f-kafkappaの日記2  ~ 緑と青の風に乗って~

放置していた「弧愁庵人の逆襲」を再開します。
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日本に原発は要らない!!

春の雨はやさしいはずなのに

2017年04月18日 05時22分42秒 | Weblog
春の雨はやさしいはずなのに 朝倉理恵




鎮静剤 / 高田渡






アーカイヴ
桜 ``コブクロ``    桜がつらい
2009年03月28日 13時50分34秒 | Weblog

桜 ``コブクロ``

川を挟んで東京都と境を接する千葉県のI市に住んでいた。私は日本一綺麗で、環境が素晴らしい街だと今でも思っている。

昔、明治政府が帝国大学(東大)の用地として準備した高台の広い土地だが、その件は、最終的に文京区本郷に流れた。教授たちの通勤が「渡し舟に乗らねばならない」ことがネックとなったのだ。橋も電車も無かった時代のこと。今でもその地には「矢切の渡し」というものが残っている。葛飾の帝釈天前から出て、千葉県に渡す。そこから北に歩けば「野菊の墓」の舞台である。

結局東大は建てられなかったが、陸軍病院とか軍関係の利用の後、現在は女子大、私立大、国立大、スポーツセンター、国立病院など文教地区として市のシンボル的に使われている。由緒ある寺もあり、その隣には「桜の名所」の公園があって、私はそこで子供と散歩するのが好きだった。
捨て猫をその公園で拾って育てたりもした。写真のドラもその一人?です。
別れた妻の実家の目の前であって、そこの犬もかっては公園の捨て犬だった。

I市は海辺の街。江戸時代より前から埋め立てられてどんどん干拓地が東京湾を狭めていった、いわば平地で、ゼロメートル地帯が多い街。大昔からの入り江をたどれば、万葉の手古奈姫の物語に由来する「真間の継橋」が今尚残る。そういった平地がほとんどを占める市内において唯一の高台がその東大を建てるために用意された広大な土地だった。
かっては「西の芦屋に東のI」といわれた文人の街であり、今尚その面影は残っている。

私はそこの公園に子供らを誘ってどれだけ散歩したか数え切れない。その公園の桜を何度見たことか・・・。かってデパートにいた頃、職場の連中を誘って50人くらいで花見をしたこともあった。花見に喧嘩は付き物で、阪神タイガースの悪口を言われて、私が先頭になって大喧嘩が始まった。私は喧嘩は数を頼りとはしないが、何せこっちは50人が控えていた。相手は7人で、私と向こうの3人ぐらいで喧嘩が始まり、そのうちにぐちゃぐちゃになって警察官が飛んできたのだった。断っておくが、私のお酒は綺麗であってめったに喧嘩はしない。絡まれたから止むを得ずだったことは理解して欲しい。そのあと、職場の若い女の子たちは訳もわからず感動して「かっこいい~!」と言い、、私の妻は怒りまくっておりました。馬鹿な話とはいえ、思い出の一つとはなった。

その何年か後、私はもうじき桜が咲くという日に家を出た。
二人の子供に手紙を書き、封筒の表書きにそれぞれの名前を書いたとき、思わず涙があふれ出た。それから、今の会社の関係の部屋を借りもう何年が過ぎたのだろうか?半年間家庭裁判所の調停員をはさんで話し合いを続け、秋には離婚が決まった。離婚届なんてものは必要も無く、妻が、家裁の書類を持って市役所に出し、その数時間後、私は転出届けを出した。
市役所の職員は一目見れば解るのだろう。数時間前に離婚し、この街から出て行く私の書類を心なしか控えた態度で接してくれたように思う。
「印鑑証明はこれで無効になりますから、カードは処分してください。」

今の街に越してきてすぐに桜が満開となった。深川にも桜の名所はあるけれども、ちっとも綺麗だとは思わなかった。

その満開の桜を見て、私は涙が止まらなかった。
 




悲しみの向こう Movie:あんべ光俊



コートにスミレを(みどり・らんぼう)




ブラザー軒 / 高田渡
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