NHKのアーカイブという特集で1972年3月17日放送の「ドキュメンタリー 似島の怒り」という番組が、先日再放送された。冒頭のほんの数分を観ただけでまばたきもできないくらいの集中力に、とうとうビデオを撮って翌日じっくり観た。初期の映画「ゴジラ」を思い出させる音楽とナレーションに、遠い昔のこと、風化されたことと冷静になってもよいのに、淡々と語られるアナウンサーの声、粒子のおおまかな映像に深い哀しみをおぼえた。
今から34年前、広島から4キロ先の小さな島、似島(にのしま)の気持ちの良い秋晴れの光りがさす中学校の校庭で、白骨死体が次々と出てきたのである。原爆犠牲者の遺体が埋められたままになっているという島民の証言どおり、墓地もなく火葬もされなかった617体の遺体が収容された。戦前、似島には軍隊の検疫所があり、外地帰りの兵士が病原菌を持ち込まないよう消毒をおこなっていたが、8月6日のあの日から、被爆者の人々の臨時の”野戦病院兼死体収容所”として地獄のような光景がはじまった。わずか20日間で1万人もの被爆者が運ばれたのである。
カメラは発掘されたたくさんの土色の骸骨を映し、その後行方不明者の消息を探す、平和記念館で展示された遺品を熱心に見る家族の姿も紹介する。結局長い旅路の果てに遺骨がようやく家族のもとに帰ったのは、たった6体だった。遺品にあった、学生ボタン、中学生の定期入れ、学生ズボンのベルトのいかにも若々しいデザインのバックルが、改めて実に多くの一般市民を無差別に一瞬のうちに燃やした原爆の、未曾有の恐ろしさに怒りをうきあがらせる。
あの日、中学校に登校したまま行方不明になった息子の形見を遺品から探す老人の、痩せて落ちた肩と波にさらされたかのような表情に、当時の戦後26年という長い歳月が重くのしかかる。
無縁仏となった遺体は、平和記念公園の原爆供養塔の地下に今でも眠っている。その数、7万。この7万という数字の意味するところに、人としての尊厳のかけらもない。
今さら、戦争の悲惨さや残酷さを訴えても意味がない。そんなことはわかりきっている。けれども、真っ白な運動着を着て、元気よくスポーツをして笑う似島中学の生徒たちが走るグランドに、かって同じような年齢で被爆して苦しみながら息絶えて果てた遺骨があったのである。戦争中とはいいながら、家族に囲まれ、将来の夢をもって勉強していたこどもたち、買物をしていた母と子、働く人々、なんの罪もない市民が、戦争という国家間の紛争によって、この地で無念の死を迎えたのである。
何度も広島には行ったことがあるが、原爆ドームを見るたびにこの街では戦争は終わっていないと感じる。
憲法第9条の改正案もとりざたされている昨今、”戦争を知らない子どもたち”という言葉さえ遠くに聞こえる世代の自分ではあるが、世界で唯一の被爆国である日本に生まれたことの意味をもう一度考えてみたい。
今から34年前、広島から4キロ先の小さな島、似島(にのしま)の気持ちの良い秋晴れの光りがさす中学校の校庭で、白骨死体が次々と出てきたのである。原爆犠牲者の遺体が埋められたままになっているという島民の証言どおり、墓地もなく火葬もされなかった617体の遺体が収容された。戦前、似島には軍隊の検疫所があり、外地帰りの兵士が病原菌を持ち込まないよう消毒をおこなっていたが、8月6日のあの日から、被爆者の人々の臨時の”野戦病院兼死体収容所”として地獄のような光景がはじまった。わずか20日間で1万人もの被爆者が運ばれたのである。
カメラは発掘されたたくさんの土色の骸骨を映し、その後行方不明者の消息を探す、平和記念館で展示された遺品を熱心に見る家族の姿も紹介する。結局長い旅路の果てに遺骨がようやく家族のもとに帰ったのは、たった6体だった。遺品にあった、学生ボタン、中学生の定期入れ、学生ズボンのベルトのいかにも若々しいデザインのバックルが、改めて実に多くの一般市民を無差別に一瞬のうちに燃やした原爆の、未曾有の恐ろしさに怒りをうきあがらせる。
あの日、中学校に登校したまま行方不明になった息子の形見を遺品から探す老人の、痩せて落ちた肩と波にさらされたかのような表情に、当時の戦後26年という長い歳月が重くのしかかる。
無縁仏となった遺体は、平和記念公園の原爆供養塔の地下に今でも眠っている。その数、7万。この7万という数字の意味するところに、人としての尊厳のかけらもない。
今さら、戦争の悲惨さや残酷さを訴えても意味がない。そんなことはわかりきっている。けれども、真っ白な運動着を着て、元気よくスポーツをして笑う似島中学の生徒たちが走るグランドに、かって同じような年齢で被爆して苦しみながら息絶えて果てた遺骨があったのである。戦争中とはいいながら、家族に囲まれ、将来の夢をもって勉強していたこどもたち、買物をしていた母と子、働く人々、なんの罪もない市民が、戦争という国家間の紛争によって、この地で無念の死を迎えたのである。
何度も広島には行ったことがあるが、原爆ドームを見るたびにこの街では戦争は終わっていないと感じる。
憲法第9条の改正案もとりざたされている昨今、”戦争を知らない子どもたち”という言葉さえ遠くに聞こえる世代の自分ではあるが、世界で唯一の被爆国である日本に生まれたことの意味をもう一度考えてみたい。
生憎その番組は見ていませんが,樹衣子さんの文章を読むだけでも 何とも切ない 哀しい気持ちになります....
私の母は昭和18年生まれで,幼い時は福島の山の方に住んで居たそうです.西の夜空が明るくなったのを見た記憶があり,「今思えば終戦の頃で,もしかしたら東京空襲の時の事かも知れない」と話してくれた事があります.
また 祖父のアルバムが我が家にはあり,祖父が出兵する時に多くの人達と写した集合写真も見た事があります.
でも,私には戦争をリアルに考える事は出来ません.「遠い昔の歴史の一つ」くらいにしか.
しかし 少し前に,印象深い言葉がありました.
日曜の朝の番組に「政界の暴れん坊ハマコーさん」が急遽出演されていました.郵政民営化問題で自民党執行部とその他の面々が夜中まで話し合いを行い,そこへハマコーさんが一言物申した後の頃です.
司会者や他のコメンテーターがこぞってその事について聞いた後,話は北朝鮮問題に移りました.「どうして経済制裁などの強行手段に出ないのか?」などの質問が沢山飛び交う中
「日本には軍事力,兵器が無い.それは憲法9条にも明記されている事で,それが悪い事では無い.でも軍事力が無いと言う事は脅し(強行手段)が利かない.逆に脅されたら対抗出来無い.だからどんな事を言われようと,忍耐に忍耐を重ねて今までずっと(自民党?首相?日本?は)説得と言う形で,根気強く外交をして来たんだ」
語句の一語一句は違うと思いますが,このような事をかなり熱く語られていらっしゃいました.
話がズレた感がありますが,現在の問題を考える上ではどうやっても,「戦争」と言う出来事は無視しては通れないのだなと思った出来事でした.
けれども、わずか29分のドキュメンタリー番組の淡々とした事実報道からうける重さは、予想外でした。それだけ、戦争と原爆投下がどれだけすさまじかったかということです。
一部画像をブログで紹介するのははばかれるために、リンク先をはりませんでしたが、番組内容をご参照ください。
http://www.nhk.or.jp/archives/fr_back.htm
暴れん坊ハマコーさんは、政治家としての好ましい品はありませんが、よいことをおっしゃいます。
憲法9条に関しては、政権をつかさどってきた現実的な与党と、理想論で考える共産党とでは意見が違います。A新聞とY新聞とでも。市民は現実派は改正、観念的な理想派は護憲と、それぞれの性格で別れると思います。
S・ハンチントンの予言があたった文明の衝突が今後の戦争への火種。他国でのテロや戦争も、物資、人、おおくの点で日本も関わらざるをえない現代ですから、「戦争」という出来事は避けて通れないですね。
原爆ドームへも何度か訪れたことはありますが,被爆の象徴としてあまりにも有名になりすぎていて、逆に被爆当時の姿がわかりにくくなっているような気がしていました。似島は旧日本軍の検疫所として発展ていたのが,突然被爆者の治療所として使用されることになって極度の混乱を起こしたのだろうというのは想像できます。しかしマスメディアがそのことを伝えることはあまりありません。
おそらく一度訪れただけでは似島はわからないのでしょう。僕はもっと深く島のことを知りたいと思っています。でも今回の旅では時間がなさすぎました。時間をおいてまた似島へ行きます。その時にはまた僕のサイトへアップするつもりです。
偶然つけた番組だったのですが、非常に重要な事実を伝えるNHKならではの内容だったと思います。あの時の被爆者の消息を捜し求めている方達も、すでに他界されている方も少なくはないでしょう。それを考えると戦跡、時代の検証も遠く去りつつあるのかもしれません。
私も原爆ドームも訪れたことがあります。”象徴”から感じるものは、人それぞれかもしれませんが、若い学生が修学旅行で訪問することは、意義のあることだと思います。
予想を越える未曾有の被爆者の数に、混乱をきわめたのは仕方がなかったことなのでしょう。けれどもその事実は、何年たっても歴史とともに人々の記憶に残すべきことなのではないかと考えます。
次回のご報告も待っております。
(このような地味な内容に、コメントやTBをいただくと嬉しいです。)
たまたま似島で土地の方にお話をうかがう機会があり、なぜか似島の歴史と概要をかなり詳細にまとめておらた資料を いただきましたので、資料が手元にあるのですが、昭和46年の11月22日に、広島市は推定累計【517体】の 遺骨を収納して遺骨白骨作業を打ち切っているようです。
重箱のすみをつつくような指摘で もうしわけありません。
私も再度調べましたところ、推定517の遺体と推定100人の遺灰で合計617体と思い込んだようです。
それにしてもこの番組は、とても良質なドキュメンタリーでした。似島の歴史が風化されないことを願っております。