感覚の変換①
オリンピックをきっかけに、このところテレビを見る機会が増えた。
寝不足で体調が弱りまくっている人も少なくはないだろう。
あたしもその一人だ。
とにかく日本人選手の活躍に心を躍らされたり
敗戦に心を痛めたり、どうにもこうにもめまぐるしい。
自分が日本人だと言うことをあらためて感じる夏になった。
このオリンピックを通じて、イロイロな国のカラーを知ることも
観戦の楽しみの一つになっている。
国によって文化も違えば、考え方も違うのは当然のことで
その違いがあるからこそオモシロい。
アメリカ観光がオモシロくなくなったのは
町の風景が日本と変わらなくなったからかも知れない。
日本がアメリカ化したのだから当たり前の事だけど。
このパターンは、グローバルスタンダードと言うヘンテコな言葉のもと
アメリカの都合で、世界地図は巨大なローラーで地ならしされていこうとしている。
アメリカなんていう浅い文化の国に無理矢理仕組みを変えられるのだから
たまったもんじゃない。
ただ、これは
日本国内の地方都市の風景にも言えることかも知れない。
みんな東京化してつまらない。
ファストフード店やコンビニの看板や
大手スーパーなどのロゴが町の風景を作り出している。
ジャスコやらマックやら吉牛やらローソンやら
おなじみのロゴが街中に散乱し、その町の風景を作っている。
あたし達日本人は、その昔郷土の文化を誇りに生きて来たはずなのに
たかだか数十年の浅い歴史の中でそれをいとも簡単に捨てて来た。
ここでも金融資本主義の弊害が、、、、
ほんのちょっと前の江戸時代、地方を旅する時には
通訳の人間が必要だったと言う。
ちょっと隣の藩に入ると、方言が濃過ぎて
言葉そのものが通じなかったのだ。
その当時の国内旅行は相当ロマンチックな旅だっただろう。
松尾芭蕉があれほどの距離を徒歩で廻る意味も理解出来る。
それは、立派な冒険だったからだ。
あたしたちは、もう一度自分たちの文化を見直した方がよい。
オリンピックの日本人選手が全員ちょんまげだったらどうだろう?
表彰台で、十二単を着ていたらどうだろう?
陸上選手が飛脚の恰好でで走ったらどうだろう?
雪駄を履いていたら?
お歯黒をしていたら?
もう、それだけで世界の人々は日本という国に興味を持ちまくるだろう。
まぁ、それは冗談として
あたしたちはもう一度自分たちの国の文化や風習と向き合う必要があるのではないかと思うのだ。
国の構造もそうだ。
税制について、原発問題について、エネルギー問題について、食について、
もう一度歴史と向き合い、それがフィットしているかどうかを冷静に
考え直さなければならないのではないだろうか?
とにかく、国の形とは
その風土と文化がリンクしなければ、味気も素っ気も無いものになるってことなのだな。
あたしたちは「感覚」を、グローバルスタンダードなどと言うまやかしにだまされずに
歴史の中に見いだすことが必要なのかも知れない。
あたしたちの個性とは、あたしたちの歴史の中にあまりある程あるのだという幸せ。
歴史のある国なのだから。
がんばれニッポン
越路よう子