続・中岳龍頭望

脱力系から熱血系へ。ま、志はということで…

フェイクの現実化は非現実である

2017-07-17 | 時事

 最近のニュースを見ていて思うのだが、いわゆるフェイク・ニュースは、今までも時折流れていたわけで(今となってそうだったな、という覚えのあるものはたくさんあげられるだろう)、しかしどうしてまた、特にこんなことになってしまったのか。あたかも、ほとんどそのために、何を信用していいのか、戸惑う人を見てしまう(特にネットの混乱は凄まじい)。また、現時点で限りなく疑わしいことが、一方で既にフェイクで確定し、一方でまだ究明にほど遠いと、極端な捉え方をされている。そうであるのに、また新たな情報について、後から分かりそうなほどにゆがんだものを、平気で操作した上で報道する事態が続いている。偏った放送局(等)のみのことで無く、皆一様に似たような姿勢があるようにさえみえる。まさかとは思うが、報道の方が、自らフェイクを自認せずに、偏ったと分かっている状態でもなお、暴走しているようにも見える。これはもう、もともと報道にそういう体質があるということを、自ら示しているというか、何か一方的に何も考えていない姿勢に迷いが無くなっているようにさえみえる。
 そのような怪しさは、もともと感じていない訳では無かったけれど、極端なものは、いわば週刊誌やワイドショーだけの世界のものであって、それを好む、いわば趣味の人たちの井戸端でのことに過ぎなかった。だからいくら中立公正のNHKなんていう嘘っぱちであったとしても、内容すべてに目くじらを立てている訳では無くて、おおむね寛容に眺めているところがあった。たとえ嘘が混じっていようとも、だいたいの感じを掴むためには報道が必要だし、そもそも個人では情報を得るために仕方のないところがある。
 ところが特に政治の世界に顕著にあらわれているようだが、この嘘らしいことを元に、政治そのものの動きがマヒするような事が起こっている。いや、それは過去にもあったが、それよりももっと行き場のないままに、ただ混乱して収拾がつかないだけのことにとどまっているように見える。内閣の支持率などを見ても、危機的領域になったとしても、だからその反対の行き場である支持も同時に下がる。替えが無いのに首を斬ると、上には何が乗るのか。そもそもそれは、人間の顔なのだろうか。
 いわゆる大人といわれる人の行動は、実際の選挙などには、少しばかり変化が加わって影響が現れるものだった。リアルな選挙運動での話を聞く機会も個人個人があったであろうし、コミュニティの中で政治的論壇が各所にみられた為だろう。ところが今はそのコミュニティが分断し、たとえ選挙を中心とした集まりがあったとしても、その根拠としているものを、報道に求めている人が多いのではないか。しかし特に若い人などが、義憤に駆られて選挙にまで行くとも思えない。だから投票率は低いままでありながら、テレビの批判のままに、いわばフェイクの実現のために、現実が追いつこうとしている。現実はフェイクのみでないから、それで先(いわゆる明るい未来)がある訳では無い。何しろよりどころにしている根拠が間違いなのだから、それを修正して正しさは求められない(不可能だ)。結局世の中というのは、どんどん逆説的に幼稚化しているということなんだろうか。
 さて、それでも、そういうことを正義のように暴くように見せたとしても、だいたいのところでは、カマトトぶった論調に過ぎないことくらいは、多くの人は知っているはずなのである。それが良いとか悪いとかいう話では無くて、誰だって真実を知りたいという欲求だってあるけれど、突き詰めると自殺するか嘘をつくしかない立場の人たちを、いくら吊し上げても仕方がない。そんなことは知らないとでも言いたげに、いつまでもじゃれて遊びを止めない子猫のような感じかもしれない。でも子猫じゃないから、いつまでもやっているとだんだんつらくなるものではないか。相手のことでは無くて自分のことがやりきれない。
 そういうものが、感覚として無くなっているとも考えられないか。だからいつまでも、自分の体の外での出来事として、吐き出しているだけの感覚なのではないか。
 さてしかし、逆張りのタイミングはいつなのか。それが分かれば勝負師として一流なのではあるが…。
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