これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

心は肉体を超えて

2016-11-01 23:36:43 | 心をラクに
先週から松本での取り引きが始まりました。

信州というのは長らく空白地帯だったのですが、今年の夏あたりからトントン拍子で話が進みまして、そのうち前任者が異動となって
開始直前になって自分が担当することになりました。

御柱祭直後の諏訪大社にフラフラと足を踏み入れたのは6月のことでした。
あの時は、こんな場所が日本に隠されていたのかと衝撃を受けて再訪問を心に決めたのでしたが、まさか数ヶ月後にそこの担当になる
とは思いませんでした。

これまで伊勢を始め、日なたの陽のエネルギーに触れ続け、自分はそちらの御縁なのだと当たり前に思っていましたが、ここに来て
日蔭の、静の感覚に触れることが多くなり、それが遠く深くへと広がっていくのを感じるようになりました。

それを何と言えばよいのか、しっくりくる言葉が浮かばないのですが、自分を取り巻く環境、心に触れる感覚がガラッと変ったのを
感じています。

取り巻く環境というのは、現実生活の目に見える景色もそうですが、それ以上に目に見えない水面下の広がりの意味合いのほうが
大きいかもしれません。
最初は水面上の点であったものが、気がつけば天地水平に満ちるエネルギー、空気となり、それが深淵にまで続く感覚となりました。

これが御縁というものなのでしょうか。

御縁というのは、まさしく目に見えない世界の繋がりです。
というと何処か見えないところから何かがヒュッと繋がるようなイメージを浮かべるところですが、逆を言えば自分の方から水面下の
それらにヒュッと繋がっていくという見方も出来ます。
この世界は相対的なものですから、どこに視点を置くかの違いであってどちらも同じことを言っています。

つまり、御縁とは向こうから勝手にやってくるものでもなければ、こちらから強引に行くものでもない。
どちらも引き合うようにして自然と同化するものということです。

道開きの神様というのは、遠くの何かを引っ張ってきてくれるのではなく、その世界と自分との風通しを良くして下さっているという
ことではないかと思います。

引き合うということに関しては、良縁も悪縁も同じ理屈ですから、私たち自身がどのような状態にあるかによって目の前の景色もそれ
相応の姿形になっていくと言えます。
不幸や困難が勝手に向こうから訪れるということは無いわけです。

御縁と言えば、初めて高野山に行った時には、ものすごい渇望感をもって仏教を猛勉強したということがありました。
それは数ヶ月にも渡り、まさに机にかじりつくような勢いだったのですが、決して追い立てられるようなものではなく、とても悦びに
満ちたものでした。
その時というのは表層の自分ではなく、広がりの中に重なり合う何者かの存在を感じました。
そして自分自身は、その歓び嬉しくて仕方が無いという感覚を、不思議と冷静に眺めていたのでした。

荒唐無稽に過ぎますが、自分にとっては心の奥底というか、無限小の中心の実感でしたので疑いを挟む余地のないものでした。
そうなると理屈でなく、証明するまでもない真実でしたので、誰かに伝えてそれを分かって貰おうという思いすら湧かなくなっていました。

そうして誰に話すでもなく過ごしていましたが、あるときボンヤリ感じる存在のことをボソッと話したら、家の者がだいぶ前からその
存在に気付いていたと言うのには驚きました。

確かにドーンと居てるんですから、リラックスしてる自宅の中で「むむ」と思わないはずがない。
そりゃそうだよな、と笑ってしまったことがありました。

この時の感覚というのは、水面下の広がり全体に及ぶものではなくポッと一つのともしびのようなものでした。
そして実際のところ、高野山から帰ってきたらそれは消えてしまいました。

また御縁としては、それよりもさらに淡い、あっという間に目の前を通り過ぎるものもありました。

例えばこれも高野山ですが、前日になって急遽、熊本・八代に仕事で飛ぶことになってしまい、そこから高野山直行という強行軍に
なったことがありました。
内心、文句タラタラでしたが、まさに人生楽ありゃ苦もあるで、トンボ帰りで宿坊に着きますと大変立派な部屋を使わせて頂くという
幸運に恵まれました。

そこはお殿様の部屋で、細川首相の部屋でもありますと言われて、ホンマかいなと話半分ながらも喜んでいたところ、翌朝の勤行を
終えたあと住職に導かれるままに奥の部屋へ入るとそこには歴代の熊本藩の藩主の位牌がズラリと並んでいました。

何も知らないにもほどがありますが、その宿坊は熊本藩の菩提寺というオチでした。

さすがに驚いて、心落ち着けて手を合わせましたが、その中に歴代の八代城主の位牌もあることに気づいた時にはもはや完全に降参の
心境でありました。

この時というのは水面に浮かぶ点のような御縁と言っていいものでして、たまたま使える駒が来たから使ったという感じでした。
そのおかげでこちらはお殿様の部屋を使わせて頂いたのですから、これぞ本当のお蔭様でありました(笑)

色々と書いてきましたが、こういうことはたまたまそれに気づくかどうかだけで、いつでも誰にでも起きていることなのだと思います。

そもそもこの世とは天地の中心に成ったものであって、私たち人間というのはさらにその中心、つまり天地を繋ぐパイプに成ります。
依り代というと大層なものを想像してしまうかもしれませんが、自覚の有り無しに関わらず、それこそがごく自然の姿ということです。

私たちは、私たち自身の依り代です。
そして天地の依り代でもあるわけです。


何となく足を伸ばしたくなったり、ふと手を合わせたくなった時というのはそういう時です。
そんな時は余計な詮索はやめて、理屈も捨てて、ただ手を合わせる。
そしてそれが終わったら、そのこと自体も忘れて何事もなかったように切り替える。
サッサと我心を捨てることが詰まらせないコツではないかと思います。


さて、このように御縁といっても様々にあるわけですが、今回の松本の流れというのは点や面とは違って、もう少し奥深くへ広がる
ものを感じました。

先週末、帰りの特急が下諏訪に差し掛かった時、にわかに諏訪大社の景色が心に浮かび、今すぐにでも駆けつけたい衝動に駆られました。
しかし電車の中で缶詰めになっているのでどうしようもない。
そこで止む無くそのままその景色に身をまかせていますと、その空気と肌感とに同化した瞬間、弾けるような幸福感が全身をブワッと
包みました。
その余韻はその後、数十分ほど消えることはありませんでした。

その時、それは生まれる前や死んだ後、誰もが味わうこの天地宇宙に満ち満ちた産湯なのだと感じました。

そしてその感覚というのは、心が感じているだけでなく、この肉体も感じているものでした。
全身の皮膚の表面に鳥肌が立ち、感触を物理的に感じている状態となったのでした。

必ずしも神社境内に肉体を置かなくても、心がそうであれば寸分違わずそこに在るのと等しくなる。
逆にそれは、そこに肉体が在ろうとも心がそこに無ければ、肉体もまたそこには同化できないということを意味します。

家の中にあって神棚に手をあわせる時も、天照様であれば伊勢神宮のあの神苑の空気、あの心の肌感を思い出せばそこに行かずとも
たちまち同化する。
氏神様にしても、またしかり。

ですから時々それら実際の境内に足を運び、手を合わせるのはとても大切なことになるわけです。

頭とは違い、皮膚の実感はフィルターレスです。
実体験というのは、自我の覆うフィルターを突き抜けて天地宇宙に直結するパイプとなります。
心の肌感を思い出せば瞬時に同化できるというのはそういうわけです。

実地に赴き、肌に身をまかせる。
手を合わせたくなれば手を合わせる。
何をするでもなくただそこに立ち、頰を撫でる風を心を預ける。

日頃この肉体にカチコチに押し込められている心を解き放つには、頭を空にして肌へと身をまかせるのが一番です。

心の皮膚感、肌感、そうしたものに素直に身を任せた時、突如、たとえようのない幸福感が吹き寄せるかもしれません。
それは私たちが生まれる前や死んだあと、そして今この時も、当たり前にこの世界に満ち満ちているものであるわけです。


鳥取でも地震があり、国土のあちこちで不穏な状態が続いています。

明後日からはイタリア。
フィレンツェ、ローマに行ってまいります。

何処が特別ということはありませんが、その時その人にとっての御縁というものはとても大事なものでしょう。

本日の内容そのままです。

私たちは、いつ何処にあっても、天地宇宙の依り代であり、そして私たち自身の依り代ということです。




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