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カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ペットに家族愛を持ち、肉を食らう人々   ぼくらはそれでも肉を食う

2017-06-18 | 読書

ぼくらはそれでも肉を食う/ハロルド・ハーツォグ著(柏書房)

 副題「人と動物の奇妙な関係」。人間は雑食性の動物で、当然動物を殺して食べる。生き物を殺すことで、自らが生き延びている。さらに何を食べるのかというのは、習慣的文化的な背景があって、多種多様だ。欧米人が日本のクジラやイルカを食べることの違和感もそこら辺りにある。嫌悪を覚える人もいる。ファンダメンタリズムがあって、豚肉を食わない人たちもいるし、ビーガンといわれる菜食主義者なども居る。本人がそういう振る舞いをする分には、関係ない部分もあるが、そのために活動をする人もいる。中にはテロまで起こす。人間の性質が起こしている不合理だが、たぶん当人たちには自覚は無い。娯楽として闘鶏や闘牛もある。娯楽でなくても、虐待的に動物を扱う事実もある。効率を考えてブロイラーは一生土も踏むことなく監禁され殺される。人間の医療のために何万という単位でネズミは無慈悲に殺されている。ペットだって、本当に彼らの意思で飼われている訳では無い。中には酷い境遇で、事実上虐待の苦痛の生涯を送る動物はごまんといることだろう。
 猫に愛情を注ぐ善良な婦人が、皿に載っている牛の肉片に何の罪悪感も覚えないのは何故だろうか。考え出すと不思議に思えるような感覚を、人間は持っている。できるだけ苦痛を避けて、のびのびと飼育され、安楽死させた牛の肉を、比較的高い値段で購入して自分の精神衛生上正当化させている人もいるという。単なる偽善だが、そのようにしなければ落ち着かないという精神性は理解できないではない。ボートで遭難した時に、犬を海に捨てるべきか(そうでなければ助からない人がいるとして)、その倫理性はどうなのだろう。不条理に見えることでも突き詰めて考えていくと、どこで線引きしたからといって、一貫性のある正義などあるのだろうか。答えに合理性が無く、個人の中にだけ正解があるという倫理に何の意味があるのか。しかしそれでも今日、人間が恣意的に虐殺している動物は減ることは無い。むしろ快楽を見えない形にして、水面下で大量の命は、安価に殺され続けているだけのことでは無いか。
 動物の苦痛に対する共感が人間にはあるらしい。だから人間が少しでも愛着や共感を覚える生物に対しての、人間の行う行為まで嫌悪するということかもしれない。自分で肉を食いながら、に嫌悪する人もいる。刺身の踊り食いを狂気とみなす人もいるだろう。昆虫を飼っている人に驚く西洋人もいる。網にかかって食べられもせずただ殺して捨てられる魚たちに無頓着でも、経済効率的に魚を取ることに躊躇しない漁業は正当化されるだろう。子牛肉に舌鼓を打つグルメが、クジラ漁船を攻撃する団体に資金を援助したりする。彼らはすべて一貫性が無い。矛盾に満ちている。そしてそれが、人間の姿だ。
 僕は日本人なので、これらの議論についての著者の公平性と偏見の両方も気になった。もちろん著者にだってこれらの問題に対する一貫性は無い訳だ。また西洋人には宗教の影響もあって、菜食主義者がかなりいるようである。日本人にも居ない訳では無いが、その数は比較して少ないだろう。おそらく日本の犯罪の少なさとも関係があると思うが、そのような考え方の違いを考えることもこの本の効用だろう。読んだ感想として、まだまだ語りたいことがたくさんある。そういう刺激に満ちた読書体験として、多くの人に是非とも手に取って欲しい本である。
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