カワセミ側溝から (旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

得難い「ふつう」の日々の記録

2016-10-29 | 境界線

 毎日放送のドキュメンタリー「ふつうの家族 ある障がい者夫婦の22年」を観た。
 共に脳性麻痺のある夫婦が結婚し、子供をもうける。そうしてまず上の子が小学生に上がるまでで一旦区切りがある。間に空白があって、上の子が成人式を迎えることになって、再度この家族をカメラが追う。その合計が22年ということらしい。
 まず、脳性麻痺の二人が結婚して生活することのハードルがある。お互いの麻痺の度合いも重く、支え合うと言っても生活の基本的なことも不自由である。さらに出産、子育てとなると、映像で見る限り危なっかしくもある。串のような棒で遊ぶ赤ん坊の手から棒を奪うときに、体全体を使って最後には口で咬みついて棒を離すようなことをしていた。ミルクを飲ませようとしても哺乳瓶を持つことさえできない。二人の年金でヘルパーを雇うことと、妻のお母さんが手伝いに来たりしていたようだ。子供一人では可哀そうだということで、二人目も授かることになる。成長段階では子供は反発する。ありのままそのような様子も映していた。
 再度の撮影時には夫の方は既に亡くなっていた。さらに子供の頃は女の子だった最初の子は、長男になっていた。それだけでも空白の時間に様々なことがあっただろうことは推察される。さらに妻の麻痺は年齢で重度化が進んでいるように見て取れた。子供たちは大きくなり自立度は増している。子供に世話が焼けるということは少なくなっているのかもしれないが、自身の生活基本動作など、ヘルパーからの介助は欠かせなくなっているのかもしれない。そうして長男は成人して就職先へ引っ越していくのだった。
 まず、そのような障害があるが故の特殊で過酷な家庭のありようという面がある。あえて「ふつう」という形容詞が使われているのは、恐らくそのような普通さを求めている障害者は、普通ではない困難があるということなのだろうと思う。普通を求めることは、こんなにも大変なのかと見る者は思うだろう。しかしそのように育てられた当事者の子供たちは、普通だったと答えていたようだった。障碍のある両親に育てられても、それはどこにでもある家庭と何ら変わることのない家族なのだ。
 さらに当事者には、自分の障害と社会に対して、何か行動で語りたいことがあるのだろうということだ。障碍がある人間が子育てをしてはならない、という暗黙の世間への圧力に対する戦いなのかもしれない。成長段階でどのみち必要ないのだから、妊娠できなくする処置をしてはどうかと勧められた過去を語っていた場面もあった。
 また、子供から将来的に世話を受けるために子供をもうけている訳ではない、ということらしかった。だから子供と共に食事をとるときも、自分の食事の介助は、ヘルパーさんが行っている。子供からの介助は拒否しているということだった。これも一見分かりにくいことだろうが、そういうスタイルで生きていくということそのものが、日本社会に対する一つの解答なのだろうと思う。
 このドキュメンタリーを見て、ある意味で多少の違和感を覚える人もいるのではないか。それは自立とはいえ、日本の社会保障制度の上で、公的資金と言えるものを原資にして子育てをしている障害者への視線があるかもしれない。さらに不自由で困難があるとはいえ、家庭料理はヘルパーさんが来て作り、そうして食べさせてくれる。家族のだんらんには、家族のみでない他者が混ざった風景になっている。
 しかしその違和感とはさらになんだろう。そのために許されないことのために、家族を持とうと思ったり結婚しようと思ったりしても、それを実行できなかった人々はここには写されていない。そのことに思いをはせる人はどれくらいいるのだろうか。
 普通のことが戦いの日々であるということは、どういうことか。違和感も含めての秀作ドキュメンタリーであろう。
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