千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「友情」 -君が友を誇りに思えるように  西部邁著

2005-06-15 00:03:37 | Book
「私」の親友が自殺した。
この物語はそこからはじまり、何故親友、海野が自殺することになったのか、という自伝的長編評論である。「評論である」と形式を選択してはいるが、作者の親友であるひとりの男の物語を友の情けをもって記した「純文学」として私は読みたい。

運動神経抜群で、歌も上手、読書家で勉学もできて弁がたつ、そんな海野が、もしもあの時という過ぎた仮定をおいたら、北大に進学して弁護士になっていたかもしれない。そんな彼が何故、高校を中退して、やくざの世界に身をおくようになったのか。小学校もろくに通えず、「私」が海野に出会い、お互い殴りあって交流の始まった中学2年のときは、すでに彼の家庭は崩壊、というよりも存在していなかった。中学時代は制服もなく、女もののカーデガンとハイヒールで登校し、昼食時は教室から消えるしかなかった海野。そんな彼が、高校入試統一試験で道内一番になった「私」が進学した最上位の名門札幌南高校で、寄付で用意した制服を着て座っていた。クラスで「私」が一番、彼は二番。「私」が彼にラーメンを驕り、週の後半はふたりで昼ぬきの生活。そんな必死で勉強し生きていた海野が、何故それからヒロポン中毒になり、そして45年後には自殺しなければならなかったのか。

このひとりの男を語るには、戦後の北海道という時代と土地が重要である。
その後、「私」は東京大学に進学し、学生運動に身を投じて裁判の被告人になった。大学院に進み、ようやく国立大学で教鞭をとり、東大に栄転しながらも人事問題でやっかいごとと闘い、評論家に転身した知識人としての「私」と海野は、起点を当時の札幌におきながらも、鏡のような面もある。そこに友情というみえないつながりが、ひきあうのだ。そしてけっしてやくざという任侠の世界を、美化しても浄化してもいない。

半面、作者自身の自伝的色合いの濃いこの作品は、あえて飾った言い回し、整然とした文章をさけているかのような文体が続く。そこに作家の意図があるのか、無作為な語りごととしての結果なのか。「私」の乾いた文章が続く。けれども、作者のこの見事な作品を世に送った真意が、「あなた方の夫であり父だった友が、最も感動に値する人物のひとりだ」ということばに、深く感動する。
読みながら、いくども胸がはりさけそうになり、その度にこの現象が単なる友人に対する同情なのかととまりながらも、やはり彼への大いなる感動が私を泣かせたのだ。

まるでおしゃれなインテリアを眺めるような空虚な物語で、人気女流作家が直木賞をとれる平和で”豊かな”時代である。しかし私には、そのような感性を美しく磨くための小説は必要ない。美意識は、たとえば三島由紀夫のような作家の本物の小説やヴェルレーヌの詩、音楽、美術から育まれてきたと思う。
最後に「私」は海野が歩いてきた足跡を妻とたどる旅に出るが、すっかり足跡は消えてしまっていた。やがて「私」の育った札幌も消えるのだろう。それは私自身とて同じことである。ならば、扉の「二人のK子さんに。」というつつましやかな願いに、海野の淡いかすかな光りが超然と放つ。

まるで蕎麦やの壁に飾られそうな格言に感動する純真なGacktさんにこそ、この本を薦めたい。

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