セミの終わる頃(18)

2017-01-08 10:42:45 | 小説
第十一章 商社時代の自分との再会

「今日はお世話になります。」
若い女性が一人で治子の居る温泉宿にやって来た。
「こんな田舎の湯治場にようこそ。」

治子はこの女性の顔を見て驚いた。顔つきも背丈も治子の若い頃にソックリであった。
「あとで結構ですので、この宿帳に記入をお願いします。」
その宿帳の字も治子のものとよく似ていて、声も自分の若い頃に似ていた。

「若い方だのに、こんな田舎の湯治場の温泉宿では、つまらないでしょ。」
「本当はもっと早く来たかったの。もう今は無くなってしまったけれど、私の勤務している会社も湯治場の温泉宿を所有していたの。ここと同じように歴史のある風情で格調があり、素敵だったみたいですの。」

宿帳に記入された武藤リミカから治子はこの若い娘をリミカさんと呼ぶようにした。
「リミカさんの会社は何をしている会社なの?」
「商社で沢山の物を輸出しているの。だけれど輸出の為替レートの変動で利益が無くなってしまう事もあるの。」
「あらっ、大変ね。」
と相槌を打ったが、過去の自分に話しかけているようであった。

「だから、この静かな湯治場で癒されたいの。」
「そうね、ゆっくりと骨休みをしていって下さいね。」
治子は、リミカが私自分の居た温泉宿を知っているのか不思議であった。

「リミカさんは、もう無くなってしまった温泉宿のことを、誰からお聞きになったの?」
「会社に古いパンフレットが有ったの、それも一部だけね。」
「今、そのパンフレットをお持ちなの?
もしお持ちなら見せていただけません?」
「ええ、いいわよ。」

そのパンフレットを見た治子は一枚の写真に目を奪われた。
治子が若い頃に社員旅行でここに来た時に記念に撮った写真であった。
総務部門が作製したパンフレットだったので、貿易部門ではあまり関心が無かったのである。
「その写真の若い女性は私によく似ているでしょ。みんなにもよく言われるの。」
「そうね、ソックリね。」

治子は、
「私をよく見て、それは私よ。」
と言いたかったが、治子は懐かしさのあまり、声を失っていた。


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