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寺院東0425 建仁寺・惣門  臨済宗建仁寺派

2018年02月22日 06時59分18秒 | 寺院

 西向きに建っています

目線は東を見ています

 

迫力のある字体です

昭和9年5月建立

駒札 日焼けして読めないところは空欄にして記載していません。補って読んでください

東山と号する臨済宗建仁寺派の大本山で

 鎌倉時代の建仁2年(1202)に臨  である栄西禅師により創建され、 で建仁寺と名付けられた。

当初は天台宗、真言宗、禅宗の三宗 だが、十世の円爾弁円や十一世の  て禅宗寺院として確立し、室町時代に の格付け制度である五山の生の下  の第三位となった。

方丈(重要文化財)は、慶長4年(15  )安芸(現在の広島県)の安国寺から移築  町後期の禅宗方丈建築で、鎌倉後期  える勅使門(重要文化財)は、  から「矢根門」とも呼ばれている。寺宝として、俵屋宗達の代表  「花鳥図」「雲龍図」など桃山時代   風絵、水墨画、障壁画を多数蔵して、  法堂の天井には、平成14年(2002)、 仁寺開創八百年を記念して、日本画家小泉淳作氏によって畳百八畳分の「法堂双龍図」が描かれている。栄西は、中国から茶を持ち帰り茶を普及した茶祖としても知られ、毎年四月には方丈で行われる「四頭茶礼」は禅院茶礼の古式を今に伝えている。京都市

 

東山と号する臨済宗建仁寺派の大本山で、栄西禅師の開創したわが国最初の禅刹として知られる。栄西はわが国へ初めて茶の実を移植し、また『喫茶養生記』を著した鎌倉時代の人で、早くから仏門に入り、天台を究め、2回も宋にわたって禅を学んだ。

建久2年(1191)に帰国し、九州で教義弘通につとめたが、叡山の衆徒の圧迫をうけ、『興禅護国論』を著して、禅宗の末法性・国家性を強調し、天台僧徒に対抗した。正治元年(1199)、鎌倉に下って寿福寺を建立し、鎌倉武士の信仰を得たが、将軍源頼家もまたふかく禅師に帰依し、建仁2年(1202)東山綾小路の河原の地に一宇を建立して、開山とした。造営にあたっては、佐々木定綱畠山重忠等がその工を助け、三年の歳月を費やし、元久2年(1205)に竣工した。これが当寺のおこりである。

土御門天皇は勅願寺とされ、年号によって建仁寺の号を下賜された。はじめ延暦寺との関係を顧慮して、叡山の末寺という形で止観院・真言院の二院をおき、天台・真言・禅3宗一致の寺として、妥協を図ったが、大覚禅師のときに至って、禅宗のみの寺にあらためた。爾来、武家の信仰をあつめ、室町時代に足利義満が五山制度を設けるや、当寺はその第3位となったが、中世の兵乱にしばしば兵火の厄にあった。天正年間(1573~92)、豊臣秀吉の信任を得た東福寺退耕庵の恵瓊によって復興されたが、仏殿は未だ再建に至らない。

伽藍は南を正面として南北一直線上に並び、その左右には多くの塔頭子院が並ぶ。

寺院 前回の記事 ➡ 寺院右0424 三寶寺 日蓮宗

塔頭   ➡  寺院東0190  禅居庵  イノシシ  摩利支尊天

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