長らく私にとって、N響のカオは徳永二男さんだった。ヘルメットが似合う現場監督のような面相のガテン系のあの方は、私にとっては最も色気を感じる男だった。
(Gacktさんは、別格)
ところが新しいコンサート・マスターが就任し、9年の歳月が経ってみるとN響の音が変わってきたような気もする。かって、徳永さんが座っていた席で今ヴァイオリンを奏で、その濃ゆ~~い存在感を元コンマスより更にパワーアップしたのが”まろ”である。
お公家さんのような風貌から”まろ”という愛称がつけられている篠崎史紀氏が、初めてのエッセイ集を刊行したので、早速試聴してみる。
8年間のウィーン留学時代の後に、1988年群馬交響楽団、91年読売日本交響楽団、そして弱冠34歳で97年にN響の第一コンサート・マスターに就任した篠崎氏にとって、理想のコンマスはウィーン・フィルのゲルハルト・ヘッツェル。コンマスを歴史的にみて、親分肌の大物タイプ、頭脳がきれるクレバータイプ、そして好きなのがなんだかよくわからないがすごいタイプと、3パターンに分析する篠崎氏にとって、ゲルハルト・ヘッツェルは誰よりも尊敬し、敬愛したコンマスだった。ウィーン・フィルに入団した時、ユーゴスラビア人出身ということで、この楽団にさもありがちなさまざま差別を受けたが、実力と人柄で克服したという。(そういえばこの方が亡くなった時、銀座の山の楽器のCD売り場に「ありがとう、ヘッツェル先生」という手書きのポップ広告とともにCDが並んでいたことを思い出した。)彼の姿、愛情のこもった言葉を今でも忘れないという。本書はそんな素人にはよくわからないコンマスというお仕事の格好の手引き書にもなっている。
たった一度だけの、ゲスト・コンサート・マスターを引き受けてから、今に至るこの仕事の魅力を、作曲家たちの仕事の到達点がシンフォニーとオペラにあるからだというイントロには、思わずうなづいてしまう。そして意外にも、コンマスの仕事を総務的と称し、オーケストラの主治医、指揮者と奏者をつなぐパイプ役、はたまた作曲家の設計図に従って音楽的な構築物をつくる現場監督という説に、他のオケのコンマスやコンミスとは異なる篠崎風の音色を私は感じる。コンマスという華やかなポジションの、奥の深さをも感じるといってもよい。このコンマスの仕事を語る部分は、なかなか集中して読ませる。
そしてマロの観たN響指揮者論、モーツァルト、ベートーベン、バッハ論、わが街ウィーンと続く。決して描写が巧みでもなく、文章表現がヴァイオリンほど多彩ではないのだが、かえってその言葉にはまろ氏の年々増えているような体重と同じくらいの重みと説得力がある。大いに盛り上がり、アンコール曲を弾いていたら時間になったからと突然電気が消された地方での演奏会、終了後のパーティで飲食する予算はあるのに、ヴィヴァルディの「四季」を演奏するチェンバロ奏者を予算の都合で省略されてしまった「音楽祭」。主催者と侃侃諤諤の抗議の結果、こうした二度と呼ばれないホールや音楽祭を増やしている篠崎氏のこだわりを、私はしごくもっともなことだと思う。彼は、体育館でもよい、予算の制限があってもよい、楽器が足りなくてもかまわない、創意工夫で主催者側も演奏者もお客さんに楽しんでもらう演奏会を開くことに、音楽家としての使命を感じているのだ。
「演奏会は楽しむもの」
観客も、オケの奏者と指揮者、ソリスト、事務所、すべてハッピイでなければコンサートが楽しめないと、コンマスとして日々配慮する篠崎氏に、この音楽家としての行動は一致する。そうだった、篠崎氏は九州男児だったのだ。
篠崎史紀氏は、北九州出身のヴァイオリニストだったら知らない者はいない教育者である篠崎永育(しのざき・えいすけ)氏の長男として生まれる。1歳11ヶ月にして初めて1/16のヴァイオリンを構える。これに気をよくして、ぞうきん、スリッパ、スイカでも手当たり次第にあごにはさんで喜んでいたそうだ。レッスンを始めたのは3歳からで、両親の拍手がないと練習がはじまらなかった。けれども一度も練習が苦にならなかったというから、やはり小さな頃から才能があったのだろう。大きくなったら地球防衛軍のウルトラ警備隊になるのが夢だったまろ少年は、21歳の誕生日をウィーンで迎え、一生付き合っていけるものとしてクラシック音楽を意識し、街頭パフォーマンスをした時の演奏を心から受け入れられた体験から、その姿が今日まで続いている。
以前N響アワーで披露していたのだが、燕尾服に隠されたYシャツの袖が、エミリオ・プッチのようにど派手だった。(このYシャツの反響は大きかったらしい。)岩城氏が亡くなった後、最もダンディな音楽家かもしれない。最後に、演奏会に観客として来ていらした篠崎氏のお姿は、イタリアン・マフィアそのものの”迫力”があったことをつけ加えたい。
*「ルフトパウゼ」とは、ドイツ語で「空気の休符」。
このタイトルの意味が、本書のすべてを語っているかもしれない。
■著者来店
(Gacktさんは、別格)
ところが新しいコンサート・マスターが就任し、9年の歳月が経ってみるとN響の音が変わってきたような気もする。かって、徳永さんが座っていた席で今ヴァイオリンを奏で、その濃ゆ~~い存在感を元コンマスより更にパワーアップしたのが”まろ”である。
お公家さんのような風貌から”まろ”という愛称がつけられている篠崎史紀氏が、初めてのエッセイ集を刊行したので、早速試聴してみる。
8年間のウィーン留学時代の後に、1988年群馬交響楽団、91年読売日本交響楽団、そして弱冠34歳で97年にN響の第一コンサート・マスターに就任した篠崎氏にとって、理想のコンマスはウィーン・フィルのゲルハルト・ヘッツェル。コンマスを歴史的にみて、親分肌の大物タイプ、頭脳がきれるクレバータイプ、そして好きなのがなんだかよくわからないがすごいタイプと、3パターンに分析する篠崎氏にとって、ゲルハルト・ヘッツェルは誰よりも尊敬し、敬愛したコンマスだった。ウィーン・フィルに入団した時、ユーゴスラビア人出身ということで、この楽団にさもありがちなさまざま差別を受けたが、実力と人柄で克服したという。(そういえばこの方が亡くなった時、銀座の山の楽器のCD売り場に「ありがとう、ヘッツェル先生」という手書きのポップ広告とともにCDが並んでいたことを思い出した。)彼の姿、愛情のこもった言葉を今でも忘れないという。本書はそんな素人にはよくわからないコンマスというお仕事の格好の手引き書にもなっている。
たった一度だけの、ゲスト・コンサート・マスターを引き受けてから、今に至るこの仕事の魅力を、作曲家たちの仕事の到達点がシンフォニーとオペラにあるからだというイントロには、思わずうなづいてしまう。そして意外にも、コンマスの仕事を総務的と称し、オーケストラの主治医、指揮者と奏者をつなぐパイプ役、はたまた作曲家の設計図に従って音楽的な構築物をつくる現場監督という説に、他のオケのコンマスやコンミスとは異なる篠崎風の音色を私は感じる。コンマスという華やかなポジションの、奥の深さをも感じるといってもよい。このコンマスの仕事を語る部分は、なかなか集中して読ませる。
そしてマロの観たN響指揮者論、モーツァルト、ベートーベン、バッハ論、わが街ウィーンと続く。決して描写が巧みでもなく、文章表現がヴァイオリンほど多彩ではないのだが、かえってその言葉にはまろ氏の年々増えているような体重と同じくらいの重みと説得力がある。大いに盛り上がり、アンコール曲を弾いていたら時間になったからと突然電気が消された地方での演奏会、終了後のパーティで飲食する予算はあるのに、ヴィヴァルディの「四季」を演奏するチェンバロ奏者を予算の都合で省略されてしまった「音楽祭」。主催者と侃侃諤諤の抗議の結果、こうした二度と呼ばれないホールや音楽祭を増やしている篠崎氏のこだわりを、私はしごくもっともなことだと思う。彼は、体育館でもよい、予算の制限があってもよい、楽器が足りなくてもかまわない、創意工夫で主催者側も演奏者もお客さんに楽しんでもらう演奏会を開くことに、音楽家としての使命を感じているのだ。
「演奏会は楽しむもの」
観客も、オケの奏者と指揮者、ソリスト、事務所、すべてハッピイでなければコンサートが楽しめないと、コンマスとして日々配慮する篠崎氏に、この音楽家としての行動は一致する。そうだった、篠崎氏は九州男児だったのだ。
篠崎史紀氏は、北九州出身のヴァイオリニストだったら知らない者はいない教育者である篠崎永育(しのざき・えいすけ)氏の長男として生まれる。1歳11ヶ月にして初めて1/16のヴァイオリンを構える。これに気をよくして、ぞうきん、スリッパ、スイカでも手当たり次第にあごにはさんで喜んでいたそうだ。レッスンを始めたのは3歳からで、両親の拍手がないと練習がはじまらなかった。けれども一度も練習が苦にならなかったというから、やはり小さな頃から才能があったのだろう。大きくなったら地球防衛軍のウルトラ警備隊になるのが夢だったまろ少年は、21歳の誕生日をウィーンで迎え、一生付き合っていけるものとしてクラシック音楽を意識し、街頭パフォーマンスをした時の演奏を心から受け入れられた体験から、その姿が今日まで続いている。
以前N響アワーで披露していたのだが、燕尾服に隠されたYシャツの袖が、エミリオ・プッチのようにど派手だった。(このYシャツの反響は大きかったらしい。)岩城氏が亡くなった後、最もダンディな音楽家かもしれない。最後に、演奏会に観客として来ていらした篠崎氏のお姿は、イタリアン・マフィアそのものの”迫力”があったことをつけ加えたい。
*「ルフトパウゼ」とは、ドイツ語で「空気の休符」。
このタイトルの意味が、本書のすべてを語っているかもしれない。
■著者来店
あの頃からあの風貌?でウィーンの空気には似合っていないなあ、という感じでした。もう生まれながらに「コンマス」の「華」を持っていらしたのですよね。でもどうも「なんでN響なの?」といつも感じてしまいます・・・。
emiさんのウィーン留学時代と重なっていましたか。(もっとウィーン時代のお話をブログでアップしてください。←かってなお願いで恐縮ですが)
>日本人留学生のあいだで有名な方
その理由は
①あの風貌ゆえか
②ご本人曰く”変わった”(性格の)ヴァイオリン弾きなのか
③お父上のネームバリューなのか
④イタリアン・マフィアのようなりっぱな存在感なのか
⑤素晴らしい音楽的な才能なのか
・・・と想像をふくらませております。(笑)
>なんでN響なの?
①テレビでたくさん放映されるから(何しろウルトラマンになる予定の人でしたからね)
②海外での知名度の高さ
③一番お給料がよいから・・・←という理由ではなさそうですが
確かに、華はありますよね。
「ルフトパウゼ・・・」、いい言葉ですね。
私は、ワルターがウィーンフィルを振ったモーツァルトの25番の演奏をすぐに思い浮かべてしまいます。高名な評論家のコメントに刺激されたせいもありますが(笑)
それから徳永二男さん、かっこよかったですね。昔スズキメソッドでしたでしょうか、子供達が大勢出演している中で、彼がソロを弾いている映像を観たことがありますが、やはり子供時代から抜群に上手かったです。
そしてN響のコンマス時代に、そっくりの容貌のお兄さん(故兼一郎さん)と指揮台を挟んで向かい合ってる姿は、今もしっかり覚えています。
ちょっと懐かしい感じの話になってしまいました。
お父上のことなど、知りませんでした。でも実際にお話したこともなく、ソロも聴いたことないので、あくまで、「噂話」からの「イメージ」です。そのイメージから、N響に結びつかなかった私です。
その後日本でお見かけしたとき(どこにいらしてもすぐわかる)にご一緒だった奥様がまた、予想外に小柄で地味な方だったので、いつもなぜか驚かされる方です(笑)
音楽は外見ではないのでしょう・・・。
徳永さんは主人がいろいろ楽しいお話を知っているのですが、とてもとてもここにアップできないのでが、残念です。(笑)でもヴァイオリンは超うまいですよね。 「でも」ってなんか失言かなあ・・・。では おやすみなさい。
>「ルフトパウゼ・・・」、いい言葉ですね
演奏においても、この「ルフトパウゼ」は音楽的なセンスを問われる重要さがあると思います。
>ワルターがウィーンフィルを振ったモーツァルトの25番の演奏
romaniさまの音楽コレクションに貢献した高名な評論家のコメントも、なんとなくそんなところかなと考えております。
篠崎さんは、著書でウィンナー・ワルツのリズムはその国で暮らさないと身につかないとおっしゃています。8年間でのウィーン生活で身につけたセンスが、宝になっているのでしょうね。
>それから徳永二男さん、かっこよかったですね
ですよね~!!男っぽいです。おそらくコンマスとしては、みんなをひっぱていく親分肌だったのでは。
今でも時々N響アワーの録画でお姿を拝見しているので、私にとってはやっぱりまだまだN響のカオです。お兄様のお元気な頃のCDももっています。
いえいえ、失言ではないですよ。ガテン系のあの顔自体、クラシックのヴァイオリニストという職業とミスマッチですからね。(笑)
だから、東京都響の矢部さんよりもずっとずっとお気に入りです。本音を言ってしまえば、Gacktさんと出会う前はどんな美青年よりも徳永さんが好きでした。(爆)
>どこにいらしてもすぐわかる
はじめてお見かけした時は、全身黒ずくめの服装と中身の体積の存在感に圧倒されました。でも音楽家にとって、めだつということも悪くないですからね。
>小柄で地味な方だったので
そうそう、けっこうそういうことってありますよ。
最後に、徳永さんのCD(ゴールド・コンサート)のバッハ、パルティータ3番は、私の中ではあらゆるバッハの中で最高です。惚れたのは、顔だけではない。。。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000064CW8/qid=1150814832/sr=1-12/ref=sr_1_0_12/503-7582339-7063122