日本人は「第九」が好きである。
本物の音楽を聴いたことがなくても、音楽家ベートーヴェンの偉業を知らなくても、あのフレーズは大方の日本人の心に何がしかの高揚感をそそるものである。私はこれまで、突如、声をはりあげて「おお、友よ、この調べではない!」と否定形で入るところなど、革新性よりも構成が美しくないと感じていたのだが、やはり一年の集大成をするのは「第九」と、年末になるとこの曲を無性に聴きたくなる。指揮者の下野竜也さんによると作品の成立や構成など、楽曲分析を論文にするとまるまる1冊の本になるそうだ。ま、そうだろう。しかし、楽曲分析は専門家の棒をふったり演奏する方たちにまかせて、全人類に門戸が開かれているこの曲は、聴く立場としてはおおいに楽しめばよいのだが、もう少し知りたい「第九」のこと。音楽評論家の武川寛海さんの本書は、「第九」の成立ちから、指揮者たちから敬遠された後の真価を認められて復活、そして日本での初演など、音楽的な専門知識を除いた”すべて”がつまっているテキストである。
そもそも、シラーの「歓喜に寄す」は、シラー26歳の時に招かれたドレスデンで宗教評議員をしていたクリスティンアン・ゴットフリート・ケルナー家でのパーティで、乾杯の音頭をとった時にシラーが、ケルナー夫人のワイングラスを粉砕したという椿事からはじまる。若く、気負いたっぷりのダルビッシュのように大リーグ選手になろうかというようなシラーが、とっさにギリシャの習慣にならってワインを大地に捧げようと提案し、この長大な「歓喜に寄す」(渡辺和さんによると思想表現のパッチワーク!)が創作された。創られた経緯からもシラー本人はあまり気に入っていなかったが、シラー大好きなベートベーンはこの詩に曲をつけることが20年以上も念頭から離れず、原詩を解体して強引に自分のものにして作曲したのが1824年。長い歳月はかかったが、大傑作である。
1824年5月7日、ウィーンでの初演は貴賓席をのぞいて満席。自ら指揮をしたベートベーンは難聴がすすみ、大喝采が届かない。そのため、アルトの独唱をしたウンガーが巨匠の肩を押さえて聴衆の方に振り返させ、観客はハンカチを振って感動を伝えたという有名なエピソードが残っている。が、やはり演奏時間も長く、難しかったため、この曲は次第に敬遠されて消えていこうとしていた。メンデルスゾーンが全曲をピアノ曲で演奏したという記録もあるが、それも成功したわけではないようだ。
再び復活さえたのは、ワーグナーだった。やはり天才は天才を知るか。「第九」の論文を書いて研究しきっかけをつくり、実際に普及させたのが、あのコジマの元夫のハンス・フォン・ビューロだった。このふたりの因縁となると、さすがに武川さんの筆の運びもすべりがちで、ついつい「第九」の領域からはみだしていくのだが・・・。そして少しずつ世間に認知されていく「第九」。
ところで、今日的にも興味深かったのが、功績の大きかったビューロの対抗馬として登壇してきた新人フェリックス・フォン・ワインガルトナーだ。彼は、鏡の前で身振りを研究して役としぐさを結びつけて全ヨーロッパの流行指揮者になっていった。すらりと格好のよい指揮者は、オーケストラの前で美しい社交家であり、ドイツを別にして観客もその外見を求めたのだった。一般大衆というのは、「間接的に音楽の心に導かれたいと願うもの」と言った武川さんの表現は、現代でもあてはまる。そんなワインガルトナーのライバルとして人気をさらったのが、マーラー。「第九」を中心に19世紀後半の指揮者列伝も、なかなか読ませてくれる。
ちなみに日本での初演は1918年、徳島県にあった板東俘虜収容所で、ドイツ兵捕虜による演奏である。これは映画『バルトの楽園』として映画化にもなっている。本書が出版された昭和61年には「第九」の演奏回数は170回。およそ2日に一回、日本のどこかでFreudeと歓喜の歌が歌われていたのである。年末の恒例行事をこえて、日本人にこの曲がしっくり同化しているのであろう。それにしてもバブルの頃に比較して演奏会自体が減っているとも感じるのは、実に寂しい。
ところで、当時、ベートーヴェンがこの曲で稼いだ金額はいくらでしょうか?
回答は⇒現在の貨幣価値(昭和61年)で換算すると、14,174,080円になったそうです。
■アンコール
・読響「第九」コンサート
本物の音楽を聴いたことがなくても、音楽家ベートーヴェンの偉業を知らなくても、あのフレーズは大方の日本人の心に何がしかの高揚感をそそるものである。私はこれまで、突如、声をはりあげて「おお、友よ、この調べではない!」と否定形で入るところなど、革新性よりも構成が美しくないと感じていたのだが、やはり一年の集大成をするのは「第九」と、年末になるとこの曲を無性に聴きたくなる。指揮者の下野竜也さんによると作品の成立や構成など、楽曲分析を論文にするとまるまる1冊の本になるそうだ。ま、そうだろう。しかし、楽曲分析は専門家の棒をふったり演奏する方たちにまかせて、全人類に門戸が開かれているこの曲は、聴く立場としてはおおいに楽しめばよいのだが、もう少し知りたい「第九」のこと。音楽評論家の武川寛海さんの本書は、「第九」の成立ちから、指揮者たちから敬遠された後の真価を認められて復活、そして日本での初演など、音楽的な専門知識を除いた”すべて”がつまっているテキストである。
そもそも、シラーの「歓喜に寄す」は、シラー26歳の時に招かれたドレスデンで宗教評議員をしていたクリスティンアン・ゴットフリート・ケルナー家でのパーティで、乾杯の音頭をとった時にシラーが、ケルナー夫人のワイングラスを粉砕したという椿事からはじまる。若く、気負いたっぷりのダルビッシュのように大リーグ選手になろうかというようなシラーが、とっさにギリシャの習慣にならってワインを大地に捧げようと提案し、この長大な「歓喜に寄す」(渡辺和さんによると思想表現のパッチワーク!)が創作された。創られた経緯からもシラー本人はあまり気に入っていなかったが、シラー大好きなベートベーンはこの詩に曲をつけることが20年以上も念頭から離れず、原詩を解体して強引に自分のものにして作曲したのが1824年。長い歳月はかかったが、大傑作である。
1824年5月7日、ウィーンでの初演は貴賓席をのぞいて満席。自ら指揮をしたベートベーンは難聴がすすみ、大喝采が届かない。そのため、アルトの独唱をしたウンガーが巨匠の肩を押さえて聴衆の方に振り返させ、観客はハンカチを振って感動を伝えたという有名なエピソードが残っている。が、やはり演奏時間も長く、難しかったため、この曲は次第に敬遠されて消えていこうとしていた。メンデルスゾーンが全曲をピアノ曲で演奏したという記録もあるが、それも成功したわけではないようだ。
再び復活さえたのは、ワーグナーだった。やはり天才は天才を知るか。「第九」の論文を書いて研究しきっかけをつくり、実際に普及させたのが、あのコジマの元夫のハンス・フォン・ビューロだった。このふたりの因縁となると、さすがに武川さんの筆の運びもすべりがちで、ついつい「第九」の領域からはみだしていくのだが・・・。そして少しずつ世間に認知されていく「第九」。
ところで、今日的にも興味深かったのが、功績の大きかったビューロの対抗馬として登壇してきた新人フェリックス・フォン・ワインガルトナーだ。彼は、鏡の前で身振りを研究して役としぐさを結びつけて全ヨーロッパの流行指揮者になっていった。すらりと格好のよい指揮者は、オーケストラの前で美しい社交家であり、ドイツを別にして観客もその外見を求めたのだった。一般大衆というのは、「間接的に音楽の心に導かれたいと願うもの」と言った武川さんの表現は、現代でもあてはまる。そんなワインガルトナーのライバルとして人気をさらったのが、マーラー。「第九」を中心に19世紀後半の指揮者列伝も、なかなか読ませてくれる。
ちなみに日本での初演は1918年、徳島県にあった板東俘虜収容所で、ドイツ兵捕虜による演奏である。これは映画『バルトの楽園』として映画化にもなっている。本書が出版された昭和61年には「第九」の演奏回数は170回。およそ2日に一回、日本のどこかでFreudeと歓喜の歌が歌われていたのである。年末の恒例行事をこえて、日本人にこの曲がしっくり同化しているのであろう。それにしてもバブルの頃に比較して演奏会自体が減っているとも感じるのは、実に寂しい。
ところで、当時、ベートーヴェンがこの曲で稼いだ金額はいくらでしょうか?
回答は⇒現在の貨幣価値(昭和61年)で換算すると、14,174,080円になったそうです。
■アンコール
・読響「第九」コンサート










