「忍耐させられる」から「忍耐する」への展開

2017年05月19日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-3-3. 「忍耐させられる」から「忍耐する」への展開
 苦痛は、いやなもので、自然的には、進んでこれを甘受して忍耐するようなことはない。その点からいうと、まずは、勉強や忍耐といったひとの営為がなるには、それにと点火するものがいる。おのずからに、自主・自発になるとしても、はじめは、こどもがそうであるように、外的に強制される「させられる」忍耐となるのがふつうである。それ以前に、「させられても、しない」状態がある。いくら外的に強制しても、忍耐する意志をもたない限り、ひとの忍耐は成立しない。苦い良薬を我慢しない幼児は、口に押し込んでも吐き出そうとする。忍耐以前の状態である。
 外的に強制して、「忍耐させる」「させられる」ことが成立するのは、当人が、いやいやながらも「忍耐する」気になる段階である。仕方がないと自らが自発的に苦痛を甘受する状態である。いやなニンジンを食べるのは、外的に強制されてであり、「忍耐させられる」のである。外的強制といえども、最後のところでは、当人が自発的に意志して受け入れている。「させられて、する」のである。「しつけ」は、この忍耐させるものの代表になろうか。
 その外的強制を内化できれば、納得して「忍耐する」自主的なものとなる。強制とか懇願を想像で自身が先取りして、あるいは、それをもっともと了解して、自らがおのれを鞭打って、いやな苦痛を甘受するのである。未来に目的を描き出して、その手段として(苦痛甘受の)忍耐が必須と自覚するようにもなろう。忍耐しない自由もある、やめる自由ももった任意でする自主的な忍耐である。ニンジンはいやだが、健康にいいのだからと、自身から我慢して食べるのである。
 「忍耐する」と「させられる」の違いは、その場の風向き・気分の問題となることもしばしばである。する気になれば、させられていても、する忍耐となる。自主的にしていても辛くなると考えが変わって、させられていると思い直すこともある。宿題をする子供は、嫌々にはじめても、興に乗れば、自分から、「もうちょっとだ」とすすんで忍耐する。だが、難しい問題で立ち止まるようになると、「毎日毎日、辛抱させられて」と、嘆くことになる。
 

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