ゑの巣

ここでは管理人個人の日々の妄言、妄想、創作などを世に晒しています。ごゆるりと。

国語は重要科目

2017年09月24日 23時18分46秒 | Weblog
正に秋といったこの季節、夕方くらいになると近所から夕飯のものであろう
良いにおいが漂ってきて、風情が色めく心地である。

しかしなぜ、この季節に近所の夕飯のにおいが際立つのか、他の季節は
それほどでもないという感覚なのに、ということで少し考えてみたら、この時期は
涼しくなった関係で多くの家が冷暖房のために部屋を閉め切らずに開け放っており、
ついでに良い風も吹き、それが通る上に空気が乾燥してきているのでそうなるので
あろうという具合に自己解決した。

思えば遠くの音もよく聞こえるようになるのもこの季節。随分離れた国道から
喧しいバイクの音が聞こえてきやがる。(風情が台無しだ)

話は大きく変わるが、小中高で国語の勉強を行う理由は結構な割合で『文脈や行間を
読む』能力を身に付けさせることのように思えてきた。
国語のテストで"このくだりにおける作者の考えを述べよ"という問いに対して、
"締め切り間近でしんどい"的な回答をするのはまさに模範的な誤答で、正しい回答を
するには出題者の意図まで忖度する(テストの文脈を読む)必要がある。

ある国語教師は国語の時間に学ぶことは一種の推理ゲームのようなものだ、と言って
いたが、それに類するもので、"まず読む""正しく読む""深く読む""穿って読む"
"多方面から読む"…といったとにかく読む術をあの手この手で叩き込むのが、
学校で習う国語の神髄ではなかろうか、と思った次第である。

ではなぜそんなに"読む力"を鍛えるのか、というと、世の中にある多くの文字情報が
恣意的に歪められていたり、断片的であったり、煙に巻こうとしたり、美味しそうな
言葉で大きく飾ったりと、とにかく騙す気満々で、ねじ曲がっていたり、変な味が
付けられていたり、悪意と作為に染まり切っているからであると考える。
仮に記者にその気がなくても、誰かが文字に起こした段階で人の手を経ていることに
なるから、宿命的に作為や何やらの不純物はどうしても入る。
事実だけをつぶさに記すにしても、事実を全部書き出すことは出来ないので取捨選択の
必要に迫られ、そこに作為が入る余地がある。
結局こちらに出来ることは、正しく読むという、これに尽きる。

情報社会と言われるようになって、文字情報に依存しない例も増えて来てはいるが、
文字情報の割合は依然大きい。そしてスマホやウェブという媒体や、扱う情報が増えた
都合上、物事を見出しだけで説明するかのような事例が殊更に増えた。
そして往々にしてそれらは、情報の内容を正しく伝えるには不十分だったり、恣意的に
過ぎる傾向がある。

少々穿って読むならば、そもそも情報を伝える側の立場からして、無味無色の事実など
金にならない(運営が立ち行かない)。ある方向に意見を誘導したり、悪質でない
程度に脚色する方が、出資者が喜ぶ(お金になる)。お金以上に重要なものとしては
情報を提供する立場としての『信用』があるが、基本的に事実と反してなかったり、
大きなポカをしでかさなければ、権威の方が勝るのでそうそう失われるものでもない。
本来信用など簡単に失われるもので、不思議な話なのだが、どういう訳かそうなっている。

つまり、基本的にタダでは教えないつもりと捉えてかかるのが妥当で、そのような
世の中で生きていくために、国語はしっかり勉強しなければならないという話。
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