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中心の力を抜く

2017-09-17 13:24:31 | 武道のはなし
肩の力を抜くという言葉があります。

私たちは緊張したりストレスを感じると、知らず知らずのうちに身体のどこかにグッと力を入れています。

頭にきている時は歯を食いしばり、ストレスで心が固くなっている時は肩に力が入っています。

こうした身体の力みを抜こうとしても、根っこが変わらなければすぐにまた同じ状態になってしまいます。
心の状態が身体に現れているのですから、心の力みを取らなければ身体の力みも取ることはできません。

武道においても身体の力みを抜くことは非常に重要な要素となります。

この世というのは自我を強めるほどに心がギューッと凝縮していき、実体が濃密になっていきます。
実体がガッチガチになると氣の通りも悪くなり、氣の欠乏により病氣が現れます。

また、かたくなな自我と自我が触れ合うとガツンとぶつかり合うことになります。
これは武道の組手だけでなく、対人関係にも当てはまります。

一方、心がリラックスすると自我が薄まり、実体も薄まっていきます。
すると氣の流れも良くなり、天地宇宙との隔たりが薄まっていくことになります。

そのようにして腕の力が抜ければ、相手の自我が触れようともそれは私たちの中心へ通り抜けていき、ぶつかることなく流れ去って行きます。
まるで大祓詞のようにです。
また、足の力が抜ければ、その場に居着くことがなくなり前後左右あらゆる方向と一体となります。
そうして四肢の力が抜けて壁がなくなると、相手を投げ飛ばすことが出来るようになります。

さて今日はその先の話です。

その手足の力を抜けたとしても、そこで終わりにしてしまうと肝心要(かんじんかなめ)のものを見落とすことになってしまいます。

確かに四肢の力が抜ければある程度ぶつかることなく相手を投げられますが、そこで謙虚に耳を澄ますと肚下でわずかにぶつかっていることが
感じ取れます。

四肢の力が抜けていても、自我の芯が残っていると肚(はら)の下にそれが残るわけです。

腕や足の力が抜ければ相手から受けたものが自分の本体の中心線を通って、肚の下に来ます。
その状態で相手が腕力で来たならばそれを肚の下でグッと受けることになり、こちらは全身力で相手を投げることが出来ます。

しかしそれというのはどこまで行っても自我と自我の衝突であって、わずかなリラックスの差による自我の濃淡で投げ勝っているに過ぎず、
要するに物理的な理屈でしかないわけです。

肚(はら)で受ける。
その感覚で良しとするか、それではいけないとするか、まさにそこが大きな分かれ目となります。

日常生活、職場や家庭、人間関係においても様々な意見やものごとが四方八方からやってきます。
肩や手足の力を抜くというのは、表面的にニコやかに柔らかく受け応えることに通じます。
それはガチガチに跳ね返す状態に比べれば遥かに安心安定の状態であるのは間違いありません。

たださらに突き詰めると、自分の中心が頑な(かたくな)になっているとそこでぶつかる、跳ね返っているという事実が顕れてきます。

頭に来るようなこと、多大なストレスを感じるようなことが外から入ってきた時に、表面上は柔らかく受け流して事態の落ち着きが見られた
としても、肚(はら)の下でその全てをグッと受けてしまっていたならば、それは心や身体へと跳ね返り、何だか分からぬイライラや不安が
募り、シンドくなったり病気になったりしてしまいます。

あるいは、事態の落ち着きも中途半端で止まってしまい、再び同じような事象が私たちを襲ってくることになったりもします。

武道においてもそうであるように、この世においても重要となるのが中心の力を抜くということです。

手足のような表面的なものはむしろ放っておいてもいい。
そっちではなく、こっちということです。

厳密に言えば、肚下の力みが抜けていないうちは四肢の力も完全に抜け切っては居ないということになります。

ただ肚下の力みを抜くといっても、決してそれは虚脱状態を指すものではありません。

虚脱と脱力の差は、私たちが中心で一つになっているか否かです。

虚脱とは四方八方に放置している状態です。
それはバラバラになっている状態です。
中心で一つになっている状態、それが脱力です。
それは無限小に中心が集約しているがゆえに四方八方に無限に広がっている状態です。

自我の芽が残ってしまうとそれは成りません。
ですから脱力というのは「脱力しよう」と思ってそうなるものでなく、心が集約されると勝手にそのように成るものです。
中心がボヤけると四方への広がりも寸詰まったものとなってしまいます。

中心で天地宇宙と溶け合って一つになっていると、私たちは天地宇宙そのものとなります。
天地宇宙が私たちとなります。
手足どころか私たちの存在そのものが透き通った状態となり、何ものともぶつからない状態となります。

相手の力を肚(はら)の下でグッと受けることもなく、どこにもぶつからず全てが透明にサーッと消えていきます。

統一の状態とは、天地と同化し、四方八方の空間と溶け合っている状態に他なりません。

相手の怒りや悲しみが流れ込んで来ても、それを受けまいとは思わず、さりとて受け入れようとも思わず、ただ天地宇宙と一体のままにある。

白も黒もつけず、ただ私たちは天地宇宙そのものであるだけ。

そうしますと相手も天地宇宙とともに在りますので、私たちが平穏平和の境地にあれば、相手も平穏平和に成っていきます。
逆に、私たちが良くも悪くも自我を発現させて不統一になっていますと、相手もまた不統一になっていきます。
自我をぶつけるとお互いどんどんヒートアップしていくというのはその一例です。

合気道を創設した植芝盛平翁は、天地宇宙と一つになることを修行の眼目としました。
ある空間において翁が天地宇宙そのものとなれば、その場に居るものたちはその内にあることになりますので、何をせずともすでに技に
かかってしまったわけです。

仮に相手もまた天地宇宙と一つになっていた場合、ともに天地宇宙そのものでありますのでそこには技をかける掛けられるというものは
存在しなくなります。

すなわち和合そのものとなり、どちらが上どちらが下というもの自体が無くなる。
それこそは天地宇宙の姿そのものであるわけです。



力を抜くというのは突き詰めていくと、力が抜けるという表現に辿り着きます。

力を入れているのは私たちであり、自我であります。
力を抜くという動作も、そこに自我が存在します。

だからこそ、中心の力みには自分でなかなか気がつけないわけです。
腕や足、肩の力みというのは自分で気がつけますが、中心の力みは最後まで気がつけない。
何故ならば自我がハンドルを強く握っているうちは私たちは自我に同化してしまっているからです。

自我としてはそれが普通の状態であるため、中心が力んでいる状態もまた普通の感覚に成ってしまい気がつけないということです。
そして、中心でガシッと受けてしまうこともまた普通の感覚と成ってしまっているわけです。

力は抜くものでなく、抜けるもの。
それは、天地にまかせきった時に勝手に成る状態です。

そもそも私たちは天地宇宙そのものです。
ですから、外に任せきると表現しても、内に任せきると表現してもどちらも同じことです。

とにかく、自我のざわめきをほっておく。

ほっとく。

それが仏(ホットケ)の境地であり、詰まり詰まったものをサラサラと流す無二の方法となるのでした。





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