海軍大将コルシンカの航海日誌blog

猫とまたたびとリムスキー=コルサコフ

都響「作曲家の肖像」シリーズVol.82 《リムスキー=コルサコフ》

2011年05月01日 21時15分10秒 | R=コルサコフとか
新幹線を利用してわざわざ東京まで出向いて聴いてきました。
その甲斐あって素晴らしい演奏を堪能できました。

リムスキー=コルサコフの作品のみでプログラムが組まれた演奏会は、オペラ公演を除けば日本では初めてではないでしょうか。
私にとってはうれしい限りなのですが、興行的に成功するかどうかという点になると、余計なお世話ですけど少々不安の残るところ。
しかもあえて有名な《シェヘラザード》を外し、いうなれば2軍メンバーのみで構成された、ある意味「野心的」とも言える試みです。
会場の東京オペラシティ・コンサートホールは、連休中ということもあってかさすがに超満員ではありませんでしたが、7〜8割くらいは埋まっているような感じでした。

実は今回演奏された作品は、私は生で聴くのは初めてのものばかり。
正確には《アンタール》だけはかつてロジェベン指揮の読売日響で演奏された「初版」を聴いたことがあったのですが、今回都響で演奏されたのは、作曲者が最終的に望ましいと考えていた「第3版」(そのあたりはプログラムにも明記されていました)で、これはもちろん初めてです。
というより、《シェヘラザード》以外のリムスキーの作品で演奏される機会はほとんどありませんから、まとめて聴けるというのはかなりの「お得感」です。

演奏会は、冒頭に震災で亡くなられた方の追悼のためバッハの作品が奏され、全員で黙祷。
リムスキーの作品は、はじめに《アンタール》、休憩を挟んでピアノ協奏曲、《スペイン奇想曲》、《ロシアの復活祭》と、つまりは作品番号の若い順に演奏されました。
アンコールは予想どおり《雪娘》から「道化師の踊り」。

個々の曲についてはまた後日。
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《アンタール》補遺

2010年09月28日 23時51分53秒 | R=コルサコフとか
《アンタール》の補足を少々。

いつだったか忘れてしまいましたが、私が2度目にElibronの楽譜をまとめ買いした際に、価格が安いということもあって《アンタール》の楽譜もついでに購入しました。
ヴァージョンについてはカタログ上に明記はなく、楽譜自体にも記載されていませんでしたが、これは1875年版でした。
その譜面を見ると、次にご紹介する国際楽譜ライブラリープロジェクト(International Music Score Library Project、IMSLP) に、1875年版として掲載されているものと書体やレイアウトなども含めて全く同一でした。
この印刷楽譜の出所は、1947年にモスクワで出版された「全集」からのもののようです。

 ***

その国際楽譜ライブラリープロジェクトですが、《アンタール》に関してはかなり充実しています。
「第2版」や「第3版」に加え、入手がかなり難しい「初版」のフルスコアも掲載されていますし、驚いたことに四手編曲版もありました(!)。
残念ながら「第4版」のみは今のところ掲載されていませんが、《アンタール》の版に関する作品研究をしようとするのであれば、ネット上でほとんど事足りてしまいます。

http://imslp.org/wiki/Symphony_No.2,_Op.9_(Rimsky-Korsakov,_Nikolai)

 ***

また、4つの版についてですが、英語のウィキペディアに短いながらも版の混乱に関する重要な言及がありました。

http://en.wikipedia.org/wiki/Antar_(Rimsky-Korsakov)

それによると、第3稿(1897年)には、「検閲を通過。Spb[=サンクトペテルブルク]。1903年11月4日。」と記されていたというのです。
つまり、1903年という年が第4稿の改訂年と同じであるため、第3稿が第4稿と混同されてしまったらしい、ということをほのめかしているのです。
そうだとすると、作曲者が一番望ましいと考えていた形が、「妥協の産物」という、一番不名誉なレッテルを貼られてしまうことにもなりかねなかったわけですね。
もっとも、どのような状況でそのような混同が生じたのか、その具体的な経緯については不明ですので、単なる憶測の域を出ない話かもしれません。

 ***

また、第4稿については、これまで明らかとなっていたとおり、

「ベッセル社が、作曲者の生存中に1875年稿の活版を破棄して1897年稿の新しい版を彫り起こすことを拒んだがために作られた折衷版である。それは、すでに存在している1875年稿の活版に、可能な部分だけ1897年稿のものに置き換えるという[ベッセル社の]『提案』が取り入れられただけのものであった。」

というものなのですが、さらに、

「このヴァージョンは紛らわしいことに[まだ「交響曲」とのみ呼ばれていた1875年稿がベースであるにもかかわらず]『交響組曲(交響曲第2番)』と銘打たれた。また、オイレンブルグ社とブライトコプフ社のミニチュアスコアには誤って『新版(1897年)』と表記された。」

とのことで、出版する側がヴァージョンのことをあまり理解しないまま(おそらくはほとんど気にかけることもなく)第4稿を第3稿であるかのように世に出してしまったことに現在に至るまでの混乱の大きな原因があると言えそうです。

 ***

ところで、今回この記事を書くにあたり、以前自分の書いた《アンタール》の記事を読み直してみたら、第3稿の作曲年を「1898年」としている部分が何箇所かありましたが、正しくは1897年ですね。どうやら自分でも混乱していたみたいです。それに自分が書いておきながら何を言っているのかよくわからない箇所もいくつかあって(苦笑)、いずれ書き改めたいと思います。


  ※文中[ ]内は私の補足です。

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Opera Explorerの楽譜

2010年09月13日 22時52分22秒 | R=コルサコフとか
掲示板で教えていただいた「Opera Explorer」の楽譜を入手しました。

http://www.musikmph.de/musical_scores/composers_sales/scorelist_eng.htm#opexp


以前ご紹介したElibronの楽譜に比べるとかなり高い買い物ですが、このところの円高傾向もあって、ようやく注文。
驚いたことにネットで注文して1週間ほどで届けられました。
海外サイトに楽譜を注文すると、半年1年は当たり前、忘れたころに届けられる...なんてことが普通でしたから、隔世の感?がありますね。

この「Opera Explorer」ですが、どういうわけかリムスキー=コルサコフの作品に肩入れをしていてくれて、彼の15作ある歌劇のうち、フルスコアで実に10作品を提供してくれています。
出版された作品に《貴族夫人ヴェーラ・シェロガ》や《パン・ヴォエヴォーダ》のようなマイナー作品があるかと思えば、《皇帝の花嫁》がなかったりと、これら10作品がどのような価値判断で選択されたのかは謎ですが、現時点ではここでしか購入できないものがほとんどですから、貴重なものであることには変わりありません。

さて、今回のお目当ては《セルヴィリア》。古代ローマを舞台にした作品です。
すでにヴォーカルスコアは手に入れていて、MIDIのデータ化もしたのですが、全部は無理にしても部分的にはオーケストラのMIDIデータ化もしてみたいとずっとくすぶっていたのですが、この超マイナー作品の総譜を手に入れるのは、東京文化会館の音楽資料室の蔵書をコピーするしか手はなく、さすがにそんな根性もなくてあきらめていたのですが、思わぬところから手に入ったという次第。

取り寄せてみてわかったのですが、楽譜の中身自体は60年代に旧ソ連時代に出版されたリムスキー=コルサコフ全集のコピーでした。
総譜が上下巻2冊で、それに台本の英訳がつくという3冊構成。大きさはB5サイズくらいでしょうか。
今回は《ムラダ》と《キーテジ》も同時に購入しましたが、同様の構成。ただし、《キーテジ》の台本は仏訳となっており、そのあたりの統一はとれていません。

まあ、これで老後の?楽しみのネタは確保できたわけで、MIDIにもぼちぼちと入れていこうと思っています。



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《不死身のカシチェイ》公演〜6

2008年09月11日 01時49分02秒 | R=コルサコフとか
これまで《不死身のカシチェイ》に登場するキャラ評を書いてきましたが、登場人物は他にもいて(イヴァン・コローレヴィチと見飽きぬ美の王女)、しかし彼等の役どころで取り立てて新しい発見は今回の公演では特にありませんでした。

イヴァン・コローレヴィチは、ある意味リムスキーのオペラでの弱点の一つと言ってもいいかもしれませんが、彼のオペラの登場人物における典型的な「何もしない」ヒーローであって、存在感がいま一つなんです。
《ムラダ》のヤロミールしかり、《皇帝の花嫁》のルイコフしかり。イヴァン・コローレヴィチも何もしていないのに、カシチェエヴナからの殺害を免れ、何もしないのに嵐の勇士の用意した空飛ぶじゅうたんで王女と再会し、フィナーレにおいても彼は何ら筋書きに関与をしていないのですね。
ここら辺がもう少し練れていれば、あるいはこのオペラ(というかリムスキーのオペラ全般にも当てはまるかもしれませんが)も今よりは世に受け入れられたのではないかとも思うのです。

見飽きぬ美の王女については、こちらもリムスキーのオペラにおける「子守唄の系譜」なるものが存在していて(《サトコ》《貴族婦人ヴェラ・シェロガ》《皇帝サルタンの物語》《パン・ヴォエヴォーダ》《金鶏》)、彼女の歌ういびつな子守唄をこの系譜上で論じるときっと面白いことがわかるのでしょうけど、ちょっと私には手に負えません。

以上の二人にはあまり発見はないといいましたが、今回の公演でイヴァン・コローレヴィチを演じたアレクサンドル・ゲルガロフ、王女役のマリーナ・シャグチともにマリインスキー劇場のソリストであるばかりか、ゲルギエフ指揮の元で録音された《不死身のカシチェイ》(PHILIPS)で同じ役で出演していましたから、配役としては申し分のないところ。

シャグチのあの立派な体格はビジュアル重視の昨今の状況では、オペラの公演ではなかなかツライものがあると思いますが、彼女のくぐもってて個人的にはあまり好きでなかった声質も、今回聞いてみると意外にクリヤーな感じで、十分に楽しむことができました。
ゲルガロフの方は一か所だけ声が割れかけてドキリとしましたが、声量も十分あって貫禄勝ち。

オーケストラの演奏の方ですが、まずは申し分のないものでした。
細かいところをいえば、せっかく用意したチェレスタの音がかき消されて聞こえにくかったとか、第2場の終わりで大太鼓とシンバルが同時に強打するところが物足りなかったとかあるのですが、まあ、録音で聴くようにはいかないのでしょう。
コンマスのブロンド美女は、《カシチェイ》の前の《シェヘラザード》では、スレンダーボディをまるで鞭がしなるようなオーバーな動作でタイミングを取っていたのが目に付いたのですが、オペラの方では私の視線はシェバチカたんの方に行ってしまっていたので、同じようにしなっていたのかどうか...。

合唱は指定のとおり舞台裏からでした。
私の好きな吹雪の場面は、通常のテンポよりもかなり速く演奏されていたのですが、合唱の方はオケよりもわずかに早く歌ってしまっていて、ここは聴いていてかなりヒヤヒヤしたところ。
私は前の方の席だったので、ステージの袖で合唱指揮者が振っている赤い光を発する指揮棒の動きもよく見えたのですが、合唱はどうもその指揮よりもテンポが速めでやや暴走ぎみだったように思います。

今回の公演はステージ形式でしたので、舞台装置も何もありませんでしたが、登場人物は実際のオペラのように出たり入ったりをしたほか、ソリスト用の譜面台には、鏡や杯、刀といった小道具も用意されていました。
演出ということでもないのでしょうけど、一応舞台上の照明は場面に合わせて色を変えたり明暗をつけたりしていました。
私が好きな第1場の終わりの管弦楽だけで奏される少し長めの間奏部分で、暗闇の中からうっすらと光が漏れてこようとしながらも、やがて元の暗黒の世界に戻ってしまう───という部分では、照明もそれに合わせて明暗をつけてくれればいっそう良かったのに...とまあ、これは無い物ねだりですね。

オペラは原語のロシア語で演奏され、舞台両側には字幕が出ておりましたので、筋を理解するのには非常に便利でした。
ただ、聴いていて思ったのですが、このオペラでは重唱のところでそれぞれの登場人物が結構重要なことを言っていたりして、それが字幕には反映しきれてない部分もあっため、字幕だけで筋を追っていた人には、何のことやらと思う場面もあったのではないでしょうか。
《カシチェイ》の録音は3種類ほど出ていますが、国内盤として日本語訳のついたものはないだけに、私なぞは字幕付きで《カシチェイ》を観れるというだけで感謝感激(感謝観劇?)だったのですが、初めて観られた方には、その点、少々不満だったかもしれませんね。
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《不死身のカシチェイ》公演〜5

2008年09月08日 00時25分44秒 | R=コルサコフとか
《不死身のカシチェイ》の数少ない登場人物の中で、もっとも「困った」キャラが「嵐の勇士」です。
なぜ彼が困ったちゃんかというと、お調子者でお馬鹿なくせに「嵐の勇士」なんてカッコイイ役名が与えられてしまっているからなんです。
元々「お約束」で物語が成立しているおとぎ話で、「嵐の勇士」と聞けば、誰だってヒーローだと思ってしまいますよね。
この「役名トラップ」にはまってしまうと《不死身のカシチェイ》の物語が混乱してしまいますので、要注意なのです。

嵐の勇士───彼もまたカシチェイに囚われの身となっていたのですが、そこはそれ、風のようにどこへでも自由に飛んで行けることから、「メッセンジャー」(要はパシリ)として娘のところへお使いに行くことになります(そこで逃げてしまえばいいのに,,,とは、この際考えないことにします)。
しかし、彼がカシチェエヴナに伝えるべきは、「わしの『死』は大丈夫か?」というカシチェイからのメッセージだったのに、間違えて王女の嘆きの言葉をしゃべってしまうのですね(ここがお馬鹿)。
まあ、それが意識を取り戻したイヴァン・コローレヴィチの「里心」がつきはじめるきっかけとなったのですから、結果オーライではあるのですけど。

ちなみに飲み屋で男性客の「里心」がつくのはトイレに行ったときなんだそうです。
そのため、トイレから戻ってきた客に間髪入れずおしぼりを手渡し、矢継ぎ早に話題を持ち掛けて飲んでいた時の状態に戻し、里心をなくさせて少しでも滞在時間を伸ばしてカネを落とさせる───というのが、やり手のホステスのテクニックらしいですね。
そういう意味では、イヴァン・コローレヴィチを取り逃がしたカシチェエヴナはホステス失格です。

さて、嵐の勇士は「自由だ!自由だ!」という台詞をことあるごとに喋っています。
確かに「自由」というのはこのオペラでの重要なテーマのひとつではありますが、自由の象徴がこの嵐の勇士であるならば、若干ちぐはぐな感じは否めません。
彼は、どちらかというとこのオペラではコミカルな役どころであるために、演出家も彼をどう解釈したら良いのかさぞ頭を悩ますことでしょう。

ちょっとオツムが弱くて、放浪癖があって、でもそれが「自由」の象徴である───という嵐の勇士の性格にどう回答するかが、《不死身のカシチェイ》の演出上の大きな鍵を握っているように思います。
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《不死身のカシチェイ》公演〜4

2008年09月07日 23時44分54秒 | R=コルサコフとか
美貌のツンデレキャラ、カシチェエヴナの2つ目の見せ所は、第3場でイヴァン・コローレヴィチに復縁(?)を迫る場面。
そもそもこのオペラでは、イヴァン・コローレヴィチは嵐の勇士の空飛ぶ絨毯に乗って苦もなくあまりにもあっさりと王女と再会してしまうため、盛り上がりを期待していた観客があっけにとられてしまいかねない所。そのため、ここで追いすがって来るカシチェエヴナの役割は極めて重要です。

カシチェエヴナはイヴァン・コローレヴィチに、自らのプライドも何もかも捨て去って「一緒に暮らしましょう」と泣きすがり、終いには王女は逃がしてあげるから、私たちは一緒にね、とまで持ち掛けてきます。
ここのカシチェエヴナは、《皇帝の花嫁》のリュバーシャを彷佛とさせますが、いかんせん持ち時間が短いため、リュバーシャのように臓の府から生暖かい血がどくどくと溢れ出てくるようなねちっこい表現は無理でしょうけど、逆に限られた時間でどこまで彼女の情念を表すことが出来るかというのが、演出上の大きなポイントとなりそうです。

いずれにせよ、ここでカシチェエヴナは明らかにこのオペラの主人公となっていますから、もはや父親のカシチェイもお邪魔虫扱いです。

「えっと、わしの『死』は...?」
「アンタの死なんか、知ったことじゃないわよ!」

と逆切れ気味に一蹴されてしまい、不死身の魔王もすっかり形なしとなってしまいました。

こんなカシチェエヴナを哀れに思った王女は、さきほどは「誰このオンナ...恐いわ」などと言っていたにもかかわらず、彼女にキスをします。
これがカシチェエヴナの邪悪な心を浄化し、それで彼女は救済され、優しい涙を流して枝垂れ柳に姿を変える...と、こうしたプロットは、リムスキーのオペラによく見られるもの。

ヒロインあるいはその仇役の死もしくは変容の場面は、《雪娘》(スネグローチカは「愛」を知り、溶けてなくなる)、《サトコ》(海の女王ヴォルホヴァは川に姿を変える)、《皇帝の花嫁》(リュバーシャの死)、《セルヴィリア》(セルヴィリアの死)、《見えざる街キーテジ》(フェヴローニャの死)など、多く挙げることができます。
ワーグナーの影響について私はよく知りませんが、よく指摘されているところですね。

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《不死身のカシチェイ》公演〜3

2008年09月02日 02時28分18秒 | R=コルサコフとか
カシチェエヴナの話に戻りますが、彼女のキャラ特性を一言でいえば、さしずめ「ツンデレ」となるのではないでしょうか。
まあ「ツンデレ」の定義もいろいろあるようで、ここでは「普段ツンとしているのに、好きな人に対してはデレデレしてしまう」という意味で考えています。
彼女をアニメでありそうなキャラで例えるなら、美人だけどヒステリック、そのくせ自己愛に満ちた学級委員長といったところ。

自分の城に迷い込んできたイヴァン・コローレヴィチを薬の入った杯でまんまと眠らせ、後はいつものように剣で始末をするだけ───と、ここで彼の美貌に心を奪われ、カシチェエヴナの心に葛藤が生じてしまいます。

───こやつはわが父の命を狙う不届者。目の覚めぬうちに始末しなければ。しかし...美しい...美しすぎる...わが美貌にも勝るとも劣らぬ...われに似つかわしい男は、世界広しといえども、この眠っている勇者をおいて他にはいるまい───などと独り悶絶(これは私の勝手な脳内イメージで、実際の台詞でこんなふうに言っているわけではありません。念のため)。
オペラにおいては、この場面がカシチェエヴナに与えられた一つ目の見せ場となっています。

そうこうしているところに乱入してきたのが「嵐の勇士」。
せっかく自己陶酔して勝手に盛り上がっていたところを台無しにされたばかりか、イヴァン・コローレヴィチも目を覚ましてしまい、ムードはぶちこわし。
おまけに、カシチェイのメッセンジャーたる嵐の勇士は、主人のカシチェイではなく、王女の言葉をカシチェエヴナに語りだしてしまうのですね(この困ったキャラについては後日)。

「ちょっとアンタ!何わけのわかんないこと言ってるのよ!」

しかしブチ切れぎみの彼女にはおかまい無しに、嵐の勇士はイヴァン・コローレヴィチを空飛ぶじゅうたんに乗せてさっさとトンズラしてしまいます。
呆然と立ち尽くすカシチェエヴナ...。

せっかくの美貌も魔力もまったく威力を発揮することなく、間抜けな嵐の勇士のおかけで愛の芽生えはじめたイヴァン・コローレヴィチをも簡単に奪取されてしまった彼女。
この哀れっぽさ、なんとなくツンデレキャラにふさわしいとは思いませんか?
もし《不死身のカシチェイ》がアニメにでもなれば、一番の萌えキャラはカシチェエヴナで決まりです。

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《不死身のカシチェイ》公演〜2

2008年08月30日 02時55分54秒 | R=コルサコフとか
───カシチェイの人はまるでプーチンさんみたいだね

とお連れの方に言っていたのは、《不死身のカシチェイ》の公演で隣に座っていたおじさん。
演奏終了後のカーテンコールの時です。
確かに、カシチェイを演じたアンドレイ・ポポフ(テノール)の風貌はそんな印象で、前ロシア大統領によく似ていました。
しかしそれは、単にそっくりさんが演じていたという以上に、このオペラにおけるカシチェイの役回りを考え直すのに、ちょうど良い手がかりを与えてくれたのです。

ロシア民話に登場するカシチェイが、民俗学的にどのような形象を表しているのかは良く知らないのですが、一般には残忍冷酷な魔王というキャラクターとして知られています。
一方、リムスキー=コルサコフのカシチェイは、血も涙もないというよりは、どこかコミカルな面も持ち合わせた、利かん坊のわがままなおじいさんといった側面が見られます。
オペラの中でも王女に向かって「子守唄を歌ってくれ」としつこく要求し、それを拒絶されると嫌がらせをはかる───まるで駄々っ子のようですね。確かに年を取ると子供のようになっていくともいいますけど。

話は少々それますが、カシチェイの「ヘッヘッヘッヘッ」という笑い声の部分の管弦楽での表現は、《クリスマス・イヴ》のお間抜けな悪魔や、《金鶏》のシェマハの女王、あるいは《ムラダ》の市場での群集のものと比較してみると面白いかもしれません。
リムスキーのオペラを聴いていると、こうした「笑い声の系譜」とでもいうような管弦楽上の特質があるように思います。
その延長線上に「トムとジェリー」のジェリーの笑い声の表現がある───などといったら、ちょっと考え過ぎでしょうかね。

ついでに系譜という点では、カシチェイは間違いなくリムスキーのオペラでの「魔術師の系譜」にあたる役です。
この「魔術師」というのは、「自分は自然の法則などを極めた結果、魔術を会得したのだ」みたいなことを劇中で歌い、魔法や毒薬や殺人ニワトリ(?)などを用いて一波乱を起こす、という点で共通しています。
典型的なのは《皇帝の花嫁》のエリセイ・ボメーリー、《金鶏》での占星術師ですが、他にも《ムラダ》の老婆、《セルヴィリア》のロクスタ、《パン・ヴォエヴォーダ》のドローシュなど、特に後期の作品に顕著に見られます。
あるいは《モーツァルトとサリエリ》のサリエリもこの系譜に加えても良いかもしれません。

さて、プーチンさんの話に戻りますが、カシチェイの性格の新たな側面として気付かされたのが「為政者の孤独と苦悩」というものです。
といえば、ロシア・オペラを好きな方なら直ちに《ボリス》を思い起こすでしょうが、カシチェイにもこのボリス的な面があるということに気付かされたのは大きな収穫でした。
悪の帝国の魔王といえども、常に孤独感に苛まれ(だから子守唄を歌ってくれと懇願する)、不死身であることが確かなものか不安で仕方ない───オペラの中でカシチェイが「近寄るな!近寄るな!」と叫ぶ場面がありますが、これもやはり《ボリス》を御存じの方であれば「あれ?同じようなことを」と気付かれるに違いありません。
もしかしたら、リムスキーも《ボリス》のパロディとして、カシチェイにこのような台詞を言わせたかったのかもしれませんね。

アンドレイ・ポポフ演じるカシチェイは、こうしたボリス的側面が前面に出たもので、かつてマリインスキー劇場で聴いたウラジーミル・ガルーシンのおとぼけ的なカシチェイとは全く異なり、同じ役でも演じる人によってこうも違うものかと、改めて知らされた思いでした。
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《不死身のカシチェイ》公演〜1

2008年08月28日 00時50分59秒 | R=コルサコフとか
《不死身のカシチェイ》の公演に行ってきました。(8月22日神奈川県民ホール)
その感想です。

シェバチカたん萌え───────つ!

このオペラのソリストで一番良かったのが、カシチェエヴナ役のアンジェリナ・シェバチカ(メゾ・ソプラノ)。
なぜって、美しいからですよ!
いや、もちろん歌も良かったですよ。
しかし彼女の容姿は、花をあしらった暗いトーンのドレス(これはカシチェエヴナの役を意識してのものでしょう。お見事!と拍手したくなりました)と相まって、このあまり知られていないオペラの公演の中でも一際輝くものでした。

私は公演中、彼女の暗く情熱を秘めた妖艶さにすっかり釘付けになってしまいました...。

リムスキー=コルサコフのオペラでは、しばしばタイトルロールではなく、その恋敵となるような女性が主役と言っても良い、重要な役割を担うことがあります。
つまり《雪娘》では、スネグローチカではなくクーパヴァに、《皇帝の花嫁》では、マルファではなくリュバーシャにむしろ作曲者が深い同情を寄せて歌わせている───そして今回の《不死身のカシチェイ》では、見飽きぬ美の女王ではなく、ましてやカシチェイでも嵐の勇士でもなく、カシチェエヴナこそがこのオペラの真の主役であると言ってもいいかもしれません。

アンジェリナ・シェバチカは、ウクライナ出身で、現在ウクライナ国立オペラ座のソリストとのことですが、正直なところ、私はこの公演まで彼女の名前は全然知りませんでした。
ググってもあまり出てこないようですが、一応プロフィール等は下記のページが参考になるでしょう。

http://www.zavarteclassic.com/angelina-shvachka
(ちなみにお約束ですが実物は写真よりも数倍綺麗です。)

ともあれ、今回の公演では、《不死身のカシチェイ》ならぬ《不死身のカシチェイの娘カシチェエヴナ》とでもいうべきオペラで、彼女がタイトルロールをつとめたことで、何かとても新鮮な、新しい発見がいくつかあり、私自身は非常に満足して会場を後にすることができたのでした。
(もっともその後は最終の新幹線に乗り遅れないように、ダッシュで地下鉄の駅に駆け込み、新横浜まで綱渡り的に乗り継がなければならなかったわけですけど...)
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日だまりの猫

2008年02月23日 12時19分53秒 | 猫とか
出勤途中に会った猫。
昔はこの場所にザブトンを敷いたトロ箱があって、その中でひなたぼっこをするのがお気に入りだったのに、残念ながらそれは撤去されてしまったよう。
でも水はいつも金属ボウルに入れてもらっています。
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