続・中岳龍頭望

脱力系から熱血系へ。ま、志はということで…

認知症:めんどくさい、近所づきあい我を救う(かも)

2017-06-19 | ことば

 「認知症」という言葉自体が認知症予防を妨げているという。順を追って話すと、認知症というのは検査によって、「認知症予備軍」と診断された状態であれば、十分にまだ進行を止められるし、あるいはある程度までは改善することが可能であるという。ということで検査をするわけだが、診断結果が、このいわゆる「予備軍」といわれるところに分類をされると、多くの人がその事実を拒否してしまうのだそうだ。それは考えてみると分からないことでは無いが、予備軍はあくまで認知症の最終通達では無い。さらに恐らく認知症としての自覚がほとんどない場合と、ひょっとしたらそうかもというような自分に対する疑心暗鬼のようなものがあるのだろうと思われる。そうして事実を認めたくないという拒否反応と、さらに羞恥心のようなものもありそうだ。大変に複雑で困ったことだが、その拒否によって対策を受け入れず、結局認知症を進行させてしまうというのだ。さらに検査そのものさえ拒否して、そもそも失礼とばかりはねつけて、結局進行させてしまう予備軍らしき人たちが、それなりにいるのだという。
 認知症という言葉は、いわば「ガン宣告」に近い響きを持ってしまったのではないかといわれている。その恐ろしい響きが、人々をダイレクトに傷つけてしまう。破壊力が大きすぎて、近寄りがたい。そのために必要な処置でさえ拒否し、結果的に自分の身をさらに傷つけてしまうのだ。
 現在は認知症に変わる言葉を作ろうという動きもあるらしい。しかしながらそれは一時の間はそれで通用するかもしれないが、過去に認知症は痴呆症などと言われたものから言い換えられた経緯もある。何度も言葉を変えるうちに、その意味本来が見えにくくなることは無いのだろうか。例えば物忘れなどは誰でもすることで、そんなに気にすることは無いが、そのことと認知症のような状態というのは、厳密には違う。混同して恐れすぎることの弊害もあろうし、そのような誤解で気を病む人を結果的に増やすことになるかもしれない。
 そもそもの検査というと重々しいが、それとなく皆がゲームをするように検査のようなものを受けて、それらしき人々の集団に、自然にプログラムとして予防法に取り組んでもらうようにできないものか。
 しかしながら問題の多くは、そのような場にさえ顔を出さないような環境の人ほど、やはり発見は遅れてしまうのだという。個別にいうと核家族化と独居問題かもしれない。
 結局地域力とか、コミュニケーションの問題から掘り下げるよりなさそうだ。そもそも人間というのは集団行動をベースに生きていた生物なのかもしれない。もちろん孤独を好む性質の人もいるのは確かだろう。しかしながらやはり程度問題で、いつまでも孤独がいいというような人は、孤独の本質さえ分からずに言っているだけのことかもしれない。
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