自由としてのひとの忍耐-快抑制の自由(節制)と不快甘受の自由(忍耐)-

2017年02月17日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-2. 自由としてのひとの忍耐-快抑制の自由(節制)と不快甘受の自由(忍耐)-
 快不快の感情は、自然的な生の制御機能の根本を担っている。この自然(感情的生)を超越するものとしての人間は、一方では、快楽にのめりこむことなく、これに距離をおいて、これを制御・抑制する自由を有している。節制とか禁欲である。逆に不快とか苦痛は、これから逃げたりこれを排撃して自然的にはうまく生を維持できているが、この自然を超越してひとは、これから自由になることもできる。それが忍耐である。
 快楽は生に好都合な状態が生じていることを知らせるもので、おおむね、ひとも動物同様、快楽に引かれることで生をよりよく維持できている。快楽を拒否して生きる禁欲主義は、清浄な純粋精神に生きるために、極端な場合、動物的な快楽の自然から離脱し絶対的な自由を達成しようとするが、それの徹底は自然的生の否定となる。ひとの場合、動物的な生を失った場合、これを支えにしてそのうえに成り立っている個体の精神も存続できなくなる。節制のような、ほどほどの快楽抑制という自律・自由が一般的なひとの生き方になる。
 他方の苦痛・不快は、生に傷害などの不都合のあることを知らせるもので、自然的には、これから逃れることがその反応となる。生に不都合なことへ不注意であってはその生存が危うくなる。だが、ひとは、これを拒否し超越することを忍耐においてする。より高度な、より価値あるものを獲得しそれに生きるために、苦痛から逃げず、あえてこれを甘受して、苦痛に耐える。自然的反応を超越し自由になって、苦痛甘受の忍耐を手段・犠牲にして、大きな目的を達成するのである。
 禁欲主義は、単に快楽を禁じるのみでなく、苦痛を積極的に受け入れることもある(苦痛回避の自然欲求を禁じる禁欲)。忍耐を好んで受け入れる。逆に快楽主義は、単に快楽享受にのめりこむのみでなく、苦痛・苦労とか忍耐とかを回避する傾向がつよい。過激な禁欲主義は、自然的な快不快を強引に脱して、自然から完璧に自由になった精神的生に飛躍しようともする。逆に過度の快楽主義は、人の生き方をはずれ、快楽享受と不快排除の自然、動物的衝動への埋没をはかる。快楽主義は、人間以下の生にドロップしようとするのに対して、極端な禁欲主義は、人間以上になろうと無謀な試みをする。
 

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