君たちは、どう生きるか。そう問われても、ここまでこう生きてしまった・・・としか言いようがないくらいの年齢にきてしまった私だが、それにも関わらず、深い感銘を受け何度も何度も感動した。こんなにすぐれた本があったのだ。
「コペル君は、中学ニ年生です。ほんとうの名は本田潤一、コペル君というのはあだ名です」
こんな書き出しではじまるように、著者の吉野源三郎は主人公を青年の入口に立とうとする少年に設定して、若い、未来を担う世代に向けて本書を書いたのである。それには、理由がある。本書の出版は1937年。この年、盧溝橋事件がおこり、以後、8年間に渡り日中の戦争がはじまった年でもある。欧州では、ヒットラーやムッソリーニが政権をとり、日本も軍国主義が勃興し、一気に言論や出版の自由がなくなり、労働運動や社会主義運動が激しい弾圧を受けた時代でもあった。そんな時代の空気の中で、山本有三は荒れ狂うファシズムから、ヒューマニズムの精神を守るために、次世代を担う少年少女に希望を託して1935年から『日本少国民文庫』を刊行し、全16巻のうち最後に配本されたのが「君たちは、どう生きるか」だったのだ。その頃の日本でも、ヒットラーを英雄として賛美された軍国主義の嵐の中、弾圧に押しつぶされそうになりながらも、先見の明を開いた事実に、日本人としてあかるい感慨するわいてくる。
コペル君は銀行員だったお父さんを亡くし、お母さんと暮らすひとりっ子。成績は良いのだが、身体が小さいのが悩み。そんなコペル君をそっとささえてくれるのが、お母さんの弟、大学を出たばかりの法学士の叔父さんだった。コペル君は、資産家の家庭に育ち物静かで美形の水谷君、正義を通す負けん気の強い北見君、貧しい豆腐屋の息子で家業を手伝いながら勉強している浦川君といった友人に恵まれ、彼らとの友情を通して、また、勇気がなくてそんな友達を裏切ってしまったことも経験するコペル君の精神的成長物語となっている。
本書の特徴として、叔父さんがお父さんを亡くしているコペル君のために綴った「ノート」が物語の途中に挟まっている。コペルニクスの地動説、ニュートンの万有引力からガンダーラまで優しく書かれた文章に、この叔父さんの深い教養に代表されるような昔の知識人の厚みに目がくらみそうだ。この叔父さんは、20歳そこそこなのだが、なんと人として成熟しているのだろう。と、読んでいるうちに、叔父さんどころかもっと年上の私ですら、いつのまにかコペル君の立場でコペル君たちにすっかり同化して読んでいることに気がつく。本書のすごさはここである。あの天下の丸山真男ですら、出版された年に大学を卒業して法学部の助手となり、研究者としてスタートしたまさに”叔父さん”世代なのだが、「しかも自分ではいっぱしにオトナになったつもりでいた私の魂をゆるがしたのは、自分とほぼ同年輩らしい「おじさん」と自分を同格化したしたからではなく、むしろ、「おじさん」によって、人間と社会への眼をはじめて開かれるコペル君の立場に自分を置くことを通じてでした。何という精神的未熟さか、と笑われても仕方がありません。当時私はどちらかというと、ませた青年だ、と自分で思いこんでいましたから一層滑稽なのです」
と感想を述べている。少年少女対象の平易なことばで書かれた本だが、いくつになっても、おりにふれ、再読したい名作だ。つまり、永遠に手離せなくなってしまう本なのだ。最後のコペル君がノートに綴った真摯な文章は、誰の心にも、美しく、清々しく、響くだろう。現代でもそっくりそのままあてはまる。その意味でも、社会科学的なものの見方の基本を考えさせられる。
先日のセンター試験も終わり、いよいよ本格的な受験シーズンがはじまった。新しい学校への入学は新しい人生のはじまりでもある。
新しい学校に進学し、学ぼうとする君たちへ。
寒風にかたかた鳴る窓ガラス、新雪にまぶしいくらいの校庭、若い芽が伸びてくる匂い、自らの五感をぴんと澄ませて、コペル君と一緒に読んでほしい。そして、どうか考えて欲しい、未来ある君たちへ。
「君たちは、どう生きるか」











コメント&TBをありがとうございます。
こんな名著があったなんて、本当に私は最近まで知らなかったのです。
ませた”乙女”?と自分で思いこんでいましたから一層滑稽なのです。
どうも1937年に出版されてから、空白の期間があったようです。岩波書店で復刊して、よかった!
私が購入したのは、65版発行だったかな?本書の人気の高さがうかがえます。