来し方春秋

市井の人々との来し方をめぐって

悲しい別れの処方せん

2008-12-15 20:34:28 | 証し
年賀ハガキの投函がはじまった。私はまだ年賀状を買い求めてもいない。毎年のパターンだが、年賀状を書いて投函するのは、30日、ないし31日である。皆さんには、果たして新年のいつ届いているのか確かめたことはないが、元旦には届いていないだろうなぁ‥‥。

今年も喪中のハガキが3通届いた。2通は同級生から。一方は父親、一方は母親が亡くなったという内容で、共に90歳を超えておられた。残る1通も、90歳を超えられた御母堂様の喪中であった。

私にも、今年の春先、親戚の2人との悲しい別れがあった。今月に入っては、思ってもみなかった方が突然お亡くなりになってしまった。これは、ショックであった。

多くの人様と面識を得れば得るほど、また別れも多くなる。これは、辛いことである。知らなければ悲しまないですむ。ショックも受けなくてすむ。でも、知り合ってしまった……。自分は幾つまで生きられるかわからないが、この先も、多くの人様との別れがある、と思うと、憂鬱になる。少し考え過ぎだろうが。

昨日のTV大河ドラマ「篤姫」最終回で、人の死はまた会うための別れである、ようなことを云っていた。なんとロマンチックな発想だろうか、そう思うと、救われる気がする……。

今日は、私よりもっともっと悲しい別れを体験していらっしゃる92歳の戦争体験をされた方にお会いしてきた。お話の中から、強い生命力と、それを司る精神力がひしひしと感じられた。何年もの歳月をかけて、別れの悲しさ、辛さ、不条理さをすべて我が身の中に引受けて、毎日その人々の冥福をお祈りしているという。

その人の存在をいつまでも自分の中で忘れないこと、そんな自分なりの、悲しい別れの処方せんを見つけられたような気がしている。

虚脱感

2008-03-31 17:07:37 | 証し
親しい人との別れ、それも病魔による命の終わりは悲しい。

昨日葬儀を終えて、今日は出社しているものの、虚脱感でなにも出来ないでいる。せめて、記録のためにブログを書こうと試みている。

顧みれば、2年半余りの始まりが、生々しく思い出される。

助かる!と思っていたことが、こんなにも早くくつがえされ、悔しくてならない。
どこがどうして間違ってしまったのだろう‥‥。死を迎えるに至ったのだろう‥‥。

誰も答えてくれない‥‥。誰にも答えられない‥‥。

朝はみぞれ混じりの雨、今もすごく寒い。明日から新年度が始まるというのに。
私の心を映しているようだ。きっと、黄泉へ旅立った叔母の心も映しているだろう‥‥。

素朴な願い

2007-03-08 19:42:34 | 証し
先に応募していた「マネー川柳」の受賞作品の発表があった。大賞1句、広場賞1句、グループ社賞7句、優秀賞15句から、残念ながらモレた。いっしょけんめい探したが、100句ほどのノミネート作品の中にもなかった。別にがっかりするほどのものではないが、期待感があった! のがいけなかった、やはりガッカリ。

 大賞/また一つ タダが消えてく レジ袋
 広場賞/弱いのは「無料」「先着」「今日限り」
 私のお気に入り/ 宝くじ 秘かに買って そっと捨て

みな秀作で、共感しきり! である。

主催者側の発表では、応募は全国から85,098句が集まったという。ネットでソニーの「まいどプレゼント」というのがあって、15万円以上もする液晶テレビや人気のゲーム機の応募数でさえ、4.3~4.8万人というのを見ている私としては、その多さにビックリ。しかも、クリックするだけという簡単きまわりない応募の仕方と違い、作品を創作するという頭と時間を使わなくてはできないこと。それでも応募数がこんなにあるとは、日本人は、賢い!

さらに、「特徴的だったのは、受賞候補に上がった作品の多くが50代の女性作家(私のような素人も作家とたてている。さすがマネー関連企業、目敏い)の作品で占められたこと。熟年ウーマンパワーの活発なエネルギーが、川柳作品の上にも現れた。いかに、女性の目が「マネー」というテーマを的確に捉えているかという証しであろう」と、応募作品を分析しているのも、面白い。8.5万句も集まれば、あまりにも的を得た世相で、なにかの参考にできそうである。

賢い!ばかりでなく、自己表現の方法として川柳は取っ付き易いという心理があって、応募が多いのかも知れない。書籍が売れない、本が読まれないとか言われているが、若い女性の間で携帯電話で小説が読まれていて、ヒット数が多いネット小説が書籍化され、売上ランキングの上位を占めていると、今朝のTVニュースで報道していた。

このネット小説の作家は、所謂プロではなく、小説を書きたいと単に希望して書いている人達であるという。そして読者からの共感や励ましのメッセージがあると、書きたい意欲がわいて書き続けているという。自分の持っているものを表現したい、伝えたいというのは、人の素朴な願いなのだろう。

自分史の動機に多い「生きた証を残したい」というのも、家族への素朴な願い以外にない。

川柳に応募した私にも、小説は書けないが、川柳ならできそうだと素朴に思った。その心の裏には、存在の証しみたいなことがあるのかも知れない。

また、「50代の女性作家で占められ」「熟年ウーマンパワーの活発なエネルギー」「女性の目が『マネー』というテーマを的確に捉えて」という分析に、私自身あまりにピッタリに当てはまり、確かにお金への関心は強いなぁ~と、自覚させられた。

最後に、まさにぴったりの句を探し当てた!

   電卓に 見えぬ老後を おしえられ (お京ちゃん)

入賞には落ちたが、たくさんの川柳を読んで、今日の終わりは楽しい気分だ。


史実のつくられ方

2007-02-07 19:57:30 | 証し
自分史教室で『硫黄島からの手紙』の映画の話をしたとき、その主人公・栗林中尉の最期について、「映画とは異なった不名誉な説も出ていますね」というと、Tさんが『文藝春秋』の1月号と2月号にそのことについて掲載されていると教えてくださった。

その不名誉な説とは、硫黄島に赴任して1カ月余りでノイローゼーになって指揮官のテイをなさなかったとか、最期は降伏の折衝に米軍基地に赴き帰ったところで部下に斬殺された、とかいうもの。

今日書店にいってフト思いついて『文藝春秋2月号』のその箇所を立ち読みした。『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道 』の著者・梯 久美子氏が、その出所と検証の経緯、それと自分なりの結論を述べていた。

斜め読みなので詳細は書けないが、硫黄島戦闘兵約一万人のうち約千人の人が生き残って、戦後の昭和36年頃?その関係者から聞いたという将校から聴き取った公文章の存在があった。また12名の生還した兵が綴った軍関係の資料などにその内容がある、というようなことを巡って、証言者の思い込みや戦後の反省という時代性などで、故意ではないがその内容がねじ曲がった可能性もあろう。栗林中尉の最期を見た生存者はいないので真実の確信はないが、諸々の栗林忠道の人間性のすばらしさを挙げ、また最後の総攻撃に部下の先頭に立って敵中に突進した唯一の指揮官であったことから、映画『硫黄島からの手紙』の栗林中尉の死の場面(敵の銃撃に倒れ拳銃で自殺‥‥)は、かなり史実に近いと、溜飲を下げたように締めくくっていた。

著者の分析で、気になったところがあった。戦後15、6年後の昭和36年頃の聴き取りにおいて、証言者(また聞き)の思い込みがあったということを、新聞社の報道により勘違いした可能性があるとした点。それと、昭和36年というの時代背景(戦争に対する国や人々の気持ち)が、良い意味で戦争の事実を歪めた可能性が在るとした点である。こうして史実はつくられるのか! 驚きである。

つい最近、奈良県明日香村の甘樫丘東麓遺跡の調査から、『日本書記』が語る古代最大のクーデター「大化の改新(645年)」に異説が唱えられている。蘇我入鹿がはたしてクーデターを首謀したのか?

「自分史」も真実、事実を記録したものだが、やはり記憶違いや思い違いは否めない。その中でも、「除籍簿」と「軍暦表」は 公的な資料として残っており、いまなら誰でもそれを手に入れ、家族の真実を伝えることができる。

是非、市町村から「除籍簿」を取り寄せて自分史の中へご先祖様をよみがえらせて、子孫に自分につながる膨大な家族史があることを、そして県の厚生課から、戦争で亡くなられた親族や関係者の「軍暦表」をもらって、是非、自分史の中に顕彰と感謝の気持ちを込めて記録してほしい。「自分史」の意義はこんなところにもある。

年には功がある

2007-01-30 22:30:49 | 証し
市井の人々の「自分史」に関わらせていただいて、昨年の11月末で丸7年が過ぎた。その間に出会ったほとんどの方は私よりお年を召しておられ、もう鬼籍に入られた方もいらっしゃる。

とはいっても出合いから人生の最期までお知り合いでいられる方は、極僅か、ほとんどが一期一会、その場限りのただ一度のまみえである。

名前を名乗りあうこともなく、お顔も容姿も定かではないが、そういう方から受けた質問や意見で今でも強烈に残っているものがある。

まだ60歳代であろうその方は、私の「自分史には、どんなことがあっても他人の悪口を書いてはいけませんね」という書くための注意点の話に対して、「私の人生は姑との確執でした。嫁にきたときから優しくされたことはありません。最期まで看取りましたが、やっと自分の時間ができ、このことをしっかり書いておこうと思って話しを聞きに来たのに、それを書けないのなら、私には書くことがなくなってしまいます」というものだった。

まだ新米だった私は、困った。

それから、2年半位経たとき、S市の女性グループの集まりでお話をさせていただく機会があった。2月のとても寒い日の夕方のことである。

穏やかな笑顔をたたえたいくらか割腹のよい80歳代のご夫人が、「自分が生きて経験してきたことを書いておきたいと思って、今日は私の希望で来ていただいたのです‥」と挨拶され、「姑の介護を終ってもう何十年もたつのですが、辛かった介護も今では懐かしいくらいです。介護日記を書いていたので読んでみたのですが、そこには辛い、苦しい、私だけがなぜ、という毎日愚痴と恨みの言葉しか書いてないんですね。読み返して自分でも驚いてしまいました」といいながら、そして「 私の人生は、こんなにつまらない人生じゃないんですよ」と。

「介護のど真ん中にいるときの正直な気持ちはここに書いているが、これが私の全てではない。私の人生は楽しいこともいっぱあり、いい思いもたくさんして来た。それをぜひ書き残したいので、どう書いたらいいか勉強したい」ということだった。

私は、「ああ、これが年を経るということか」と、妙に納得した。先の「確執以外書くことがない」といわれた方は、いつかこのような気持ちになられるときが来るのだろうなぁ、とあのときの答を知った。

まだまだ、心情としては解るが即答できない質問をいただくが、 こうして「年の功」に教わっているのである。

映画『硫黄島からの手紙』

2007-01-22 21:55:19 | 証し
韓流ブームに乗って韓国映画を見てから1年ぶり位で映画館にいった。『硫黄島からの手紙』はきっとスケールがあり戦争シーンが多いだろうから、映画館で観たいと思っていた。スクリーン下から沸き上がってくるような銃撃戦の凄まじい音は想像以上に迫力があり、自分のからだが揺れ動くようで怖かった。暫くすると慣れたが。

主役の渡辺謙はじめ登場人物それぞれが個性を持って描かれていて見飽きなかったが、テーマである、日本兵が玉砕した洞窟に残された「手紙」がボケていたように思った。自滅シーンなど悲惨な戦争映画の感が強く、「手紙」から受ける内面性や情愛の描写は薄く、投降か、玉砕か、に迷う兵士の心の内を、多少手紙を背景に描かれていたに過ぎないなぁと感じた。「日本人の戦争」を語るときは、やはり忠義とか、特攻とか、玉砕とかを切り口にする正攻法、と外国人の監督クリント・イーストウッドといえども感じたのだろうか。硫黄島の決戦を米兵の視点から捉えたとされる『父親たちの星条旗』を観てみたいと思う。

「硫黄島の手紙」に関する興味ある事実が、坪内稔典(俳人)氏の文章で紹介されていた。 以下が要約である。

戦後、アメリカのジャズシンガーが慰問公演で硫黄島を訪れ、洞窟で見つけた日本兵の手紙の一束を持ち帰り、それからほぼ50年後、俳人・宇多喜代子氏がそのシンガーからその手紙を託されたそうである。「なぜ私はその遺品を引き取る巡り合わせになったのだろう」と自問した宇多氏は『ひとたばの手紙から--戦火を見つめた俳人たち』を著したそうである。手紙は妻子から兵士にあてたもので、持ち帰ったジャズシンガーは、その手紙の束は声を発しているようであり、その声が気になって持ち帰ったという。妻子の住所は宮崎県椎葉村で、宇多氏は手を尽くして遺族を探し出し、無人になっていた兵士の家に遺族や親戚、村人が集まり、50年ぶりに戻ってくるこの家の長男の遺品を迎えたそうである。

「自分史」に戦争体験を書かれる方がほとんどである。戦場や兵隊、軍隊での体験ばかりでなく、女性の銃後の体験や幼少期の疎開体験などで、すべてノンフィクションである。そのせいか、上記のような情報を得ていたせいか、映画『硫黄島からの手紙』は、余にも私の中では小説でありすぎた。

悲しみのブログ初日

2007-01-15 20:25:13 | 証し
年賀状は一年間、何の音沙汰も無い人と交わることのできるいい慣習だと思っている。

例年パソコンで自作のイラストと賀状文を入れてプリンターで印刷するが、住所は手書き、一言コメントも添えている。懐かしいお顔を思い出しながら、短い一言を添えるのは割とエネルギーがいる。でも楽しい。

そんなことで出した年賀状に、相手からも丁寧な年賀状が届く。これまた楽しい。

勝手に懐かしがって年賀状を出すのだから、返信を期待してはいけないのだが、年賀状がこないとどうしたのかな?とついつい思ってしまう。今年も10人程そんな方がいた。

昼過ぎ、ポストに向かう。知らないお名前の葉書が一枚あった。平成13年以来ご無沙汰で、それでも毎年達筆の年賀状が届いていたTさんの息子さんからで、年賀状に対する訃報のためのことわりのお葉書であった。

Tさんは私が最初に「自分史」にかかわらせて頂いた方で、喜寿の平成12年9月に自分史と奥様の遺稿短歌集を続けて出版された。何度M市のお宅に通っただろう。Tさんの自分史を本棚から拾い「あとがき」を読み返してみて、当時が走馬灯のように浮かぶ。

平成11年に自分史コーディネーターとして出発した私は無我夢中でTさんと向き合た。初心者の迷いの中で最後にこのあとがきを読んだときは、正直ホット安堵し、それと同時に自分史の「手ごたえ」を感じたことを思い出した。だから今の私があると、悲しみに浸りながら、初心に帰った。感謝と淋しさが募った。左のプロフィール写真に遺稿短歌集の表紙を使用させていただき、初心忘るべからずとしたい。

息子さんの葉書に「2冊の本は父母からの私への貴重な贈物と思い大切にしております」とあった。これも励みとしたい。