カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

経験と蕎麦の記憶

2017-05-11 | 

 なんとなく蕎麦の思い出が多いような気がする。蕎麦はもちろん好きではあるのだが、僕は九州人というのがあるのか、うどんか蕎麦かでどちらをたくさん食べてきたかという問いがあるとしたら、量的には間違いなくうどんの方に軍配が上がるはずである。そうでありながらそばの記憶というのは、それなりに古く根強いような気もする。子供の頃には特にうどんを好んで食べていて、それは今とは違うやわらかいものだったように思うが、ある時を境に、大人に近づいたころに、蕎麦を意識的に食べ始めたのではないか。それは感覚的なものだが、恐らく間違いなかろう。何しろ蕎麦をおいしいと思うような感覚は、多少の修練というか、経験が必要にも思う。もちろん最初から信州のような場所で生まれたような人とは違うのだろうけれど、子供や病人というのは、最初はうどんという相場がある気がする。だから大人になりかけた頃に、おもむろに蕎麦でも食べさせてもいいだろうというような大人の配慮があって、蕎麦も食べるようになったのではないか。ラーメンのように分かりやすいものでは無く、しかし、まあ旨いと思うようになる前に、それなりに変遷を重ねる必要があるのである。
 さらになんとなくさまざまな記憶と蕎麦があるのは、旅行などによる外出先で、あんがい蕎麦を選択する機会が多かったということもあるようだ。それは最初は父だったり、そうして先輩である年配の人たちが、蕎麦を好んで食べていた所為では無いか。別にラーメンやうどんでもそれは良かったはずだが、結局蕎麦屋にしようかという、一連の流れがあったのではないか。そうしてそういう人達と蕎麦を食べると、なんとなく蕎麦を習うような感覚が、僕自身にあったのかもしれない。少し苦みのある香りの高い味が、背伸びをしたような気分とも合っていたのかもしれない。
 そうして移動などの時の蕎麦というのは、食事だから空腹を満たして仕合せだということと、やはりその立ち寄り加減によって、一種の旅情と混ざって、情緒的なところがあるように思う。味については当然当たりはずれがあって、また個人の趣向や、土地柄の現れた味付けというのが、合う合わないということもある。しかし蕎麦が不味かったという記憶は、実はそんなに不快でもないような感じがある。まずい蕎麦を食ったという記憶は、ちょっと愉快に済ませられるような、そんな感じがある。たいして気安くそういっている訳では無くて、まあ、まずくても旅の記憶としては、それでいいのだというような、気分にさせられるということだ。そうしてあの不味かった蕎麦であっても、また食べてみてもいいように思ったりする。
 しかし人の好みや味覚というのは、実はそんなに当てにならない。僕は一人で初めて二十代の中盤に東京出張に行った折に、浜松町で蕎麦を食べた。その時の黒い汁の蕎麦は決して旨いものでは無かったのだけれど、何故かその後も数回はその近辺でやはり黒い蕎麦を食べている。味がそんなに違う訳でもないと思うが、今ではその時ほどまずいと思ってない気がする。要するに醤油味の汁に馴れただけのことだろうけど、あれはあれでいけるうちに入るような気もするのである。旨いと唸らせられる訳では無いが、積極的ではないにせよ小さい気持ちでは、旨かったな、などと思っているかもしれない。
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