旅は続くよどこまでも。

とてつもなく不定期に、しかし何か思い浮かんだときにはどえらい勢いで書きなぐるブログ。

身の上話。

2013年06月07日 19時32分36秒 | 身の上話。
今日は少し生々しい話をします。

私は1995年、平成7年に33歳で結婚しました。
6歳上のダンナと1年間の交際を経て、地味婚でゴールイン。
千葉県船橋市に古い小さなアパートを借りて、ああ、これでやっと自分の城が持てた、と思ったものです。

当初はダンナが土曜日の夜に来て月曜日の早朝に出掛ける、という所謂週末婚でした。
私は私で週に2~4日アルバイトをし、自分の小遣いは自分で稼いでいました。
そんな暮らしが2年程続き、一見順調に見えた新婚生活ですが、その実、白蟻に喰われた家のように、土台から崩れかけていたのです。

要因はお金でした。
ダンナが持ってくる給料は多くて30万弱、少ないときは10万円に満たない月もありました。
造園土木の仕事は、雨が降れば休みになるし、元請け会社から仕事が降りてこないと、これまた開店休業状態に。
加えてダンナの所属する会社・・・・いや、会社と言えるかどうか怪しい有限会社は、社員に何の社会保障も与えてくれず、年金は言うまでもなく、労災、雇用保険さえも未加入です。勿論、ボーナスなんてものは出ません。

結婚前に、ダンナの収入が少ないのは分かっていましたが、実際生活を始めてみると、ダンナの給料だけでは窮してしまい、私のアルバイト代も生活費に流れ、趣味のダンスにも通えなくなり、友人たちとの付き合いも儘ならなくなってきたのです。

しかし、結婚を両親に反対されていた私は、実家に愚痴を言うこともできず、折に触れて赴くダンナの実家にも心底馴染めず、だんだんとストレスを溜め込んでいきました。
そして遂に我慢ができなくなって、インドネシアに1ヶ月間、家出をしました。

現実逃避です。

独身時代の気分に戻って、インドネシアの島々を渡り歩き、すっかりリフレッシュして帰宅してみると、アパートにダンナが住んでいました。
ダンナの名義の部屋ですから、住んでいても変ではないんですが、その日からうやむやに同居が始まったのです。

しかし生活は次第に経済的に困窮を極め、貯金も底をつき、私も生活費を稼ぐためにアルバイトを続けていましたが、あるとき、これではいけない、私も本気で働かなくちゃ食べていけないし、無論貯金もできない、と思ったのです。

このとき、離婚という選択肢を選んでいたら、私の人生は今と全く違うものになっていたでしょう。しかし私は、自分が頑張って働く、という方向に進みました。
具体的にはある会社に入社し、デパートで接客販売の仕事に就いたのです。

仕事は辛いこともありましたが、元々接客業が好きな私は、それこそ頑張って大車輪で働きました。家のこともできるだけやりました。朝から晩まで働きました。

労働というものは、報酬を得るために行うものですが、それにもう1つ、身近な人に、頑張ってるね、お疲れさん、の一言を掛けて欲しいものです。
私の場合はダンナでした。
彼から何らかの気遣いの言葉なり行動なりがあれば、私は頑張りきれたかもしれないんです。
でもダンナは何も変わらず、自分の生活は一切変えず、飄々としていました。

私がおかしくなり始めたのはこの頃からです。1997年から1998年に掛けてだったと思います。

まず、家事ができなくなりました。掃除、調理、洗濯。
部屋はどんどん荒れていきます。
そして、ダンナと性交渉ができなくなりました。
でも仕事は通い続けていました。休むわけにはいきませんから。
そんなある日、高熱を出し、過呼吸を起こして救急病院に緊急入院しました。
お医者さんは過労だろう、と言いました。
確かに身体に疲労は溜まっていましたが、今思えば、あのとき既に精神を病んでいたのだと思います。

入院は1週間でしたが、退院後も精神的に不調で、結局20日間ばかり仕事に穴を開けてしまいました。
職場復帰したあとは皆に気を遣い、皆も労ってくれて、上手くゆくかに見えましたが、スタッフの中のベテランさん、よく言うお局様の嫌がらせを受けるようになってしまいました。
プライベートな嫌がらせは我慢できます。でも仕事の場面での嫌がらせにはほとほと参りました。他のスタッフがフォローしてくれても、焼け石に水です。

職場でも、家でも、気持ちの休まる場所が無くなってしまいました。

見かねたダンナが、仕事を辞めたらどうだと言ってくれたのですが、じゃあうちの経済はどうなる?
俺が頑張る。
ダンナのその言葉を頼りに仕事を辞めました。
約1年のデパートガール生活でした。

1999年、仕事もせず、家事もできず、私は坂道を転げ落ちるように精神状態が悪化してゆきました。
決断力が鈍り、買い物もできません。
人が怖くて電話にも出られません。
ダンナの寝息さえもがおぞましく、夜中に布団を隣の部屋まで引き摺り、一睡もできない夜。
不眠、食欲減退。摂取するのは水分とタバコのみ。
私は頭がおかしくなってしまったんだ、誰か精神病院に連れていって!
日夜そんな思いが頭の中を駆け巡り、でもできることは、布団の上で茫然とすることだけ。

最終的には布団の上で泣いている私を母が発見し、精神科に連れていってくれました。

診察の結果は重度のうつ状態。
先生が、こんなになるまでどうして放っておいたんですか! と母に言うのを聞いて、ああ、やっと私のことを分かってくれる人がいた、と、号泣しました。

即、入院。
解放病棟なので外出自由だったのですが、なまじ実家まで歩いて行ける距離だったのが、母とのぶつかり合いを生み、辛い思いをしました。

1ヶ月ちょっと入院したんだっけかな。
2000年1月のことでした。

そして退院後、私はろくに親にも相談せずに、青森行きを決めたのでした。
私のことを知っている人が居ない場所に行きたい、と。
まさかあのときは、青森生活が10年にも及ぶなどとは考えもしなかった。
まして青森で何の結果も出せずにこっちに帰ってくるとは・・・・・。

ああ、長くなった。
続きは明日。
多分。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿