本質的に過去向きの忍耐も言われるべきであろうか 

2017年09月22日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-4-1. 本質的に過去向きの忍耐も言われるべきであろうか 
 忍耐は、未来に成果をだすために苦痛の甘受を手段とし踏み台にしていく。過去の清算も未来向きになって、その忍耐の成果をもって少し負債を減らせるという、未来への意識を抱きつつの忍耐である。だが、かりに明日がないという場合を考えるとどうであろう。普通の未来向けの目的意識のもとでの忍耐はやめるであろう。犠牲のみがあって、成果のないことが確定しているのであれば、無駄になる犠牲は払わない方が賢明なことである。
 負債の返済は、どうなるであろうか。おそらく、明日がなくても、今日の忍耐・犠牲は払うことであろう。過去の負債を少しでも減らして終わりたいと思うのではないか。ということは、過去の清算のような場合の忍耐は、未来向きではなく、根本的には過去向きになった忍耐になるのであろう。マイナスのままでは終われない、少しでも負債を、負い目を小さくして最期を迎えたいということである。もちろん、これも目的論的な営為である。過去の負債返済という目的(過去のことだが、返済は直近ではあれ未来に実現されるはずのもの)をもって現在の苦労・辛苦を手段としていくのである。
 自分の明日はないとしても、過去の自分が現在の自分と同一であるという、自己同一、自分がなにものであったのかの、尊厳ある理性存在としての自同性がある。それが、その負債の返済ということにおいて、ひととしての責任を背負い続けて最期を迎えるという姿勢において、保てるのである。周囲も自同性を求める。「借りたときの俺と、今の俺と何の関係があろう」とうそぶいて借金返済を拒否したら、かれは、みんなから袋叩きにされるだろう。そして、抗議すると、「なぐったときの俺たちに言ってくれ。第一、殴られたお前と今のお前と何の関係がある」と嘲笑されることになる。

この記事についてブログを書く
« 忍耐は、未来の目的より、過... | トップ | 現在を過去や未来と結んで忍... »