これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

みんなで一緒に踊りましょ

2015-05-27 00:07:41 | 関西おそるべし
関西と言いますと、皆さんどんなイメージを浮かべるでしょうか。

京都ですと、はんなりと落ち着いたイメージかもしれません。
大阪なんかは、何となくドぎついイメージでしょうか。
ドぎついなんて言いかたは失礼でしたね。すいません。濃いと言い直します。
(変わらんか(笑))

でも実際のところは、見るのと聞くので大違いです。
大阪に住んで5年になりますが、いかに世間の情報や思い込みに曇らされていたかを実感する
ことばかりです。
やはり、何ごとも自分の肌で感じてみないと分かりません。

たとえば、現地の人はエセ関西弁を使われるとムカムカすると聞いていましたので、ことさら
標準語を使っていたのですが、地元の人たちと交流していますと、逆に「気に入らん」と、無理
やり関西弁に矯正させられました(笑)

あの話は、ヨソから来た人間が元の殻をかぶったままでやろうとしたから、イラっとされたという
ことなのではないかと思います。
外づけファッションのように自分たちの言葉を扱われてしまうと、バカにすんなと思うものです。
それに対して、素っ裸になって心からハシャいでいますと、全く逆に、東京弁に違和感を覚える
ようになって、直さずにはいられなくなるということなのかもしれません。

あるいはまた、大阪と言えばドカドカと土足で入り込んでくるとか、押しが強いとか、何かと我の
強いイメージがあります。
おそらく全国の人たちが、そのようなイメージを持っているのではないでしょうか。

ただこれも、あくまで吉本などのお笑いや大阪のおばちゃんキャラのイメージであって、それで
全員がそうだと決めつけられてしまうのは、ちょっと気の毒に思います。
確かに東京に比べたら、そうした人たちが多いのかもしれませんが、それでも大半は普通の人
たちです。
「普通の人たち」というのも失礼な話ですが(笑)

でも、大阪の人たちはフレンドリーだというイメージについては、これは事実だと思います。
フレンドリーというのは、心の敷居が低いことの現れです。
つまり、壁を作らない。
心が大きいということでもあります。

たとえば東京というのは、今も昔も地方から人が集まる場所です。
一般的に、新参者というのは、まわりに対して適度な間合いで接したり、気をつかったりする
ものです。
東京というのは、一世代前や二世代前からそういう人たちがたくさん移り住んできましたし、
それが今でも続いています。
そうしたものが五月雨式に折り重なってきたため、いつしかそれが東京の空気感となったので
はないかと思うのです。

その証拠として、下町育ちの江戸っ子はズカズカと人の内に入り込んでくるお節介の塊です。
べらんめぇ調なんかはスゴいものがあります。
それは下町というのが、土着の人たちばかり住む町だからです。
生まれながらにして、オープンな環境に囲まれているということです。
その結果、誰にも壁を作らず心を広げて、相手を我がことのように感じているわけです。
人のウチの縁台に好きに座って、プライベートの垣根など無く、隣近所で交流している姿が昔は
当たり前だったのですが、そうしたものが圧倒的少数になってしまったことで昔の江戸の雰囲気
は薄まっていったのかもしれません。

大阪の気風というのは、まさにコレです。
東京の下町とまったく同じ空気感です。
つまり、それが歴史ある町の自然な姿なのでしょう。
皮肉ですが、今の東京の大勢を占めてしまっている空気感の方が、野暮ったい田舎モンという
ことです。
隔絶や断絶というのは無関心の現れでしかなく、それはスマートでも何でもないわけです。
都会には、互いに不可侵条約を結んで遠巻きに接するような、よそよそしさがあります。
他者に関わるまい(関わられるまい)とするのは、自分が守ろうとする部分や隠したい部分が
あるということです。
それは信条かもしれませんし、弱さかもしれませんし、あるいは表に出している姿とは違う自分、
つまり素の自分かもしれません。
そこに触れられることは痛みだったり、苦しみだったり、不安だったりするわけです。
お互いそこは波立たせないようにしようという、その距離感が、淡白さや冷たさとなって現われて
しまいます。

しかし、大阪ではそこが大きく違ってきます。
もしも相手に踏み入れさせまいと頑なになると、もう完全にシラケてしまいます。
それは「貴方には全部は見せられません」「自分は取り繕っているところがありますよ」と言って
いるようなものだからです。
それでも東京ならばそのまま放っておくところですが、大阪では違います。

なんやそれ?
オモロないやっちゃなぁ!
と、優しい愛のムチが容赦なくふってきます(笑)
不可侵領域などおかまいなしにズンズン入ってきます。

自分も裸になってるんだから、お前も裸になれ、と。
裸の付き合いをしようや、と。
そういうことです。

ここで大阪らしい大切なキーワードが「面白い」です。

面白がらせることに幸せを感じるというのは、単なるサービス精神ではなく、自他同一の一体感
というものが根本にあります。
心の壁を作らず、まわりとフルオープンに交流していればこそ「相手を楽しませたい」「人の喜び
は自分の喜び」となるわけです。
肌を通して風が吹き抜ける気持ち良さに慣れていると、あれこれと着飾って素の自分を隠すと
いうことに気持ち悪さを感じるようになります。
それは自分自身に対してもそうですし、それをしている他人に対してもそうです。
断絶をなくして同体感を蘇らせたい。
それが、東京の人たちの誤解を招くような言動の出処であるわけです。

実際、私たちは色々と自分を着飾って日々を生きています。
そうした窮屈なものを見ると、純粋に息苦しくなるというのが大阪の感性なのです。
今こうして真面目に分析していること自体も、堅苦しく野暮ったいわけで「アホう、そんな大層な
もんちゃうわ」と茶化されてしまいます(笑)

窮屈なのは落ち着かない。
堅苦しくて真面目なのはシンドイ。
そうしたことをまとめて、一言「オモロない」というわけです。

もちろん大阪の人たちだって人間ですから囚われもあるでしょうし、自分を繕ったりもしている
でしょう。
それでも、誰かが自分の内側にスッと入ってきた時には、それを拒絶せず瞬時に素っ裸に
なれる感性を子供の頃から磨いているわけです。
胸襟を開くというと少し仰々しいですが、でもそういうことです。
それがお互いの信頼関係を保つことになっています。

オモロいかどうかの基本は、自我を脱ぎ捨てることにあります。
自分が守っているものを捨てるということです。
アホというのは、その究極の形かもしれません。
だから関西では、自分を捨てきるようなアホ芸が受けているのです。
その突き抜けぶりに、時として、一種の敬意すら抱いているのではないかと感じるほどです。

これは東京にいると、なかなか分からない感覚かもしれません。
自我を脱がずガッツリ脇を固めるのが、スマートだと思われているからです。
だから、大阪の人は東京の人を敬遠するのでしょう。
自分自身はTシャツ短パン姿でくつろいでいるのに、その隣で、ビシッとスーツ姿を決められて
いるようなものですから。

私も、自分ではかなり毒のある方だと思っていたのですが、大阪の人たちに比べたらまだまだ
ヒヨっこでした(笑)
おかげさまで、以前よりも自分を捨てられるようになりましたし、脇のガードもユルユルに甘く
なりました。
大阪の皆さんに本当に感謝です。
突っ込まれてナンボ。イジられてナンボというのは全くその通りです。
自分をフルオープンにすることで、その場のみんなもフルオープンになるのです。

イジりについていえば、仕手と受け手の連携プレーによって成立するため片方が守りに入って
しまったらお終いです。
お互いの信頼関係も崩れ去ります。
細かいことを気にしないという部分については、ガサツと紙一重なところもありますが、それは
決して我欲ではないわけです。
仕手は、子どものように無邪気に入ってくるので、ついつい受け手もそれに気を許してノって
しまうということです。
まさに踊るアホウに観るアホウです(笑)
どちらもアホウになって一緒に踊っている、観ている人もみんなで踊っているということです。

少しだけ真面目な話になりますが、こうした大阪の気風というのは、その歴史の古さとともに
関西圏のパワフルな霊的エネルギーに裏打ちされていることを強く感じます。

そのあたりのことは別の機会に触れたいところですが、何にせよ大阪というのは、取り繕おう
とする心を打ち壊す(開放させる)文化が、ナチュラルに根付いています。
そして、自分一人だけの世界ではなく、みんなで一つという感覚を当たり前に共有しています。

頭がいいヤツや運動の出来るヤツよりも、オモロいヤツが子供のころは一番モテるというのは
非常に深いものを感じます。

唐突ではありますが、頭の中に、天照様が岩戸ごもりした時の賑やかな宴会騒ぎの様子が
浮かんできます。
みんな明るく楽しく大笑いをしている姿です。
アメノウズメノミコト様がみんなを笑わせたことが、天照様が岩戸を開くキッカケとなりました。

それは、演技ではなく本当に神様たちが心をフルオープンにして溶け合った瞬間です。
そしてそれを引き出させたアメノウズメ様も、自我を無くした天地一体の境地だったわけです。
それらが、天照様のかたくなになっていた心の壁を開いたのです。

何を言いたいか、もうお分かりかと思います。
天照様とは私たちの真我であり、岩戸というのは私たちの囚われや思い込みであるわけです。
そして、今の私たちはアメノウズメ様になって、まわりに集う仲間たちと心一つにしてハシャぐ
ことができるのです。

大阪というのはなかなかに奥深い土地です。
お笑いというものが、大阪から発信されているのも大いに納得です。
皆さんも心をラクにしたければ、是非とも大阪に来てみてはいかがでしょうか。

脇の固いかたには、少々、手荒いスパルタが待ってるかもしれませんが(笑)



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