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寺院伏0409 念沸寺 浄土宗捨世派

2017年11月18日 19時02分08秒 | 寺院

 

多くの古仏を安置する

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五七五

残り香よ なぜか落ち着く父母の墓 /川中

ことわざ

肌に粟を生ず

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寺院伏0408 妙教寺 淀古城址 戊辰役東軍戦死者碑 木村久夫碑

2017年11月18日 09時31分58秒 | 寺院

 

納所集落の真ん中に法華宗の妙教寺がある。

日孝上人を開山とする法華宗真門流の寺。寛永3年(1626)、淀城主松平定綱が寺地を寄進し、淀城の守りとしたと伝える。

淀城の守りとなっていた。鳥羽伏見の戦いのさい大砲の弾痕が本堂の柱に残り、そのおり戦死した幕軍の碑が建てられている。この地は室町末期の元亀元年(1570~73)、三好長慶の臣、岩城左通が城をかまえた所といわれ、境内南の低地が深い溝となっているのは、そのときの壕堀の址と伝える。

 

史跡

淀古城址 此所は戦国時代の始め細川管領家が築城し薬師寺与一岩成左通 淀君らの居城となった淀古城の址である。

戊辰役砲弾貫通跡

慶應4年正月4日戊申役の際東軍砲弾が飛来し本堂を貫通したその弾痕がある。

 

 

木村久夫君は京都大学在学中学徒兵に○○れ終戦後シンガポールにて逃げ去った○○責任を負わされ無惨にも絞首刑と○○若い命を絶たれた時昭和21年5月22日28歳この歌は刑執行確定後の作である 木村君の遺書全文は「きけわだつみの声」に収録されている  必読

音もなく我より

去りしものなれど

書きて偲ひぬ

明日といふ

字を

木村久夫

 

 

戊辰之役東軍戦死者之碑

戦死者埋骨地三所一在下鳥羽村悲願寺墓地一

 納所村愛宕茶屋堤防一八番楳木

子爵榎本武揚書

明治40年 京都十七日会建

この碑は、慶応4(1868)年正月に勃発した鳥羽伏見戦の東軍(幕府側)戦死者の招魂碑である。

  明治40年に東軍戦死者四十年祭典が京都十七日会により挙行され,あわせて15基の碑が建立された。十七日会は徳川家康の命日である十七日(元和2年4月17日)にちなんだ,徳川家恩顧者の会である。

  碑はふたつのカテゴリーにわけて建立された。一は「戊辰之役東軍戦死者之碑」と刻んだ3基の招魂碑(この碑もそのひとつ)。一は「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と刻んだ12基の碑(墓石)である。それぞれのカテゴリー内の碑は同一形式で,刻まれた文字も表題部は同じ。招魂碑は榎本武揚書。

  3基の招魂碑に記された埋骨地碑は,伏見町悟真寺内招魂碑が同寺内2か所。納所村妙教寺内招魂碑が悲願寺墓地・愛宕茶屋・八番楳木。淀町長円寺相招魂碑が同寺内・光明寺墓地・大専寺・文相寺・東運寺・八幡番賀。

  上記の埋骨地碑を合計すると11基になるが,長円寺内には2基の埋骨地碑が現存するから,所在は10か所で碑は12基ということになる。招魂碑・埋骨地碑計15基は百年以上たった現在もすべて当初の建立地,あるいはその近辺に残存し,希有な例として注目できる。

  なお,この建碑事業の経緯は京都十七日会編『戊辰東軍戦死者四十年祭典及墓標建設報告書』(1907年同会刊)に詳しい。

 

平成29年11月6日撮影

 

妙見堂

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五七五

ただいまも言わずに落葉差し出しぬ /大川

ことわざ

畳の上の水練

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