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報恩寺  鳴虎の報恩寺といわれる、古い石橋、つかずの鐘、黒田長政  話題が多い

2015年10月16日 07時26分03秒 | 寺院

 

堯店山と号し、浄土宗知恩院派 江戸時代からの名刹。

享保・天明の大火に類焼し、本堂は未だ再建されていない。

皇室とのゆかりは深い

寺伝によると、もと法園寺といい、一条高倉付近にあったが、

文亀元年(1501)後柏原天皇の勅により報恩寺と改め、

浄土宗の寺となった。

 

 

 

門前の石橋は、慶長7年(1602)の刻銘がある。

京都市の古い石橋の1つに挙げられている。

 

天正13年(1585)豊臣秀吉の命により現在の地に移ったとつたえる

 

 稲荷神社

石鳥居は大正12年2月 建立

 

 

地蔵堂

 

 

 

客殿(方丈)に安置する本尊阿弥陀三尊像、

後柏原天皇御下賜の宝物など多数ある。

 

 

 

 

秀吉が聚楽第に住んだ頃、当時の寺の住職、

甫公秀吉のおじに当たるといわれ、

その縁か秀吉はたびたび寺を訪れていた。

寺には虎の図がある。細かい筆で毛の1本1本まで丹念に描かれていて、

1メートルほど離れて見ると、虎が画面から浮き上がって見える。

このことが気に入った秀吉は聚楽第に持ち帰った。

ところが夜になると何やらおろそしぃ物音がする。

どうしても寝付けぬ秀吉は

「これは虎が寺に帰りたがって鳴動しているのであろう」

と考え、さっそく虎の図を寺に返したという。

これが現存する「鳴虎の図」である。

四明陶佾の署名があり、宋から明の時代に中国で描かれたと推定される。

 

 

 

御陵だ

後西天皇皇女  賀陽宮墓

 

 

 

 

鐘楼

境内の鐘楼にかかる銅鐘は古い慣わしの方法にのっとって作られている。

 

 

 

寺の鐘(平安時代後期、重要文化財)には悲しい話が伝わっている。

西陣の織屋の織女と丁稚が、

毎夕仕事の終わりの合図となっていた寺の鐘が

「8つ鳴るか、9つ鳴るか」で言い争い、

負けた方はどんなことでもするとカケをする。

年かさの丁稚は寺男に今晩だけは8つにしてと頼みカケに勝つ。

さんざん悪口を言われた織女は、悔しさのあまり、

これをうらんだ織女は鐘楼で首をくくった。

それ以来、そこには織女の霊が現れるようになり、

また、その鐘を撞くと不吉なことが起こるようになったため、

朝夕に鐘を撞くのをやめて、大晦日の除夜の鐘だけ撞くことにした。

人はこれを「つかずの鐘」と呼び、織女の霊をなぐさめた。

 

境内墓地には

徳川家康の臣阿部正勝父子の墓、

秀吉の侍尼仁叔周孝尼の墓、

伏原・能楽の観世家の墓、

 

 

 

 黒田官兵衛の子、黒田長政はこの寺で

元和9年(1623)8月4日に56才で亡くなっている。

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