カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

熱演いいけど、こんな感じにホントになるのか   湯を沸かすほどの熱い愛

2017-09-30 | 映画

湯を沸かすほどの熱い愛/中野量太監督

 夫は失踪している。娘は学校でいじめられている。そんな中パートで働いていた時に倒れてしまい、検査をすると末期癌と分かる。それで探偵を使って夫を探し出し、夫が連れている娘と共に受け入れて、今までは閉めていた銭湯を再開することにするのだった。余命が限られている中で、娘のいじめ問題、新しい家族との絆問題など、難しいことを解決するために奔走することになる。
 死ぬことが分かっている中での物語なので、一定の感動ものである予感はずっと続いている。しかしながら一方で、なんだか単純にお涙頂戴で無いような雰囲気もある。物語なのでそういうものがあってもいいと思うが、むしろ母親の行動は、なんとなく自分勝手な頑張り方のような印象も受けた。頑張っておられることは分かるが、そんなことで物事が上手くいくのだろうか。
 ちょっとヤンキー的な思想があるというか、普通に考えると明確に間違いであるような選択が続く。例えばいじめを受けている娘に対して、布団をはぎ取って学校に行けと言う。お母さん分かってない、といわれて分かっていると答える。そうすべきという自分の考えが先にあって、娘の気持ちなんてたぶんぜんぜんわかってないのである。夫と当初失踪していた女性は耳が聞こえない。それでも食堂で働いていて、娘を連れて食事に来ても、その娘に気づいた様子が無い。それで後でビンタする。しかしながらこれは、いつも娘のことを考えているのなら分かって当然という思い込みである。むしろ仕事に頑張っているような時は、普通は気付かない方が自然である。様子も変わっていたのだろうし。要するに自分本位で相手を判断し、暴力をふるって何の迷いも無い。
 そういうヤンキーな病気の女に対して、皆対応としては強いところがあって、なんとなく物事はそれなりにだが進んでいく。これが本当にいい話であるのか、僕には限りなく疑問が残ったが、そういう考えの人たちが一定数いるのであろう。特に母親である主人公の行動は、ほとんどの場合僕の考えと逆だった。というか、ちょっと考えづらいというか、ヒステリーである。そんなんで物事は廻ったりしないだろう。しかしそれでもまわりの人間には理解力があって、そういう物事に応えていく力をもっている。そういう意味では稀有な物語で、ちょっと呆れた。出ている人々の演技力は高くて説得力があるのだけれど、やはり普通ではもう少し壊れてしまう問題があったのではないだろうか。ガンで亡くなるのは悲しいことだが、やはり一人で生き急ぐには、無理をしてはいけないのではないか。いや、無理をし過ぎるのであれば、もっと違った暴走の仕方があったのではないだろうか。
 繰り返すが、このようなヤンキー的な考え方には、一定の共感がたぶんあるのだろう。それをおおよそヤンキー的でない人々がやってしまうことに、何となく違和感があったのかもしれない。しかしながら、湯を沸かす愛というのは、よくできているタイトルではあったのだけれど。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 三種の卵を産み分けるツボワムシ | トップ | 心の持ちようだけでなく、行... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。