできないクリエイターが、世界中にファンを作る事なんて無理なんですよ。ご自分の志どおりにルーカスを越えたいのでしたら、ファンにきつい事を言うのであれば、あくまでもファンの為に言うべきであって、ファンを叩いちゃいけないです。
さて、私に「物事の白黒をはっきりさせたい」という欲望がある事をご指摘ですが、肝に命じさせていただきます。「白黒をはっきりさせたい」って欲望は、「スケープゴートをでっち上げたい」という欲望に関わりますし、それこそがオタクバッシングの一因だと思いますのでね。
また、私の考え方が「若い」とおっしゃいましたが、私はむしろ努めて若い考え方をしようとしていますので、褒め言葉だと受け取っておきます。歳をとったからと言って、「社会に自分を合わせる」人ばかりになってしまえば、社会は何れ最大公約数を取り続けて窮屈になっていってしまうでしょう。ヘイトクライムという現実に正論を突きつける人が居なければ、ヘイトクライムさえもが「社会常識」になってしまうわけですから。
「バカの壁」は確かに取り除けないでしょう。なればこそ、「バカの壁」の向こう側の人たちを、「バカの壁」の向こう側に居るというだけの理由で、「法律」や「社会」を振りかざして排除したいという欲望をこそ、理性とルールで抑える仕組みが必要なのです。
差別や偏見にウィットやユーモアで立ち向かえというのには賛成ですが、それが差別や偏見を容認する様な自虐的なユーモアでしたら、逆効果です。大谷昭宏が本気で言った「フィギュア萌え族」に対して、「大谷昭子たん(仮)」で対応するのはユーモアですが、「岡田斗司夫賞」で対応するのは自虐でしかありません。大谷氏がこれに「一本取られた」のならば、オタク叩きを辞めている筈ですが、現実には続けています。
あなたが仰るとおりに岡田斗司夫氏が宮崎事件に悩んでアニメ製作をやめてしまったのだとすれば、それこそが自虐行為ではないのかな? 勝手に自分が「怪物・宮崎」を作り出してしまったと思い込んで、ガイナックスを抜けたのだとしたら、それこそ、左翼が右翼から「アジアに対する日本の戦争責任を過大に評価している」と批判されている様に、岡田氏は「宮崎事件に対するオタクの文化責任」を過大に評価している事になる。
そして、オタクバッシングという現実に取り組む事は、ライオンと戦う様に「誰かを倒す事」ではありません。そこに横たわっている構造的な問題に取り組むという事なのです。イジメであれ、マスコミによるオタク・若者叩きであれ、苛める側の悪意を非難するだけではなくて、苛めに走ってしまう構造を解決しない限りは、矛先が変わるだけでしょう。
オタクに偏見のない職場や同僚に恵まれている私が、オタクバッシングを問題視しているのは、前の職場がオタクである私に対してパワハラ的だったからです。また、あなた以上に、宮崎勉時代のバッシングを受けてきたからです。 もともとガンプラは好きでしたが、フィギュアを始めたのは今の職場に移ってからですよ。「世間から自分を隠す」という事は、度が過ぎれば、自分の新しい可能性を潰す事になります。そうして仲間が増えなくなってしまう事をこそ、私は危惧しているわけです。
まぁ、「オンリーワン」にはなりたいけれど、「魔女裁判」には掛かりたくないんですよ。あなたとは大分現状認識が違う様ですが、私がデモに賛成なのはそういうわけです。どんなに一大産業として認められようとも、「調教」されてしまったオタク文化なんて、無いのと同じだから。「新しい文化」なんてのは、そもそも「邪悪」なものなんですよ。どんなに大御所になったロックバンドでも、自分たちがインディーズに居た頃のパンチの効いたサウンドは作り出せない。そういう風に商業主義などの「大人の事情」にスポイルされてしまう事は、ある意味仕方がないし、そういうサウンドは後進に譲れば良いのです。しかし、その「大人の事情」が法規制ならば、誰もクールなものを世に問う事はできなくなる。私に「欲求不満」があるとすれば、それはクリエイターとして中途半端であるという事でしょう。だから、若いクリエイターの自由を護りたいのです。
あなたに言わせれば、きっと私は「石頭の理想主義者」です。学生時代には法学の先生から「法律家に向いている」と言われました。 「柔らか頭の現実主義者」で在らせられるあなたの文章力には敬意を払いますが、あなたが私を「説得」なさろうとしている事は、果たして「目的」なのですか? 「手段」なのですか? まあ、おっしゃる様に裏なんてないのでしょうが、赤の他人の為にここまでの長文を書いてくださる以上は、私の文章に感じるものがあったという事なのですね? 私が努めて若い考え方をしようとしていなければ、おそらく私は頑固爺の様に、あなたの事を「無礼者」の一言で片付けると思います。
こうして、「バカの壁」を挟んでボールを投げあうのはどうなんでしょうね? お互い「若い」からできるんじゃないの? でも、お互い長文を即日レスで投げ合うのは、疲れるんで自重しる!
あなたへの礼儀として、ここはギャグの一発でもかますところですが、あなたも私をどういうわけか必死で「説得」しようとしておられるので、やめておきます。代わりに本音トークを噛ましました。まぁ、お察しの様に歳だけは喰っていますんで、それ位の事は判ってやってるんだよ。
オタクじゃないんですか?
ただし、グッズとかには殆ど興味がありませんが…。
さて、古鳥羽護さまが槍玉に挙げている大谷昭宏なる人物をちょいと調べてみたんですが、まあ調べるまでも無い、唯のアホだったんじゃないですか。
(参照)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E6%98%AD%E5%AE%8F
(以下は引用)
>奈良小1女児殺害事件で逮捕された被疑者は、フィギュアなどの趣味を持っていなかった。それにもかかわらず、逮捕直後から大谷は「私は最初からフィギュアオタク的なロリコンが犯人だと言ってきた」と主張を巧妙に変化させて、報道の過誤を認める事をしなかった。それどころか、大谷は被疑者逮捕を報ずる報道特別番組において、捜査情報とは無関係な個人的偏見で「被疑者はフィギュア的なオタク」と一方的にコメントした。<
これでもうチェックメイト。にも拘らず話を差し替えてグダグダ言っている以上、
「チョンボするな!!ボケ!!」
で話は終いでしょ?
こんな事は話をちょっと聞くだけで普通の人でも簡単に見抜けるような低レベルな話なんです。
(以下は引用)
>2人の子供を持つ聴取者から「フィギュアやアニメに興味を持つのは、趣味嗜好の問題でそれはそれでいいと思う。…」
にもかかわらず、なんでこんなアホ親父の言動に一喜一憂したり、ずーっと怒って拘りっぱなしにならなきゃならないの?
「私が努めて若い考え方をしようとしていなければ、おそらく私は頑固爺の様に、あなたの事を「無礼者」の一言で片付けると思います。」とおっしゃるのならば、それが最も簡潔な決着法です。ただそれは「あなた」だけでなく大谷昭宏に向けるべきでしょうが。
そうすれば、余暇がたっぷりできて、まだ見ていない「ハルヒ」だって、小説と併せて見る事ができるし、そっちのほうがオタクとしてよっぽど有意義な時間の使い方じゃないんですか?
ただ、頑固爺の様に、「無礼者」の一言で片付けるにはそれをやる方にもある種の「生きる強さ」が必要、そのための一番の手っ取り早い方法がコミュニケーション力の確立なんですが、やっぱりオタクにはそういう力が弱い人が多い。
そのため、やっぱり大人になって年を食っていった者から順々に、コミュニケーション力だけでなく色々な方法で、例えば職場で自分の仕事を評価されるなど、オタク界以外のことで色々な経験を積んでいくことで世の中での身の振り方、立ち回り方を身につけ、その「生きる強さ」を手にしていき、そういう方法を若い世代の「オタク」に伝えていけばいい。
目指すべきは、「頑固親父オタク」。
口癖は、「やることやってんだから、人のする事にくちばし挟むな!ボケ!!」。
そうなれば、たとえ富野先生か色々気に食わないことを言っていても、富野先生の作品は評価しつつも、主張している事に「何言っているの?」で軽く切り捨てられるようになるだろうし、当の富野先生自身がそういう風なオタクになってもらいたいと考えているんじゃないですかね?
まあ、強くてふてぶてしくて偉そうにふんぞり返ったほうが色々とオトクですよ。
以上、説得するつもりは全く無く(どういう反応が返ってくるか興味があっただけ)、思ったことを考え無しに書きました。
あまり深読みせず、気楽にこういう意見があると参考にしていただければ幸いです。
最後に、「ハルヒ」は小説、TV共々、見ていて有意義な時間を過ごせることは確実に保障できる作品です。
少なくとも、大谷昭宏の不機嫌面とにらめっこしているよりは、100万倍有意義な時間を過ごせます。
その様にお書きになられると、ご自分の意見を安全圏に置こうとしておられる様にも、相手への無礼をカムフラージュしようとしている様にも、「深読み」できてしまいますので、心配御無用にてお願いします。
要は、「10万人の宮崎勉」や「フィギュア萌え族」に象徴されるメディアによる「おたくバッシング」を、おたく文化への脅威とみなすかどうかという点で、あなたと私の意見が異なっているという事ですね。あとは、賢く立ち回るのが良いのか、抗議運動をするのが良いのかという「おたくを理解させる為の手法」の違いもあるわけです。
そりゃ、好きな作品や創作活動を楽しむのが一番ですよ。ただし、その為の「社会的コスト」を引き下げる努力も必要なわけです。
おそらく、ここまではあなたと私の意見は同じ筈です。
「おたくバッシング」がメディアによる妄言である事は論を待ちませんが、現実の条例や政策に色濃く反映されてしまっている事もまた事実であり、おたくバッシング的な観点でのロビー活動を続けている「善意」の団体の活動も活発です。こうした「善意」は、「小児性犯罪の撲滅」という万人が共有している目的を、間違った手段で実現しようとしているという点で問題なのです。
そもそも、小児性犯罪の撲滅に取り組んでいる人たちの中には、「どうしてそれでマンガの規制の話になるのか?」と当惑している人も居るわけです。このように、実は問題そのものについて無理解な者たちの「善意」によって、「おたくライフを楽しむ上での社会的コスト」が上がったり、非合法化されたり逮捕されたりする事に怯えなければならないのはやはりおかしい。
「偏見の是正」や「社会的コストの削減」は政治や言論の問題です。よって、デモ活動の中でそれらを訴える事は至極まっとうな行為です。
さて、「オタク」は、長年「弱者の味方」を標榜してきた大谷昭宏氏からの攻撃を受ける様な「権力」でもなければ「社会的強者」でもありません。大谷氏は長年「国策捜査」を批判してきたのに、「相手がライブドアならば良い国策捜査」と発言したり、長年あいりん地区のホームレス問題に取り組んできたのに、「若者ならば単なる怠け者だ」と言わんばかりだったりします。もはや「嫌いな者」を糾弾したいだけの老害でしかありません。
ぶっちゃけ私は大谷昭宏のファンなんでしょうね(爆)。 彼は確かに若い頃には有能なジャーナリストでした。それが今ではテレビで衆愚の怒りを代表してカタルシスを提供する為の道化に成り下がってしまっている。彼は自分のチョンボを棚に上げて、自ら作り上げた「フィギュア萌え族」というモンスターに衆愚の怒りをぶつける事をも業としており、それを今でも時折メディアに表すわけですが、これはもはや彼個人ではなくて、そうした活動をコンテンツとしているテレビ朝日や日刊スポーツの問題であり、そうした「空気」に乗ってくる他のメディアの問題でもあるわけです。
なぜ、ストーカーなどの猟奇的な事件の被疑者が逮捕される度に、ワイドショーや一部のニュースでは「お約束」の様に、本当かどうかも怪しい「知人」からの「そういう事をしそうなオタクっぽい人だと思っていた」というコメントが流されるのでしょうか? また、それらの事件が未解決ならば、必ず「オタクの仕業」を示唆する者が現れますが、それはなぜでしょうか?
やはりこれらは、事件を「善悪二元論」で単純化しようとするメディアの習い性から来ていると思います。組織立っているわけでもなければ定義自体が曖昧である「オタク」ほど、「悪」を背負わせやすいモノはないからです。当のオタクが自嘲・自虐に浸っている限り、メディアの送り手はこれを「演出」として軽い気持ちで行うことになります。
今回のアキハバラ解放デモについて、「目立つ様な事をするな」等と批判するオタクが居るわけですが、彼らが単に「隠れたい」と思う気持ちは尊重されるべきです。現に、性的マイノリティーや、特定の疾病の患者たちの中には、その事自体を隠したい人が居るわけです。それでも該当者たちは、政治的なアピールによって偏見を緩和し、メディアや政治家の妄言や失言に抗議する事で、自身に課せられる「社会的コスト」を引き下げてきました。そしてそれは、表に出る事のできない人たちの為にもなっています。これらは、個人個人が単に隣人の間で賢く立ち回るだけでは実現できない事です。
個人個人がふてぶてしく頑固に撥ね付けているだけでは、警察官や恐喝犯による「おたく狩り」から身を守る事はできません。また、立法府による非合法化や司法による不利な裁定に抗議する事もできません。私がアキハバラ解放デモに賛同するのは、そうした理由からです。
こうしたアピールをする為にこそ、オタクの「生きる強さ」や「コミュニケーション力」は発揮されるべきでしょう。
オタクもまた一般人ですから、隣人との関係を良好に保つのは当たり前です。その中には私が主張する様に自虐的な自己イメージを改める事も、あなたが主張する様な「生きる強さ」によってパブリックイメージを改める事も含まれる筈です。
それと同時に、メディアや政治のレベルで課せられる種類の「社会的コスト」の内で不当なものについては、活動を起こす事が必要なのです。
人類が法治主義や民主主義を発明した事は、旧来の「ムラ社会」型の統治を排して、国の様に大規模な共同体の中での多様性と自由を確立する事に繋がったわけですが、その一方で発達したメディアは再び「世間」を狭くしてしまいました。こうしてメディアが作り出した劇場には再び「ムラ社会」的な観点が復活したわけで、その一つがワイドショーによる「おたくバッシング」な訳です。
元々「ムラ社会」においては、性的マイノリティーや奇病の患者やオタクは、村八分にされる様な存在だったわけですが、脱「ムラ社会」によって、そうなってしまった人の権利も、そうなる自由も保障されるに至ったわけです。勿論、それでも自分が直接接する事ができる範囲での社会性は必要ですが、それが必要最小限になる事を指向してきたのもまた現代人なのです。
そうして希薄化しながらも存在している隣人同士のオピニオンの中に、メディアが狭くした「ムラ社会」的な情報が入り込む事で、個々人のパブリックイメージが決定されてしまう事があるのはやはりおかしい。例えば「マンガやテレビゲームが好きな子供」である前に自分の息子や娘である筈の子供から、マンガやテレビゲームを取り上げてしまう親御さんが見ているのは、もはや自分の息子や娘ではなく、「凶悪事件をおこしたマンガやテレビゲームが好きな子供」なわけです。「家族」という最小限の共同体さえもが、メディアによって劇場化された「世間」の論理に侵食されてしまうという事は恐ろしい事ですが、「宮崎ショック」の時には確かに、親にアニメグッズを捨てられた子供が出てしまったわけです。
マイノリティーにとって暮らしやすい社会は、全ての人が暮らしやすい社会であり、それは「ムラ社会」の論理では実現できません。
「おたくバッシング」が感情論になってしまうのは、「ムラ社会」の論理に基づいているからですが、「ムラ社会」は最早、隣人同士のオピニオンの中ではなくて、メディアの中にあるわけです。
私は「子供の安全」の為に、部分的に「ムラ社会」型の仕組みを用いる事には賛成ですが、故にこそ、「おたくバッシング」は解消されるべきなのです。近所の子供が門限を過ぎても帰ってこないというだけで、警察が動くよりも先に自治会の役員が地域のオタクの部屋に踏み込んでくる様な町って、どう考えても住み難いですから。
あなたはその為に「コミュニケーション能力」や「生きる力」が必要だとお考えだし、私は自虐的なセルフイメージとの決別こそが、まず必要だと考えているわけです。自虐的だったり自嘲的だったりする人と積極的に対話を持とうとする人は、その人の同類か、余程に優しい人、もしくは、単にその人を嘲りたいだけの人という事になりますからね。そもそも自虐的にしか自分を見られない人が、「社会に自分を合わせる」にしても、「社会が自分を認める様に訴える」にしても、その為の「生きる力」を持てるとは思えません。
さて、すでにここでの衆愚代表様と私とのやりとりは、エントリーの内容についての話題から離れてきております。私への老婆心から貴重な時間を割いていただいた事には感謝いたしますし、「おたくライフを有意義なものにする為の議論」はもっと広く行われるべきでしょう。しかし、ここではこのあたりで打ち切りませんか?
まず第一に「ガンダムオリジン」。次に「ガンダムさん」、そして最後に「教えてください、富野です」という連載だけを読むのが毎月の習慣でした(何しろ立ち読みなもので…)。
ところが最近連載を開始した「ガンオタの女」という作品がやたらと好きなんですね。
主人公のガンオタの女(27)は、コアなガンオタであるという事実を世間からひた隠ししつつも、行動の節々にガンダムネタが出てくるというギャグ漫画です。
古鳥羽護さまはそういうノリは個人的思想から見て自虐的だということで嫌われるかもしれませんが、私はこういうノリが大好きなんです。
私と古鳥羽護さまの決定的な違いはそこかもしれません。
ただ、わたしは主人公のガンオタの女(27)は、会社内で結果を出しているゆえに、彼女は深い自虐や自嘲までには至っていないように思えますが、如何でしょうか?
(マンガですが)こういう世間との折りあいのつけ方もアリだと思います。
さて、私が言う「コミュニケーション能力」とは、その「ガンダムオリジン」で連載している、「教えてください、富野です」の様に、自ら積極的に行い、自分が持っていない経験や価値観、思考プロセスを他者と対話する事でそれを知り、自らの補完していけば自分を強くする事ができるし、また「おたく狩り」の様な雑音を無視したり一瞬で切り替えしてオシマイにできるような老獪さを身に付けれると思ったんですね。
因みに、古鳥羽護さまは「自虐的だったり自嘲的だったりする人と積極的に対話を持とうとする人は、その人の同類か、余程に優しい人、もしくは、単にその人を嘲りたいだけの人という事になりますからね。」とおっしゃっていましたが、私は自虐的で自らが言葉を発しないような人に、積極的に関わって話しかける人間の99%は詐欺師であると考えております。
そういう意味においては、オタクに向けて積極的に言葉をぶつける大谷昭宏は詐欺師であるといえます。
貴方がおっしゃった「善意」というものの本質は、結局は偽善であり詐欺行為であるということだと私は考えます(日本の非武装絶対平和主義論、戦争責任論、戦後賠償論、九条擁護論の殆どもこれと同じ傾向がありますよね)。
無論、古鳥羽護さまのようなオタク同士の「横の連携」というのも必要でしょう。
対して私が言っているのは「縦のつながり」のことです。そして「繋がる先」はオタク趣味を持つ人でもあるし、あるいはそういう趣味を持たない人(こっちの方が圧倒的)かもしれません。
しかし自分を強化する為には、趣味が同じであろうが無かろうが積極的に「他者」と関わって、自己強化のネタを引き出さなければならないのです。
結局、オタクといわれる趣味を持ってしまったのなら、どちらが正しくてどちらが間違いというわけではなく、両方必要なのでしょう。
その両方をバランスよく取り入れる事で、本当の意味での「自虐的な自己イメージを改める」ことができるのではないのでしょうか。
古鳥羽護さま的な傾向が強くなりすぎると、単なる「傷の舐めあい」に陥る危険性がありますし、私の言うようなな傾向が強くなりすぎると、ガツガツして寛容さが失われがち(富野先生化)になる可能性があります。
その事を自戒して、うまくやっていく必要があると私は思います。
ただ、私も貴方も、自分の価値観や考え方を総点検して、相手に対し提示しあえることができたので、この議論も有意義だったのではないのでしょうか。
フィナーレとしまして、とある雑誌で富野先生がこんな事をおっしゃっていたので、それを紹介してシメたいと思います。
>(インタビュアー)つまりアニメが好き、フィギュアが好きでいて構わない、テレビ版(Zガンダムの)カミーユのように、その自分を絶対不動のものとしてそれ以外の現実をストレスと思うんじゃなく、外側の事象に対して見方を変えて自分を開いていけばおかしなことにならないということですか?
(富野先生)そうですよ。嗜好品、つまり趣味というものは、広い方がその人の人格論として、悪くないんだから、だからそういう自分の中の、自分の人格の一部として置いておけばいいだけのことなんですよ。その一部を1/10にするのか1/100にするのかという程度の違いでしかないわけですから、趣味はなるべく広く持っている方が、それは得です。<
この様な富野先生の意見に同意している事が、私が今まで投稿させていただいた事の中軸であるのです。
最後に長々と投稿し、それを削除せずに更に長い反論意見を私に向けて書いていただいた古鳥羽護さまにお礼申し上げます。
ありがとうございました。
そして長文投稿申し訳ございませんでした。
私の風貌はオタク風ではない、普通に社会で人と関わるときに趣味の話にならない限りはオタクか否かなど他人からは全く分からないだろう。しかし部屋はたくさんの萌えグッズが並んでて異様な光景だと思う。アニメや二次元のイラストがカワイくてたまらないからふと眺めてはニヤニヤしてしまうのだ。秋葉原に行くときももちろん一人。他人の目を気にしてるダメなオタクである? オタクも様々になってきたが、やはり服装や身だしなみに掛かる費用もすべてマンガやDVDや同人誌につぎ込めるのは素晴らしいことだ。私のように働いていて人付き合いや様々な生活費用の支払いに追われる身とあっては好きなモノに使える金額や時間は限られているから。実家に依存しアルバイトをするだけのフリーターが増えるのも無理はない。そもそも私は結婚などしたくないがオタクを旦那に持つメリットは一般女性には無いからな。
現代社会にはニートのオタクは文化発展の担い手として存在理由があると思う。この先ロボット技術がさらに進歩して好みのアンドロイドと暮らせる日が来た時に、日本はまたたくさんの問題に直面するような気がするが。技術は必ずしもすべての人を幸せにはしないか。
私たちが暮らしてる日本は多様化していて正解や不正解が曖昧なのに選択の自由があり若い世代はとても困惑している。私としては悪徳と揶揄されても構わない、美少女の抱き枕やロリコンマンガを側に置いて寝続けるだろう。若い子等に必ずしもそうなれとは言わないが、結婚をしたい、他者から認められたいがために自分の大切なモノを投げ出したくはないものである。