既に大きく報道されている様に、秋葉原で、ここ10年で最悪の「通り魔事件」が起こりました。
私自身も良く知っている場所であり、このブログを良く引用してくださる「二次元至上主義!」さんが背景画像にしている様に、秋葉原を象徴する様な交差点で起きた事件だけに、とてもショックを受けています。
秋葉原に何かを求めて訪れていた人たちが、突然に命を奪われてしまったと言う事に、私は深い悲しみと憤りを感じます。
亡くなった方々のご冥福をお祈りするとともに、怪我を負われた方々にお見舞い申し上げます。
この事件が、「若者のモンスター化」や「体感不安」を煽る為に利用されてしまう事は確実ですし、各局の報道でも既にそういう解説が始まってしまっていますが、本当に論じなければならないのは、なぜ「誰でも良かった」のか? であり、「誰でも良かった」のにも関わらず、なぜ「秋葉原が標的にされた」のか?だと思います。
そもそも容疑者は、静岡でわざわざトラックを借りて、秋葉原の歩行者天国まで運転してきて、人ごみに突っ込んでいます。
「誰でも良かった」のならば、なぜ、秋葉原を攻撃しなければならなかったのでしょうか?
秋葉原の街や文化に、何かこの容疑者から、恨みを買うようなところがあったのでしょうか?
それにしても、絶望から凶行に及んだ犯罪者たちの供述が決まって、「誰でも良かった」というものになっているのは何故なのでしょうか?
斎藤環先生は、これを「名前の格差」という言葉で説明し、「誰でも良かった」のは、被害者に対しての言葉というだけではなく、一連の事件の犯人にとっては、自分自身もまた「誰でも良い」存在になってきてしまっていると指摘しました。
「犯人はインドア派」「犯行時にニヤニヤ笑っていた」という情報も入ってきていますが、容疑者をそこまで追い込んでしまったのは何なのか?
そして、どうして秋葉原を攻撃しようとしたのか?
秋葉原もまた「誰でも良い」人たちの集まりだと、犯人が勝手に思っていたのだとしたら、それこそ悲しい誤解でしょう。
家電製品にオタク文化と、個人の欲望を吸収して変化してきた街に、何か自分にとって便利なものや楽しいものを求めて集まってきた人たちが、容疑者と同じ様な「誰でも良い」人たちである筈がないというのに…
つまるところ、秋葉原に来る人たちは、「誰でも良くない」「名前の勝ち組」だと、つまり「幸せな人」だと容疑者に思われたからこそ、その恨みによって殺されたのではないのかと、現時点では考えられます。
これは、同じ日付である事が指摘されている、大阪教育大学付属池田小学校への乱入殺傷事件と、構図が良く似ているのです。将来を約束されたエリート小学生と、オチこぼれで未来のない犯人という構図が。
本当に、やるせない気持ちになります。
なお、環境問題の特番があったため、「真相報道バンキシャ」はありませんでした。
特番に割り込んだ報道を受けて、みのもんた氏が「とんでもない事件だ。アキバに人を殺しに来たあ? 歩行者天国で、みんな安心して歩いているところをまあ! まあ、既に拘束されていて良かったけどね…」と、何か論評しようとしましたが、番組の別会場からの中継に割り込まれて、途中で切られてしまいました。
おそらく、翌朝の朝ズバで何か論評するでしょう。
一部で「福田総理がみの氏の顔色を伺っている」と報じられている様に、何でも良く判らないうちからワンフレーズの断定口調で述べ、しかも世論に影響力を持っているとされるみの氏が、初期報道だけで何かを口にしなかった事は、結果論とは言え、賢明な事だったと思います。
(追記)
翌朝の朝ズバの冒頭にて、みの氏は「第一報をテロップで見た時には何が起きたか判らなかった。」「テレビの速報で死傷者の数が増えていくじゃないですか。『気をつけろ』じゃ済まないんですよねえ。」「秋葉原だからというわけじゃないんでしょうが、皆さん、動画が取れるデジカメなんかを持っているから、凄い映像が撮れている。」と。また、6時台には「まだ若い人ばかりなのに、亡くなった方々は、何もわからないまま殺されてしまった。」「こういう事件が二度と起こらない事を願う。」とコメントしました。また、「おもいッきりイイテレビ」では、容疑者が携帯サイトへの犯行予告書き込みを認めたとの報道を受けて、「一般の人が誰でも自分が思っている事を人に公開できてしまう時代。そういうのを監視する仕組みが必要。」と、インターネットを監視する必要性について言及しました。
言及リンク:
なぜ「秋葉原」なのか―スペクタクル化という逆流
私自身も良く知っている場所であり、このブログを良く引用してくださる「二次元至上主義!」さんが背景画像にしている様に、秋葉原を象徴する様な交差点で起きた事件だけに、とてもショックを受けています。
秋葉原に何かを求めて訪れていた人たちが、突然に命を奪われてしまったと言う事に、私は深い悲しみと憤りを感じます。
亡くなった方々のご冥福をお祈りするとともに、怪我を負われた方々にお見舞い申し上げます。
この事件が、「若者のモンスター化」や「体感不安」を煽る為に利用されてしまう事は確実ですし、各局の報道でも既にそういう解説が始まってしまっていますが、本当に論じなければならないのは、なぜ「誰でも良かった」のか? であり、「誰でも良かった」のにも関わらず、なぜ「秋葉原が標的にされた」のか?だと思います。
そもそも容疑者は、静岡でわざわざトラックを借りて、秋葉原の歩行者天国まで運転してきて、人ごみに突っ込んでいます。
「誰でも良かった」のならば、なぜ、秋葉原を攻撃しなければならなかったのでしょうか?
秋葉原の街や文化に、何かこの容疑者から、恨みを買うようなところがあったのでしょうか?
それにしても、絶望から凶行に及んだ犯罪者たちの供述が決まって、「誰でも良かった」というものになっているのは何故なのでしょうか?
斎藤環先生は、これを「名前の格差」という言葉で説明し、「誰でも良かった」のは、被害者に対しての言葉というだけではなく、一連の事件の犯人にとっては、自分自身もまた「誰でも良い」存在になってきてしまっていると指摘しました。
「犯人はインドア派」「犯行時にニヤニヤ笑っていた」という情報も入ってきていますが、容疑者をそこまで追い込んでしまったのは何なのか?
そして、どうして秋葉原を攻撃しようとしたのか?
秋葉原もまた「誰でも良い」人たちの集まりだと、犯人が勝手に思っていたのだとしたら、それこそ悲しい誤解でしょう。
家電製品にオタク文化と、個人の欲望を吸収して変化してきた街に、何か自分にとって便利なものや楽しいものを求めて集まってきた人たちが、容疑者と同じ様な「誰でも良い」人たちである筈がないというのに…
つまるところ、秋葉原に来る人たちは、「誰でも良くない」「名前の勝ち組」だと、つまり「幸せな人」だと容疑者に思われたからこそ、その恨みによって殺されたのではないのかと、現時点では考えられます。
これは、同じ日付である事が指摘されている、大阪教育大学付属池田小学校への乱入殺傷事件と、構図が良く似ているのです。将来を約束されたエリート小学生と、オチこぼれで未来のない犯人という構図が。
本当に、やるせない気持ちになります。
なお、環境問題の特番があったため、「真相報道バンキシャ」はありませんでした。
特番に割り込んだ報道を受けて、みのもんた氏が「とんでもない事件だ。アキバに人を殺しに来たあ? 歩行者天国で、みんな安心して歩いているところをまあ! まあ、既に拘束されていて良かったけどね…」と、何か論評しようとしましたが、番組の別会場からの中継に割り込まれて、途中で切られてしまいました。
おそらく、翌朝の朝ズバで何か論評するでしょう。
一部で「福田総理がみの氏の顔色を伺っている」と報じられている様に、何でも良く判らないうちからワンフレーズの断定口調で述べ、しかも世論に影響力を持っているとされるみの氏が、初期報道だけで何かを口にしなかった事は、結果論とは言え、賢明な事だったと思います。
(追記)
翌朝の朝ズバの冒頭にて、みの氏は「第一報をテロップで見た時には何が起きたか判らなかった。」「テレビの速報で死傷者の数が増えていくじゃないですか。『気をつけろ』じゃ済まないんですよねえ。」「秋葉原だからというわけじゃないんでしょうが、皆さん、動画が取れるデジカメなんかを持っているから、凄い映像が撮れている。」と。また、6時台には「まだ若い人ばかりなのに、亡くなった方々は、何もわからないまま殺されてしまった。」「こういう事件が二度と起こらない事を願う。」とコメントしました。また、「おもいッきりイイテレビ」では、容疑者が携帯サイトへの犯行予告書き込みを認めたとの報道を受けて、「一般の人が誰でも自分が思っている事を人に公開できてしまう時代。そういうのを監視する仕組みが必要。」と、インターネットを監視する必要性について言及しました。
言及リンク:
なぜ「秋葉原」なのか―スペクタクル化という逆流
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