14時46分発~パンドラの函を開けて

3・11以来、自分の中で変わってしまった何かと向き合いながら短歌を作り、書きつづる。それが今の自分にできること。

白い薔薇と放射能・・・ジョルジュ・ドン21回忌に

2012-11-29 23:41:00 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)
明日はジョルジュ・ドンの21回忌。
亡くなってから20年になります。


昨夜はあまりに素晴らしい月が出ていて、
なんだか、ぼうっと見とれてしまいました。


上野の芸大図書館で見た、
ジョルジュ・ドンへの祈りがあまりに素晴らしかったので、
検索したら、LDではなく、ビデオテープの中古があったので
思わず注文してしまいました。

アマゾンで。
ドン関連商品、買いまくり状態。


おまけに急に寒くなったので、電気毛布とか、
暖房関連商品も買わなければならず、
いやあ、出費のかさむこと!!



そしたら、ドンのビデオはもう、今日、到着。
早い!


それにしても、ちゃんと映るのかしら。
どうしたものか。
床の間(狭いわが部屋に床の間はありませんが)に飾っておくだけになるのか・・・
ビミョー。


でも、あるだけで嬉しい。

そんなもんだわねえ。
ファンというのは。


今日は何気に、放射能も高いし。
原発問題は決して終息してはいなくて、
ちゃんと考え続けなければいけない。


放射能は、福島大学(放射能情報)が毎日流しています。
でも、日曜日はお休みなんですよ。


安心しないでくださいね。
決して低い状態ではありませんから。
それに、もし日曜日にドッカンしたら、情報がないことになります。

しかも冬は北の風に乗って、
関東地方に流れてきますからね。

ドンはこういうことを、月の彼方でみてくれているのかなあ。
明日は白いバラを買わないと。


上野・東京芸大図書館

2012-11-27 22:27:39 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)
上野にある、東京芸大図書館に行ってきた。


とてもモダンとは言えない、いかにも公共の建物という感じのもの。


え? これが芸大の図書館かい? と誰にともなくつぶやく。


それにしてもこの古めかしさ。
嫌いじゃない。
妙に落ち着く。

ファンヒーターが焚いてあって、
かつて名古屋の大学にいたころを思い出す。
国公立の大学は、めちゃくちゃ設備が悪い。

だだっ広いだけで。


あたしは、つくづくこういうアカデミックな空間が好きなのかなあと、
しばし感慨にふけりつつ。

気がつくと銀杏が黄葉している。


東京に来てからというもの、
あの田舎の深紅の紅葉に勝るものはないと思っていたので、
あえて紅葉狩りなどする気になったことなど、ついぞなく。


しかし今回は違った。
東京の黄葉をとても美しいと思った。

愛おしいとさえ感じた。



それはさておき、相変わらずドンへの熱狂は収まらず、
もうじき没後20年。21回忌(7×3)になりまする。


この日は、芸大図書館にドンの貴重な映像を収めたディスクがあることを知って、
矢も盾もたまらずご訪問とあいなった。


お目当ては、
珠玉のベジャール~ジョルジュ・ドンへの祈り~ [Laser Disc]



いつもYouTubeの画質の悪い、音の良くない小さな画面に甘んじてきましたから、
まずはその映像の美しさと、音質のよさに驚きました。


「なんと! こんなに綺麗なんかいな」と呟く。


ぱっと手を開いたドンの右手の、手相まで見えるのですから。
しかも、どう見ても2,3年後に死んでしまう人の手相ではない。


禿げてよぼよぼになって、
女性をリフトすることさえできなくなったドンの踊りを見たかったと、
痛切に願う者として、どうでもいいことだが、
即刻火葬されたことは、彼の死因とともに、いやが上にも、疑問が募る。


いやいや、いやいや、それは敢えて言いますまい。


今のわたしに必要なのは彼の芸術。ダンスなのだから。
それにしてもこの「ジョルジュ・ドンへの祈り」、まあ素晴らしかった。


       ジョルジュ・ドンへの祈り(部分)


マーラーの第4番に乗って、なんとまあ、
これほど静謐で、内省的な踊りができるものなのでしょうか。
円熟の極みだ。
             

ドンにしては珍しく、一度も裸にならなかった。

青いランニングシャツと、黄緑色の衣装に身を包まれている。
それは「指輪」だの「魔笛」だの「ニジンスキー」だのという
大きな物語を大上段に語る作品ではないことを示している。

最後は早変わりでスーツを着る。


歌舞伎でいえば「世話物」系なのだが、これが素晴らしい。
動きの一つ一つに意味があり、含蓄がある。
静謐でありながら情熱的で愛にあふれている。


不思議だ。
ドンの踊りにはいつも対立するものが共存している。
けっして一つの解釈に偏ってはいけないと言うかのように、
並立して示される。


作品は、痛切に家を出たいと思いながら、出ていけない男の物語だ。

ローザンヌで隠遁生活をしながらものを書いている作家の日記からとられたもので、
タイトルは「出発しようとして家に留まった」。


中でも、
右手で、左の腕をこする印象的なシーンがある。
これは、男の切望を表現している。


つまり、男の切望とは「家を出る」ことなのに、
いつも躊躇し、思いとどまらざるを得なくなる。


切望をたえず思いとどまらせるのは、幻想の女や、少女たち。

それは若かりし頃の妻かもしれず、
男は出発しようとしては、思いとどまる。


大地母神的な女(妻)と男の、
葛藤と赦しの物語が繰り広げられる。


その葛藤が、さして大きくはない、ささいな動きの中に凝縮され、
静かな情熱を感じずにはいられない。

ディスクでは、後ろの少女たちが
ドンの踊りに魅入っていることがわかる。

それはプロのダンサーの本分を忘れたということではなく、
むしろ作品の中に入り込んでいるという感じなのだ。


1989年、ローザンヌでの公演の録画。
もしこれがドンの21世紀バレエ団の退団の作品なら、
これはベジャールの、ドンに託した意味を感ぜずにはいられない。


鳴りやまない拍手とブラボーの歓声が胸に響く。


不毛な戦い

2012-11-26 20:31:20 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)

孤独だ。

ドンに狂って、ドンぐらい経つのだろう?


不毛な戦いをしている。

しかも、いったい、わたしは何と戦っているのか。




何も書けない。
宝くじにも、あたらないらしい。



しかし、ドンのバレエしか見ていないわけではない。


ウイリアム・フォーサイスを検索してみた。

こんなのでが出た。
なかなかいい。
2002年ぐらいの作品らしい。       


    フォーサイス『one flat thing, reproduced』



しかも暴力的だ。
暴力が外に向かって剥き出しになっている。


フォーサイスは、バレエの解体をしているらしい。
踊りを解体するということは、肉体と意味を解体することでもあり、
すなわち、それは
人間性の解体に他ならない。


いかにも現代的、アメリカ人の振付家らしい発想だ。


       
        In the Middle, somewhat elevated


こちらは音楽がいい。
スタイリッシュだ。

20世紀バレエ団、ダンサー見比べ大会

2012-11-25 11:04:41 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)

今日は、日曜日なんですね。

携帯の目ざましモードがならないので、
不安になってしまって、起きた。


そしてら、日曜日だった。

不安のない者に進化はないといいますが、
これがその前兆とは思えない。


ところで、昨日、
他区図書館からとりよせの本を借りて、
早く読みたかったのでスーパーのベンチで読んでいました。


『快楽と欲望~舞台の幻想について』渡邊守章著


この方は、東大教授だったようですが、
演劇集団「円」の演出もしていらっしゃんですね。
そのようなことが書かれていました。

「円」といえば橋爪功さんや岸田今日子(故人)さんがいらしたところ。
流山児★事務所で芝居をしたとき、共演者の中に、
「円」に所属していた方がいらしたような記憶があります。


渡邊氏は日本版「ダンスマガジン」で、よく、
ベジャールの舞台について評論されていたので、読みたくなったのです。
当然わたしの興味は、ドンとベジャールのこと。


興味を引いたのは、
1960年代のパリと、ベジャール、そしてドンの踊りを
ご覧になっているところです。



1976年、秋のパリ。
舞台はシャイヨー宮の大ホール。
『現在のためのミサ』のパリ初演だったという。


そのところを少し引用しましょう。


    そこには、やがて68年の「五月革命」に端的に現れるような、
    舞台芸術の上での「変革のベクトル」が、恐らくその意味を、
    恐らくその意味を、当事者も必ずしも把握しないままで、むき
    出しで提示されていた。

         ―略―


    ジーパンに黒いTシャツ姿で正座して、日本の三味線を弾く―
    というか、暴力的に音を鳴らしている―ベジャールというもの
    を見たのもこれが最初だし、印度のシヴァ神の、あの肢体を
    くの字にくねらせ姿を基本として、白いブリーフだけをつけた
    金髪の若者が、ニーチェの『ツァラトゥーストラ』を引用し、
    「踊ることの出来ぬ神を信じることは出来ない」と叫ぶ。
    まさにジョルジュ・ドンの、出現の瞬間であった。




すばらしい!
これ以上の賛辞をわたしは他に知らない。
    


このとき、シャイヨー宮大ホールの観客は熱狂し、
終演後も30分近いカーテンコールに鳴りどよめいたそうです。
作り手と観客とが一体となって「何かが変わりつつある」瞬間に
立ち会っていたのです。


いやが上にも、その現場に立ち会えた人への羨望がつのります。

さらに、
渡邊氏は、ドンとファレルの『ロミオとジュリエット』までご覧になっている。

     直前に土砂降りの夕立があり、野外ステージで踊りまくる
     「20世紀バレエ団」を、立ったままで見たのだが、
     ベルリーズの過激で華麗な終曲にアメリカ軍のヘリコプターの
     機銃掃射の轟音が果てしなく被さり、ダンサー達は、
     撃たれては倒れ、倒れてはまた立ち上がって踊り続けるという、
     その群舞の力に圧倒されて帰ってきた。


いいなあ。
くやしいなあ。羨ましい限りです。


そこで、毎度おなじみ、
ドンの踊りと、他のダンサーの踊りを見比べることにいたしましょう。




    「恋する兵士」(1982年・6分ぐらい過ぎから・その後、「ロミオとジュリエット」)


    「恋する兵士」ジョルジュ・ドン1975年(映画「そして私はベニスに生まれた」より)



     ドンとスザンヌ・ファレルの『ロミオとジュリエット』



存在感としか言いようのない、
からだから醸し出されるものの、
次元の違いがわかるのではないでしょうか。

ドンとわたし

2012-11-24 13:24:34 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)
2012年11月24日 2回目の投稿
最後の『ボレロ』をBGMにしながら。


こんなことするより、ちゃんと仕事しなくちゃいけないのに。


中古で買ったままほったらかして1週間になる、ドンのビデオを観た。
ロシアのキーロフ・バレエ団との共演のDVD。

ドンが出ていないというネットの情報だったので、
買ったものの、気落ちして、観る気持ちが失せていた。


勇気を出して観た。

ネットの情報は正しかった。

ドンは最後の最後の「恋する兵士」のところしか出ていない。
もろにガックリきてしまった。


撮影の現場がみられるから、
それでもいいやと思って買ったけど。


ドンのいない画面は淋しい。
さびしくて、観ていられない。


『永遠のジョルジュ・ドン』の方を買えばよかった。



それにしても、
ジョルジュ・ドン日本最後の『ボレロ』は、
本当に一見の価値がありまする。

ドンのバックで踊る(ほとんどはしゃがんでいる)東京バレエ団員の顔が怖くて、すごくて、面白い。

まるでドン=宮本武蔵と、東京バのコールド=佐々木小次郎(35人)の一騎討ちだもんね。

あの赤いテーブルが巌流島と化して、壮絶な戦いなんだ。

その後、ドンは崩れるように倒れるんだけど、
その前に、何事か、叫んでいる。
いや、雄たけびをあげているんだ。

がおー、とか、づぉーとか、意味不明の雄たけびを。


しかも巌流島を降りたら、ドンは一気に「おつうさん」に豹変しているし。


カタルシスを共有できるっていうのは、
芸術の、至高の歓びなのです。


いやあ、まあ。
すごいわ。


震災後、
日本の芸術が、内向きになり、小さく、こじんまりと、
絆だの、やさしさだの、家族の大切さだの、ちいさなしあわせに傾いて、
沈没してしまわないように。
いや、埋没しないように。


「抑圧されたものは、かならず解放される」

と、バレエ文化史芸術評論家の鈴木晶氏が書いておられたが、
そのとおりだ。



そうだ。思い出した。
同じ鈴木だが、もう一人の鈴木さんの方だ。


これまた、勢いで、劇団SCOTの芝居を観にゆくことにした。

鈴木忠志氏のブログの言葉に共鳴したから。
公演は12月。


12月は、忙しくなるなあ。

休日とワインと・・・

2012-11-24 10:16:23 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)
まさに
休みになると、ワインの量が増える。

去年のヴォジョレーは当たり年というだけあって、おいしかった。

今年はドンキで買った500円の品。

思いのほか酸っぱくて、味はイマイチ。
ハズレ年だったのかしらね。
で、真空にする器具でパコパコ空気を抜いてたら、
何とボトルが目いっぱい凹んでしまい、笑っちゃった。

アハハハ。

なんだ、これ。
ペットボトルだったのね。
そうよね、だから500円だったのね。


さてと。
マーラーとラフマニノフを交互に聞きながら、ワインを飲む。


ハハハ、破滅街道まっしぐら、だね。これは。
いいぞう。
早く死ぬぞう。


破滅する。
地球と同じように、いつか。
ドンの生き方もこんな感じだったのかしら、などと思いつつ。


でも、彼は天才ダンサーとしての仕事を全うしたからね。
神と、地べたはいずりまわってる人間と、
レベルが違う者同士なのに、
「破滅する」ところだけ合わせたってしょうがない。

愚かだ。


そうだ!
思い出した。昨日だ。


昨日は芝居漬けの一日だった。



2010年に流山児★事務所の企画で、「卒塔婆小町」に
出演させていただいたときに共演した坂口美由紀さん(演劇生活しちゃってます)といっしょに、
同じ「卒塔婆小町」で共演した清水明子さんが出演している舞台
「ソコヂカラの使い方」デッドストックユニオン
観てきました。


これねえ、
どんな芝居かも分からず、まったく「無」の状態で観たんだけど、
結構いいお芝居でした。

劇団「鹿殺し」の芝居の展開は面白いけどうるさいだけでしたが、
この「ソコヂカラの使い方」は超まっとうなお芝居で、
ポップでシビアなお芝居でした。

最後は感動しました。

主宰の渡辺熟(わたなべあつし)さんがすごく、すごくいい役者さんで、
自然な演技に、真ん前で見ていてもう、感動してしまいました。

まだ、チケットあるかもなのでどうぞ。
場所は中目黒の祐天寺の近くのマンションの地下。
入口がアーチになっていて小洒落た感じの「ウッディ・シアター」というところです。


その勢いに乗じて、
お金を「ゆうちょ」で下ろして、急きょ、
池袋で公演中の流山児★事務所の「地球☆空洞説」まで観てしまいました。
こちらは坂口美由紀さんのブログでどうぞ。


彼らのメッセージはちゃーんと伝わってきましたね。
エンディングは役者がぜーんぶ舞台から外に出て行って、
ライトが客席に向かって照らされるんだよね。

役者は十分に楽しんだぜ。
これからは、お前らが現実で芝居するんだぜって感じのメッセージ。


「地球…」の方はだからベジャールを思い出してしまいました。
だって、寺山とベジャールって、もろに嗜好性と志向性とが、かぶっているんですもの。
それに、お芝居と歌と踊りの共存だしね。
ちょっぴりまがまがしくて、人がいっぱい出てきて、
カーニバル的な祝祭空間ですね。

趣向としては映像を障子のような枠に映して、役者が移動したり、
随所に、意匠を凝らした面白いことやってますけど。
(ちなにに、こういう演出はベジャールもやっている)
だから「ソコヂカラの使い方」と「地球☆空洞説」とは真逆のお芝居なのですが。


だけど、ドンが亡くなってからベジャールのバレエは変わりましたね。
もろに、あれ。
ディズニーランドになってしまった。
面白けりゃいいぞ、みたいな感じにね。
ベジャールが亡くなった今となっては、もっと、そうなって行くんでしょうね。


そうだ!!!
そうだ、ドンだった。


で、「卒塔婆小町」で共演した坂口さんは、
なんと、なんと、ドンの『ボレロ』を観たことがあり、
さらに、
職場のつながりで、神奈川公演を只で観て、
しかもしかも、口を開けて寝ていたという、
けしからんご仁であった。


さらにさらに!
その只でチケットをくれたプロモーターから、
なんとドンのサイン入りの写真を3枚ぐらい貰ったとかで、
「人にあげてしまったけど、どっかに1枚ぐらいあるかもしれん」
とのたもうた。

「黄ばんでいてもいいからドン様のお写真(御姿)頂戴」とお頼みしましたよ。
あんまり気がないみたいだったけれど。


知り合いがいるというのは、こういうことかいな。


興味がないと、実にこういう漫才みたいなことがおこるものなのですね。
猫に真珠、豚に小判。
たとえ、どんな(オヤジ・ギャクではありません)プラチナチケットでも。

好きになる

2012-11-23 02:17:49 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)
人を好きになるって、どういう心のはたらきなのだろう。


想いがけないことでも好きになったりするし、
反対に何でもないことで、きらいになる。



でも、本質的に互いを知り合った人たちは、
どんなにわがままいい、きらいになり、好きになったりを繰り返しながら、
深いところで結ばれている。


そうしたわがままはわがままではなく、
自由な、本当に自由で稀有な、たましいとたましいの、
ぶつかり合いなんだと思う。



じき、ドンの没後20年。
一昨日はベジャールの没後5年だった。



   ラフマニノフOp27 第3楽章 プレヴィン

寒いです

2012-11-21 09:49:55 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)
寒くて眠れない。

夜は寒くて、ブログもかけない。

そこで睡眠薬を久々に飲んだら効きすぎた。
気がついたら出勤時間だった。

2時間休をとった。


睡眠薬代わりにワインばかりを飲んでいて、量が増えたので、
本当に薬にしたら、あこのありさま。


ちなみにM・ベジャールおじさんは、
お薬マニア。
特に巡業の旅の途中で世界各国の睡眠薬を集めていました。

自伝に書いてあります。

お薬のコレクションが趣味だったようで、実際にも
服用されていたよう。



それにしても、ドンが、エイズで亡くなる理由が見つからない。


ベジャールは、自分にとって「師(グル・麻原みたいだね)であり
FRIEND(同志)だ」と言っている。

マリシア・ハイデのことは「LOVE」という言葉を使っているので、
本当にラブの人だったわけで、
スザンヌ・ファレルは「FRIEND(同志)」。
もちろん、スザンヌには旦那さんがいるので、ラブしたら大変。


そんなこんなを考えると……


あたま、こんがらがって妄想する。


はっきり言えることは、『ボレロ』を自然回帰の儀式にまで
高めて表現しきったのは、ジョルジュ・ドンという、
稀有なダンサーひとりだけ。

ベジャールさんはもしかして・・・

2012-11-19 22:10:30 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)

最近、よく思うんですけど。


モーリス・ベジャールおじさんは、もしかしたら
フリーメイソンだったのでしょうか。


モーリスが振り付けた、『魔笛』20世紀バレエ団・日本公演1982年6/6には、なぜかドンがいないのです。なぜ? なぜ? ドタキャン? 干された? (どうでもいいけど)でもなぜ?

『ファウスト』の日本公演の時もいないような気がする。
ドンは大事な作品のときに日本にいない。
なぜなんだろう。



ドンがいないと、淋しい。
観る気がしない。

面白いけど、つまらない。




それはさておき、この『魔笛』を見ていたら、イシスは出てくるし、
「目」のマークと、三角印と、五芒星でしょ。

これって、もろフリーメイソン・シンボルのオンパレード。


モーツァルト自体フリーメイソンですからそうなのでしょうけど。


ベジャールおじさんは思想家にして、
スーパー自由主義者だから、そんなことはないとおもうけれども。


原発事故が起こってから観てみると、
少し、やばくないか? とか、
思ってしまう。


いい方のフリーメイソンならいいけどね、
イルミナティとか、なんてことはないよねえ・・・?



これ、わたしの妄想です。超妄想です。
もし、そうだったら、困る。



ちなみにドンは『イルミナシオン』踊っているし。
イルミナシオン=啓示ですけど、
ドンの『イルミナシオンLes illuminations』はいいなあ。

これを見ると、
トルコへひとり旅した時のことを思い出します。
トルコはアラブではないけれど、音楽が、少し似ている。


アザーンを聞きたくて、トルコまで一人で行っちゃったんだ。
ドンの最後の日本『ボレロ』の公演と入れ違いに……
どっちがよかったんだろう。




『若いダンサーへの手紙』(個人的には『魂の手紙』と超訳したいところです)
この中では、音源を変えて「イルミナシオン」が使われています。
ドンも特に気に入っていた作品らしいですね。


この『若い(若きと訳したいところですが)ダンサーへの手紙』を
最後まで観た時は、ぶっ飛びました。



それこそ最後の20分が、「ドンの魂の手紙」なんですよね。




イルミナティIlluminatiとイルミナシオンilluminationsは、
類語ですよね。




いやあ、いやあ、ほんとにごめんなさい。超妄想です。

でも、ベジャールおじさんがフリーメイソンだというのは、
考えられます。
ドンがそんな面倒なのに関わっているとはとても思えないけれど。




燃え尽きたい

2012-11-18 22:15:48 | 日記(3・11以後・バレエ・映画・芝居)

ジョルジュ・ドンの人生を知れば知るほど、
彼に対する親和性が増してくる。


彼のように、
自分の仕事ひとすじに打ち込み、人生を捧げ、
隕石が燃え尽きるように生きて、死にたいと思う。


こんな時代だからこそ。


こんな時代だからこそ、細く長く、地道に、生きたいと、
そんな幸せをねがう人も多いだろう。


それはそれでいい。
幸せの価値観も人それぞれなのだから。


ドンが亡くなって、20年も経ち、しかも震災を経験した後に
衝撃の出会いを、(正確には再会なのだが)、
したのは何かのさだめとしか思えない。


自分の人生にとって必要だったからだろう。


20年前であろうとなかろうと、
たとえ去年のことであったとしても、
必要のない人にとって、決して出会えないのだから。


「その道に進むと決めたら、
絶えず努力し、訓練しなければなりません」


求道家のようなドンの言葉は、
わたしにとって向けられた言葉に聞こえる。


隕石のように生きて燃え尽きたいと思っても、
すべき努力をしていない者にそれが果たせるわけではない。


日々の努力がどんなに大切かわかっている。
それがどんなに大変なことかも。


私が初めてダンス以外に、ドンの凄さに気がついたのは、
ダンスマガジン(アメリカ)のこの記事を読んでからだ。


   ドンのインタビュー ダンスマガジン1984年(アメリカ)


これを読むと、ドンがどんなに繊細な人かがわかる。


そして、肉体と精神の統合を目指して、
自分の身体と、思うようにならない体の病気や故障と向き合いながら、
不安を克服するために、鍛錬していったかわかる。


「いつも今日が最初で最後の舞台だと思って臨んでいる」というのは、
禅にも、武士道にも通じる。
一期一会の精神だと思う。


何回見ても、ドンの踊る、日本最後の『ボレロ』はすばらしい。
毎回あらたな発見があるというのはどういうことだろう。


マリシヤ・ハイデとの関係は別としても、
ドンとスザンヌ・ファレルとの友情の話は、
何回読んでも胸を打つ。


ファレルとドンの踊る『ロミオとジュリエット』も、
何回見ても見飽きることがない。
ベルリオーズの曲がこんなに素晴らしかったとは。
それにしても、二人のロミ・ジュリの全幕が観たい。
絶版でどこにもない。



今の私には、ドンが、毎日、
「その道に進むと決めたら、
絶えず努力し、訓練しなければなりません」
と囁いてくれているような気がする。



が、しかし、
塵も積もって、ダンスマガジン8冊分で気がついたら5000円使い、
『ドン・日本最後のボレロ』で7000円ほど使い、
20世紀バレエ団のレニングラード公演のDVDも中古で買ってしまって、
ずいぶん散財している。


いのちが燃え尽きる前に、お財布が先に燃え尽きるかもしれない。
ボジョレーも安かったのでドンキで買ったけど、
あまり美味しくない。


その道に進むと決めたら、
努力と鍛錬を怠らず。
隕石のように燃え尽きる。