これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

分からないのが当たり前

2017-01-17 18:07:09 | 心をラクに
世界は突如としてあちこちでグラグラ不安定に揺れ始めました。

移民問題、イギリスEU離脱、トランプ大統領就任…
それらはどれもグローバル化が進みすぎた反動と言われますが、それよりさらに深い部分ですべてが繋がっていると言えます。
隣国の慰安婦像問題にしても根っこは同じです。

そしてどれも調和とは真反対へ向かっているようですが、実はこれらは大和合への一歩と見ることも出来ます。
それが前進の一歩となるか、あるいは後退の一歩となるかは、まさしく今この瞬間の私たちの受け取り方に掛かってます。

今こそ、慌てず騒がず粛々と受け入れるスタンスが大切かもしれません。

まずは物事の根っこに流れるものを理解し、いま以上に怒りを増幅させず、そうして軽やかになったのち、あとは素直に一喜一憂していく世界
などいかがでしょうか。

それでは話を進めたいと思います。


私たちは誰しも、自分のことを分かって欲しいという淡い思いを持っています。

もともとそれはごく自然なもので、その思いは郷愁の念と言い換えることもできるでしょう。

この世界に来る前、私たちは一つの海に溶け込んでいました。
そこでは包み隠すことなくお互いを分かり合っていました。
天地宇宙は一つの身体であり、あなたは親指であり、私は人差し指であったわけです。

そのようなところから、わざわざすべてをシャットダウンしてこの世へ降り立ちました。
というのも、分からない状態のほうが大いに楽しめるという理由からでした。

それは楽園追放などではなく、自ら刺激を求めてのものでした。

チャカチャカと電装まぶしく、喧騒溢れる賑やかなこの世の中。
私たちというのは、都会に憧れて飛び出してきた若者と同じと言えるかもしれません。
となれば、刺激に惹かれる気持ちの一方で、ふるさとの空気感に思い焦がれるのも当然と言えるでしょう。

ただ考えてみれば分かりますが、それが成立した時点で「自他の境」というものは無くなってしまいます。

そもそも私たちはこの世に自他の別をも味わいに来ているのですから、ふるさとの空気感に浸ることはこの世に生きているかぎりは
叶うことのない夢ということになります。

ただ、それに近い感覚を味わうために私たちは神社仏閣に行ったり、温泉に浸かったり、山や海などの大自然へ出かけたりします。
そこで自我が薄まり、自他の別が無くなり、慣れ親しんだふるさとの空気に触れることになります。

そして再び、大都会の喧騒たるこの世の現実生活に戻るわけです。

それが嫌だとそのまま人里に戻らずに神社仏閣や大自然に棲むという選択肢もありますが、もしかしたらそれは勿体ない話になってしまう
かもしれません。
もちろんそれを選んで来た場合は別ですが、そうでないならば単に隣の芝生が青いだけかもしれません。
自他の別というのも、この世の一つのアミューズメントです。
疲れた時はふるさとの空気に触れられる場所があるのですから、迷わず安心してリアル現実生活を味わいきって大丈夫であるわけです。

この世にも、あの世と同じようにすべて包み隠さず通じ合う世界はあるでしょう。
それを魂の進化というかどうかは別として、少なくとも私たちはわざわざこの分かり合えない状態を選んで、それを好んで生まれてきた
のですからココでそのような世界を求めるのは不毛というものでしょう。
それはまた別の時にやればいい話ですし、もしかしたらすでにやってきた世界かもしれません。


今一度、この世界に立ち還ります。

そう、人は分かり合えないのが当たり前なのです。

「分かり合いたい」という気持ち自体はとても大切なものです。
ただ、「分かり合えるはずだ」という決めつけは幻想でしかありません。

前者のような、分かり合いたいという思いの出所は天地自然にあります。
それは天地宇宙の自然体(すなわち『和合』)に向かう川の流れのようなものです。
そこに自我は介在しません。

しかし見た目の姿形はそのままでも水面下でスルリと自我が入り込むと途端に流れが変わってしまいます。
それが後者のような決めつけになるわけです。

天地自然な状態の時は見返りを求める気持ちなど決して起きないのですが、自我が中心を占めるとたちまちそれが現れます。
自分を分かって欲しい、自分にも尽くして欲しいという見返りです。
そしてその思いが叶わないと、反発や衝突、逆ギレ、恨み、怒りが爆発することになります。

私たちには、分かり合える部分も沢山あります。
分かり合おうとする心はお互いが秘めたものです。
余程の偏屈でなければ四方八方すべて門前払いということはありません。
角がぶつからないように表層部分から同化して行くのが天地の姿です。
ただお互いの深みまで分かり合いたい、同化したいと期待するのは欲張りというものです。

自然界、例えば森林が形成されていく過程を見てみましょう。

最初は光や土地を求めて互いに凌ぎを削りますが、お互いの範囲が重なると折り合いをつけてちょうどいい感じにおさまっていきます。
その時の状態を俯瞰しますと、森全体は隙間なく溶け合って一つになっています。
しかし溶け合った全体の下で、個々にはそれぞれハッキリ異なる種として個性が存在しています。
枝を伸ばして成長しようとする思いを消すことなく抱いています。

つまりは、全体の大和合というのは決して譲り合いによって成った調和ではないということです。
お互いの深層まで丸ごと一つになったわけではないのです。

邂逅というのはこの世の自然な姿です。
しかし、より深みまで分かり合えるものだとするのはそれこそエゴでしかありません。

分かり合いたいという純粋な思いそのものは、この森林の調和と同じエネルギーだと言えるかもしれません。
ですからそれ自体は必要なものです。
しかし、ひとたび調和が崩れれば木々がそれぞれ再び凌ぎを削るように、私たちにも分かり合えない部分というものがあって当たり前で
あるわけです。
それは仕方のないことだと達観し、来るべき調和に向かう前段階だと受け入れるということです。

相手のことを「すべて」分かりたいというのはエゴですし、自分のことを「すべて」分かって欲しいというのもエゴです。

しかし現実を見てみますと、そこに大義名分や美辞麗句が加わりエゴが正当化されて自覚せぬまま暴走することになります。
本来やわらかく優しいはずの恋愛ひとつ取っても、エゴがまさるとそのようになってしまうのはよく知られたことでしょう。

相手のことを分かりたい知りたいという純粋な気持ちのうちは、とても清々しい風が吹きます。
しかしそれがエゴにすり替わると、たちまち打算的な思いや交換条件的な気持ちが湧きあがり「もっと自分のことを分かって欲しい」と
なってしまいます。

こんなに自分が愛しているのだから同じだけ自分のことを愛して欲しい、と。
必死に相手に尽くすことは、それと同じだけ自分に尽くして欲しいという要求行為でしかなくなります。

つまり、その心は相手に向けているようで実はすべて自分に向けたものでしかない。
愛しているという、あたかも外向きのエネルギーのその先には自分が居るということです。

この180°のすり替わりは、無音のまま一瞬にして起きるため誰も気づくことができません。
何より自分自身、初めの清らかな風に乗ったままに感じていますので、なおさら気がつくことができないわけです。

そして、このことは恋愛だけに限らず、他のどのような場面でも同じ仕掛けで起きてしまうことなのです。

もしも交換条件なしに純粋な思いのまま、相手のことを知りたいという時には、当然その先には何もくっついてきたりしません。
そこで終わりです。

ですから、仮にそのことについて第三者からあれこれと言われてもムカッとすることはありません。
逆に、無自覚のうちにエゴが介入して交換条件でやっている時には、第三者に何か言われるとムカッときて言い訳したり自己正当化に走って
しまいます。
まさしくそれはエゴの防衛反応と言えるものですから、それこそがエゴが居るか居ないかの指標になるわけです。

そして、気づかないうちに水面下でエゴにすり替わってしまうと、自分では良かれと思ってやっていることが実はエゴを太らせるための使役
にしかなっていないことになります。

そういう意味では、ボランティア活動や、宗教的な活動、右や左といったイデオロギー的な活動、さらに範囲を広げれば国同士の付き合いに
しても、すべて紙一重の危うさを秘めているということになります。


さて先ほどの森の話に戻りますと、いきなり三段跳びで調和を目指そうとすること自体、不自然なことであり、それはまさしく我執そのもの
であると言えます。
我執こそが調和を遠ざけるものです。
ですから「すべて分かり合おうとすること自体がその実現を遠ざけてしまう」わけです。

とはいえ、そのまま座して待っていても何も変わらないというのも事実です。
だからこそ、理想を抱くということがとても大事なのでした。

それを胸に秘めつつ、しかしそれに囚われない。
安定に至るまでは何度も行ったり来たりするものですから「もどかしい状況が続くのはやむを得ない」ということです。


倒木により森の一ヶ所に穴が空いた時、四方八方から光を求めてワラワラと木々が枝葉を伸ばしていきます。
お互いちょうどいいところでピタッと止まるのではなく、それぞれがぶつかり合うように枝葉を伸ばし続け、ぐちゃぐちゃに重なり合って
いきます。

そうした、ぶつかり合いのような軋轢の果てに、無駄に飛び出しているトンガリが自然と落葉して、森林はまた一つの大調和へと成って
いきます。

安定に至るまでには様々な波立ちが幾度も現れます。
そうした時にこそ、いかに我を出さないで居られるか。
そのような波立った状況そのものもスーッと受け入れる、ということが大事になってくるわけです。

これは人間関係そのものであり、果ては民族や国家の関係にも当てはまることです。


そうはいっても実際のところは、少しでも理想に近づかないかと期待をかけてしまうわけで、そうならなかった時にやはり私たちは悲しみや
怒り、絶望を感じずにはいられません。

しかしそれらが全くのゼロになるのいうのは、自我と共に生きている限り、そもそも不可能であるわけです。
自我とはそういうものを生み出す存在です。
そしてそんな自我を自分たちから追い出すことなど絶対に有り得ません。
それはこの世での死に他ならないからです。

自我を忌み嫌うのではなく、それはそういうものだという諦め、受け入れが、ここでこそ必要となってきます。

要は「自我がそうしたものを発すること自体、当たり前であって、私たちがムカッとなってしまうのは仕方のないことだ」と諦めてしまうと
いうことです。
ポイントは、一瞬の発火に対してそのあと火をくべ続けるかどうかにあります。

繰り返しますが、まず最初の発火は受け入れる。
しかし、それに飲み込まれ引きずられエネルギーを注ぎ続けてしまうのは避ける、ということです。

そのように我執を膨らませないためには、自我を行きたいように行かせて肩透かしさせるのが一番です。
そして、ここで「諦める」というのが有効な手だてとなります。

「受け入れる」と違って「諦める」というのはは、まだ自我に主導権を持たせてあげている状態と言えます。
行きたがっているのを止めるのではなく、ガソリン供給を絶つということです。

カッコよく「受け入れる」と表現すると、無理や我慢が生じてしまうものです。
無理やり自我に蓋をしようとしても、あとでロクなことはありません。

自我を自分から引き剥がそうとしたり、バケツに閉じ込めようとしてもかえって抵抗するだけですから、とにかく自我を尊重してあげるのが
一番です。
それすなわち「自我を受け入れる」ということです。

理想がなかなか現実化しないことに対して「多くの期待をかけない」「諦める」ということによってエネルギー供給は途絶え、おのずと
自我の暴走は止まります。
そうして平穏な世界となり、現実を淡々と受け入れられるようになるということです。

つまり、「期待しない」→「諦める」→「受け入れる」という流れです。
これは「認める」→「受け入れる」ということにも通じます。

言葉の表現としては突き放しているような冷たさがありますが、今さらカッコつけても仕方ありません。
すべては方便です。

我欲にエネルギーを注がなければ、あとは成るように成っていきます。

期待しない、諦める(認める)という流れの中で、見返りを求める自我は薄まっていきます。
結果として、相手との壁も薄まって、受け入れることになっていくわけです。


(つづく)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。