旅は続くよどこまでも。

とてつもなく不定期に、しかし何か思い浮かんだときにはどえらい勢いで書きなぐるブログ。

どっこい生きてたwebの中。

2019年01月03日 03時03分02秒 | 関東の日常。
いやー久し振りです、やうやうログイン出来ました。
何年振りですか?

環境も身体も変わりました。
すっかり歳を取りました。
もうアラカンだもんよー。

ロクたん元気です。
今年10歳になります。

私は昨年、3回目の脊椎管狭窄症の手術を受けました。
足に麻痺が残り、ヨタヨタです。

でもライブは精力的に参戦してます。
最早生き甲斐です。

いろいろあってねえ…。
タビだにゃんが亡くなりましたよ。
もう、4年くらい経つかな。

また気が向いたら更新します。
てことで、ひとつ。

koro改めhana

何でこんなことになっちゃったんだろう。

2013年07月22日 19時39分22秒 | 身の上話。
docomoの携帯が止められてしまうなんて。
料金はきちんと払っているのに。

騙された。
悔しい。



でも私が馬鹿だったんだ・・・・。



これでwillcomまで止まったらどうしよう。
もう携帯の無い生活になんて戻れないよ(大泣)!


私、馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ!
もう誰も私を信用してくれないんだ。
馬鹿だ・・・・消えたい・・・・。


今日まで良くしてくれたみんな、さようなら。

スマホが止まります。

2013年07月22日 15時09分26秒 | 関東の日常。
諸事情により。やむなく。不本意ですが。
Willcomはまだ生きてます。
以後、連絡はそちらに。

また、ここ及び一言更新も止まります。
ご了承下さい。

悲しいです。
消えたいです。

四面楚歌。

2013年07月19日 15時54分26秒 | 関東の日常。
もしくは八方塞がり。
何なの、一体。

数日前から同じことをいろんな場所に説明して、もう脳が疲弊しきってしまいそう。
助けて。
魂を売ってもいいからメフィストフェレス、助けて。

表情が無くなってきたのが自分でも分かる。
セパゾン飲んでも効かない。
でも薬しか頼れるものが無い。
残り少ないソラナックス飲んでみようか。

私、現状のままでは限り無く黒に近いグレーじゃん。
誰が私を救い上げてくれるの?
確かに私もボンヤリしてた。
でもそれは今更。
泣き言っても始まらない。
自分しか頼れない。

どうすればいい?
何を訴えればいい?
どんな証拠?

一晩寝ても鬱。

2013年07月19日 08時38分36秒 | 病気。
ダメだ。
上がらない。
天気はこんなに良いのに。

今朝は5時に起きて、玄関の外に出て朝日をたっぷり浴びた。
私の鬱は普通の鬱と反対で、朝の方が調子がいい。
昼過ぎから午後、夕方にかけて段々悪くなる。
だから代々木の実家に居るときは、早朝に明治神宮を散歩している。
船橋でも早朝散歩すればいいんだろか。大神宮さん辺りまで。

あー。
いい天気だなあ。
虚しいなあ。
消えたい。。
消えて無くなりたい。

私という存在を無かったことにできないか?
所謂希死念慮とは違う、他動的な・・・。
通り魔に襲われるとか。
いやいや、実際そんな目に遭ったらアドレナリン全開で格闘しそうだw

なにより私が消えたら老いた両親が悲しむ。
これ以上の親不孝は避けたい。

でも天気は良く、白い雲が青空に映えて眩しい。
そして虚しい。

鬱MAX。

2013年07月18日 21時19分13秒 | 病気。
複雑なトラブルに巻き込まれてしまったようで。

一昨日から部屋の片付けどころでなく、落ちまくってます。
セパゾン飲みまくりです。
ハルシオンも3Tです。
お陰様で毎晩寝落ちです。

どうだろう。
かなりな危機的状況下にあるんだけど。

昔、シリア~ヨルダン国境でテロリストと疑われ、自動小銃を突き付けられたときと、どっちが深刻だべか。
モーリタニアで、私を犯そうと迫ってくる兵士から、一晩中逃げ惑った夜と、どちらが恐ろしいべか。
マリのバマコで、軍事クーデターに出くわしたときと比べて驚愕の度合いはどうだべか。

危ない橋は数々渡ってきたけど、曲がったことはしていない。
この度の試練、神様はどういうおつもりで私に与えたのだろう。
私の人生、何度試されるんだろう。

明日になれば、新しい局面がみえてくるだろうか。
そして今夜も私はハルシオンを飲むのだろう。

飲んで~飲んで~飲まれて~飲んで~♪
飲んで~気を失うまで飲んで~♪
そして私は~ヨダレ垂らして眠るのだろう~♪

洒落にならねえよ、まったく(大泣)。

エレファントカシマシ始動。

2013年07月12日 23時03分13秒 | エレファントカシマシ
エレファントカシマシデビュー25周年記念 ドキュメンタリー映画
「the fighting men´s chronicle エレファントカシマシ 劇場版」
を観てきた。

内容もともかく、直近、今年の5月現在の4人の姿が見られてただ嬉しかった。
エレカシファンの著名人の方々、と言っても私が知る人は1人しか居なかったけど、彼等の口から語られるエレカシへの熱い、愛情と期待を聞いていると、私もエレカシのファンでよかった、幸せだなあ、と思わされる。

新旧の映像を織り混ぜて見せるエレカシの歴史と魅力。
昔も今も変わらないミヤジの暴君振り。
それに素直に従う成ちゃん、トミ、石くん。
狂いの無い4人のバランス。
誰が欠けても入れ替わっても、エレカシは成り立たない。

そしてエンドロールの後に日比谷、大坂での野音ライブ開催の告知。
公式ホームページでは、さいたまスーパーアリーナライブの開催も発表されていた。
ミヤジからのメッセージも掲載されていた。
「私はもう大丈夫です」と。

エレファントカシマシ1年振りに再始動。

こんな嬉しいことはない。
ミヤジ、曲たくさん作ったって言ってたな。
どんな新曲が聴けるんだろう。
楽しみだぜ。

また無くし物か。

2013年07月11日 21時07分28秒 | 関東の日常。
昨夜、エレファントカシマシの映画のチケットが見当たらないことに気付いた。
今朝、実家の母に電話して、私の部屋を探して貰ったが、無いと言う。
どう考えても、最後に見たのは実家のような気がする。
上映日は明日だ。
満員電車に乗って実家へ向かった。
部屋に行くと机の上で2秒で見つかった。


私の片付け下手、探し下手、物を無くす遺伝子は、母から受け継いだということに決定。

愛別離苦。

2013年06月08日 01時04分29秒 | 身の上話。
今日の話も生々しいです。

と、言うわけでね、結婚18年目にして、ダンナと別居中。
去年の暮れからね。

でさー、寂しいわけよ、いくらこんな私でも。
スキンシップが途絶えて15年。
加えてうつ病だからか、性欲も減退、追うようにして更年期。生理上がっちゃって。
なんか女でなくなっていくような気がして。
寂しいわけよ。

そんなとき、出会い系サイト遊びを覚てね。
実際会ったのは3人だけど、その3人目に惚れちゃった。

2歳年下のSちゃん。
路線バスの運転手。
もう乗り物オタクの私はこれだけでキュン♪
美声。キュン♪
そして適度にスケベ。

初めて会ったのは去年の12月12日。
Sちゃん、普段大きなバス運転してるからか、自分の車はチョロQみたいな可愛い車。
2人乗りの軽、オープンカー。
助手席に乗り降りするのもおデブな私には一苦労。で、乗り込むと運転席のSちゃんとの密着度ったらないの。

初めて会った日は、ファミレスでお茶して、ドライブ。

・・・・・だけで済むわけもなく、Sちゃんナビで必死にホテル探し。

で、結論から言うと、セックスしました。
自分でも驚いた。15年振りのエッチが初めて会った人とだなんて。
よく私をその気にさせた。すごいぞSちゃん。

その後も何回か会った。
ちっちゃい可愛い車でデート。
会えないときはメールや電話。毎日のように。
楽しくて、楽しくて。Sちゃんとのお喋りが。
Sちゃんの仕事の話を聞くのも楽しくて。

そんな幸せな日々が5ヶ月続いた。

しかしある日の電話を最後に、ぱったりと連絡が来なくなった。
メールをしても返事が来ない。

Sちゃんはそれほどでもなかったのかな・・・・。
毎日胸が苦しいよ。
外を歩くとやたらとバスが目につくよ。そのたんびSちゃん思い出してやりきれなくなるよ。

会いたいな・・・・。
15年振りに石女を女にしてくれた人だもん。処女あげたのと変わらないよ。
電話でもメールでもいいから、神様お願い、Sちゃんが連絡くれますように・・・・。

身の上話。

2013年06月07日 19時32分36秒 | 身の上話。
今日は少し生々しい話をします。

私は1995年、平成7年に33歳で結婚しました。
6歳上のダンナと1年間の交際を経て、地味婚でゴールイン。
千葉県船橋市に古い小さなアパートを借りて、ああ、これでやっと自分の城が持てた、と思ったものです。

当初はダンナが土曜日の夜に来て月曜日の早朝に出掛ける、という所謂週末婚でした。
私は私で週に2~4日アルバイトをし、自分の小遣いは自分で稼いでいました。
そんな暮らしが2年程続き、一見順調に見えた新婚生活ですが、その実、白蟻に喰われた家のように、土台から崩れかけていたのです。

要因はお金でした。
ダンナが持ってくる給料は多くて30万弱、少ないときは10万円に満たない月もありました。
造園土木の仕事は、雨が降れば休みになるし、元請け会社から仕事が降りてこないと、これまた開店休業状態に。
加えてダンナの所属する会社・・・・いや、会社と言えるかどうか怪しい有限会社は、社員に何の社会保障も与えてくれず、年金は言うまでもなく、労災、雇用保険さえも未加入です。勿論、ボーナスなんてものは出ません。

結婚前に、ダンナの収入が少ないのは分かっていましたが、実際生活を始めてみると、ダンナの給料だけでは窮してしまい、私のアルバイト代も生活費に流れ、趣味のダンスにも通えなくなり、友人たちとの付き合いも儘ならなくなってきたのです。

しかし、結婚を両親に反対されていた私は、実家に愚痴を言うこともできず、折に触れて赴くダンナの実家にも心底馴染めず、だんだんとストレスを溜め込んでいきました。
そして遂に我慢ができなくなって、インドネシアに1ヶ月間、家出をしました。

現実逃避です。

独身時代の気分に戻って、インドネシアの島々を渡り歩き、すっかりリフレッシュして帰宅してみると、アパートにダンナが住んでいました。
ダンナの名義の部屋ですから、住んでいても変ではないんですが、その日からうやむやに同居が始まったのです。

しかし生活は次第に経済的に困窮を極め、貯金も底をつき、私も生活費を稼ぐためにアルバイトを続けていましたが、あるとき、これではいけない、私も本気で働かなくちゃ食べていけないし、無論貯金もできない、と思ったのです。

このとき、離婚という選択肢を選んでいたら、私の人生は今と全く違うものになっていたでしょう。しかし私は、自分が頑張って働く、という方向に進みました。
具体的にはある会社に入社し、デパートで接客販売の仕事に就いたのです。

仕事は辛いこともありましたが、元々接客業が好きな私は、それこそ頑張って大車輪で働きました。家のこともできるだけやりました。朝から晩まで働きました。

労働というものは、報酬を得るために行うものですが、それにもう1つ、身近な人に、頑張ってるね、お疲れさん、の一言を掛けて欲しいものです。
私の場合はダンナでした。
彼から何らかの気遣いの言葉なり行動なりがあれば、私は頑張りきれたかもしれないんです。
でもダンナは何も変わらず、自分の生活は一切変えず、飄々としていました。

私がおかしくなり始めたのはこの頃からです。1997年から1998年に掛けてだったと思います。

まず、家事ができなくなりました。掃除、調理、洗濯。
部屋はどんどん荒れていきます。
そして、ダンナと性交渉ができなくなりました。
でも仕事は通い続けていました。休むわけにはいきませんから。
そんなある日、高熱を出し、過呼吸を起こして救急病院に緊急入院しました。
お医者さんは過労だろう、と言いました。
確かに身体に疲労は溜まっていましたが、今思えば、あのとき既に精神を病んでいたのだと思います。

入院は1週間でしたが、退院後も精神的に不調で、結局20日間ばかり仕事に穴を開けてしまいました。
職場復帰したあとは皆に気を遣い、皆も労ってくれて、上手くゆくかに見えましたが、スタッフの中のベテランさん、よく言うお局様の嫌がらせを受けるようになってしまいました。
プライベートな嫌がらせは我慢できます。でも仕事の場面での嫌がらせにはほとほと参りました。他のスタッフがフォローしてくれても、焼け石に水です。

職場でも、家でも、気持ちの休まる場所が無くなってしまいました。

見かねたダンナが、仕事を辞めたらどうだと言ってくれたのですが、じゃあうちの経済はどうなる?
俺が頑張る。
ダンナのその言葉を頼りに仕事を辞めました。
約1年のデパートガール生活でした。

1999年、仕事もせず、家事もできず、私は坂道を転げ落ちるように精神状態が悪化してゆきました。
決断力が鈍り、買い物もできません。
人が怖くて電話にも出られません。
ダンナの寝息さえもがおぞましく、夜中に布団を隣の部屋まで引き摺り、一睡もできない夜。
不眠、食欲減退。摂取するのは水分とタバコのみ。
私は頭がおかしくなってしまったんだ、誰か精神病院に連れていって!
日夜そんな思いが頭の中を駆け巡り、でもできることは、布団の上で茫然とすることだけ。

最終的には布団の上で泣いている私を母が発見し、精神科に連れていってくれました。

診察の結果は重度のうつ状態。
先生が、こんなになるまでどうして放っておいたんですか! と母に言うのを聞いて、ああ、やっと私のことを分かってくれる人がいた、と、号泣しました。

即、入院。
解放病棟なので外出自由だったのですが、なまじ実家まで歩いて行ける距離だったのが、母とのぶつかり合いを生み、辛い思いをしました。

1ヶ月ちょっと入院したんだっけかな。
2000年1月のことでした。

そして退院後、私はろくに親にも相談せずに、青森行きを決めたのでした。
私のことを知っている人が居ない場所に行きたい、と。
まさかあのときは、青森生活が10年にも及ぶなどとは考えもしなかった。
まして青森で何の結果も出せずにこっちに帰ってくるとは・・・・・。

ああ、長くなった。
続きは明日。
多分。