しても、させられても、忍耐は忍耐

2017年04月21日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-3-1. しても、させられても、忍耐は忍耐
 ボランティア(≧志願兵)は、させられる強要・強制のばあいは、単なる強制労働・奴隷労働にと変質する。ボランティアの言葉自体が志願・自発の意味でなりたっているから、志願しない志願という矛盾したものになるというか、志願・自発の意味を失い、反志願の強制に全体が塗り替えられる。自発的であれば、楽しい奉仕のボランティアであるが、同一の労働であっても、強制で奉仕させられる場合は、苦痛の奴隷労働になる。 
 だが、忍耐は、強制され「忍耐させられる」ものであっても、忍耐である。強制・強要は忍耐という質を変えない。もともと、どんな忍耐も自分(その感性・欲求)への強制をもつ。その強制の質や量が異なっても忍耐自体にはあまり影響がない。忍耐であるか否かは、自分のうちで苦痛を甘受することになっているかどうかである。これが忍耐の肝心要め・要件である。こどもが、嫌いなニンジンを食べるようにと親から強制されることがある。涙を出しながらこどもは「忍耐する」が、当然、忍耐したいわけではなく「忍耐させられる」のである。忍耐は、させられても、しても忍耐である。
 忍耐は、自身で苦痛を甘受するという自発的な決意をして、苦痛に抵抗せずこれを受け止める姿勢である。自分のうちの苦痛(感情)が相手であり、これを自身が受け入れる意志を貫徹するのである。その「忍耐する」ことをそとから強制されるのが「忍耐させられる」である。この強制があっても、自身が自発的に自分のうちの苦痛について受け入れる決意をしないと忍耐は成立しない。忍耐することを拒絶して抵抗し自暴自棄になって暴発して自滅する道も可能である。それをしないで、忍耐がなるのである。最後のところは、自分の受け入れの自発性があっての忍耐である。強制されるものも、最後の一歩は自分の自発性があって、やむをえない、しかたないと、「忍耐する」のである。忍耐させられる場合も、忍耐するのである。幼児は苦い薬を忍耐しない。口にもっていっても受けいれず吐き出す。忍耐は、忍耐する気でないと、忍耐させられない。

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