損害・損傷のみとの覚悟ももっての忍耐

2017年07月14日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-2-1. 損害・損傷のみとの覚悟ももっての忍耐
 忍耐では「骨折り損のくたびれもうけ」をいう。忍耐するところには、かならず苦痛甘受の骨折りがある。生は、この甘受においてつらい思いをする。忍耐だけだとすると、苦痛・損害のみになるということである。したがって、安易に忍耐ははじめられない。損傷の苦痛は、未来に価値ある目的の実現を確信して甘受できるのである。
 かりに、目的活動の手段が、忍耐とちがって快なら、その目的が実現できなくても、快を享受できたのであり、その手段の実行を悔やむことはなかろう。食も性も手段のみが実現されて、目的の栄養摂取や子供づくりがかなわなかったとしても、その手段の快自体に文句をいうひとはない。だが、忍耐の場合は、目的が実現できなかったとすると、手段の苦痛だけが、マイナスのみがしっかり残るのである。
 目的が、どうでもいいようなものなら、忍耐はしないであろう。忍耐する苦痛は、できるならこれを避けたい辛いものである。そのつらい苦痛を受け入れても実現したい目的が忍耐では立てられている。自発的に忍耐するのは、そういう価値獲得にみあう苦痛だからである。他方、させられ強制される忍耐は、自身ではしたくないつらい苦痛だから強制されるのである。いずれにしても、忍耐では、目的の手段となる苦痛とその甘受は、覚悟してのみ受け入れられるような大きな苦痛であり、つらい甘受になるのである。
 忍耐は、「肉を切らせて、骨を切る」営みである。苦痛甘受の忍耐という手段は、まちがいなく、つらく生否定的なマイナスの事態である。「肉を切られる」のである。その非常の捨身の手段で、「骨を切る」目的が実現しないとしたら、切られて傷害を負って終わる。快適な食事という手段なら、栄養摂取の目的がならなくても、問題はない。だが、忍耐は、目的実現できなかったときは、無駄骨で散々な目にあうのである。
 

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