f-kafkappaの日記2  ~ 緑と青の風に乗って~

放置していた「弧愁庵人の逆襲」を再開します。
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「宮沢賢治」が今生きていたら、早速・安部や日本会議が作ろうとしている「共謀罪」で捕まってしまう!共謀罪とは最悪の権力を国家に渡すということだ。

2017年04月08日 12時58分35秒 | Weblog


史上最悪の内閣・アベ日本会議・自民党と裏切り・平和を歌う下駄の雪公明党と維新、、、、が、天下の悪法「共謀罪」を法制化するという。


戦前回帰。監視社会になって、国民は次から次に捕まるという「明るい」?????未来がすぐそこまで来ているのだ。
選挙ではこんな公約は言わなかったなどと言っても遅い。バカな大嘘つきの戦争屋どもに投票した国民が悪いのだ。
こんな戦争屋が勝てるようにわざわざ40%の国民が選挙を棄権した結果なのだ。
国民が「史上最悪の戦争屋ども」を選んだ結果なのだ。アベや日本会議は地獄に堕ちるだろう。そんな連中を選んだ国民も、地獄に堕ちるのだ。


星めぐりの歌


宮沢賢治が「農民の生活・意識・生きがい向上」のために作った羅須地人協会は
「共謀罪の疑いがあり」
ということで潰された。
この安部ゲリ政権の時代に賢治が戻ってきても、やっぱり捕まえられるかもしれぬ。共謀罪とはそういうものだ。最悪の極右政治家を国民は選んでしまったという話だ



WIKIより
羅須地人協会
協会設立
賢治は1926年3月に、教員として勤務していた岩手県立花巻農学校(岩手県立花巻農業高等学校の前身)を退職した。この退職の理由としては複数の事情が挙げられているが、最も大きかったものは生徒に対して「農民になれ」と教えながら、自らが俸給生活を送っている点への葛藤であったと推定されている[1]。

同年4月より、実家から約1.5km離れた花巻川口町下根子桜(現・花巻市桜町)にあった宮沢家の別宅を改造して自給自足の生活を始める。4月1日付の地元紙岩手日報には「新しい農村を建設する 花巻農学校を辞した宮沢先生」という賢治の談話入りの記事が掲載された。同年夏、周囲の若い農民とともに、羅須地人協会を設立した。「協会」とはいっても、実質的には賢治一人の手になる私塾である。設立日は旧盆に当たる同年8月16日とされた。
賢治は昼間周囲の田畑で農作業にいそしみ、夜には農民たちを集め、科学やエスペラント、農業技術などを教えた。また、それとともに自らが唱える


「農民芸術」の講義も行われた。この講義の題材として執筆されたのが「農民芸術概論綱要」である(詳細は後述)。協会設立に先立つ5月から、賢治は周囲の人々を集めたレコードの鑑賞会や、子ども向けの童話の朗読会も始めていた。さらに賢治は農民による楽団の結成も考えて自らチェロを購入して練習に励んだほか、4人で向かい合って使えるようにした特注の譜面台まで製作していた[2]。もっとも、賢治自身もチェロの技術はほとんど上達せず、楽団は練習だけにとどまった。このほかメンバーが不要品を競売する一種のバザーも開いた。農閑期に被服や食糧、工芸品を製作することも企図されていた。1926年12月には、賢治はチェロやオルガン、エスペラント、タイプライターなどの習得のために上京している[3]。
活動停止とその後[編集]

協会には周囲の若い農民たちは集まったものの、それよりも年長の保守的な農民の理解はなかなか得られなかった。1927年(昭和2年)2月1日、岩手日報に「農村文化の創造に努む 花巻の青年有志が地人協会を組織し自然生活に立ち返る」という紹介記事が掲載された。記事自体は好意的なものであったが、この記事をきっかけに「若者に社会教育を行っている」という風評から賢治は協会の活動に関して花巻警察署長の伊藤儀一郎による聴取を受けた(聴取の時期について『新・校本宮澤賢治全集』の年譜では「3月か?」としている)[4]。このため、賢治は3月をもって協会としての活動を休止した[5]。

その後も賢治はこの別宅で農業指導の活動を続けた。その一つとして協会設立前より行っていた、農家に出向いての施肥指導がよく知られる。これは土地の状況を聞き、それに合った肥料配合を決めるもので「肥料設計」と呼ばれた。その模様は『春と修羅 第三集』に収録された詩「それでは計算いたしませう」にうかがうことができる[6]。また、花巻温泉に就職した教え子からの求めに応じて温泉の花壇設計を行ったり、協会に出入りしていた青年に正業を与えるために「レコード交換会」を開かせたりした(これは失敗に終わった)。
しかし、1928年(昭和3年)夏に高温で干天が続いた中で農業指導に奔走したことから健康を害し、実家に戻って療養することとなる。以後、独居生活や協会は再開できないまま終わってしまった。しかし、協会を含めた独居生活の時代は、賢治の生涯の中で直接農業指導に携わり、自らの理想の実現を目指した点で象徴的な意味を持つものである。
なお、賢治は実家に戻ったあとの1930年(昭和5年)に、協会に出入りしていた人物に送った書簡で「殆んどあすこでははじめからおしまいまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした」と記している。また、「禁治産」と題した戯曲の構想メモには「ある小ブルジョア」の長男を「空想的に農村を救わんとして奉職せる農学校を退き村にて掘立小屋を作り開墾に従う。借財によりて労農芸術学校を建てんという。父と争う、互に下らず子ついに去る。」という人物として設定している。これらに鑑みると、賢治自身は協会を含めた独居時代の実践について、後の時期には厳しい自己評価を下していたことがうかがえる。






賢治が若者を集めて怪しい動きをしていると警察にマークされ岩手県警に尾行されます。あの文学青年がですよ。あの農民のために生きると誓った賢治が警察にマークされ尋問されたんですよ。そんな時代がこの国にまたやってくるんですよ!

 賢治の生家は当時花巻では一番のおお金持ち。警察の動きに手心を、、、と動いたことは容易に考えられます。
兎も角、時代が戦争へ戦争へと向かっていたころでした。
まるで今の安部ゲリ政権と同じ!
普通の市民がちょっとでもまとまって動くならば、特高警察にマークされるという時代が蘇ってくるわけです。
そんな国家がまともな民主国家だと思いますか?
自民党や公明党、維新に投票された方たちはどう責任取るつもり?
選挙にも行かず、腐った政権誕生に力を貸した方たちは今更文句言えないよね。
民主党という野党、何考えてるの?絶対反対で命を懸けるほどの危険な法案でしょうに。



星めぐりの歌 映画「あなたへ」より
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