1995/05/24: ◆体験 落馬事故乗り越え不屈のカムバック、今、調教師へ
茨城 岩城博俊
*騎手から調教師へ/挑戦の祈りが勝利のゲートを開いた/悪夢の落馬事故か
ら不屈のカムバック/来春の厩舎オープンへ向け海外研修へ
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【茨城県・美浦(みほ)村】約三千頭の馬を抱え、約百三十の厩舎(きゅうし
ゃ)が建ち並ぶ日本中央競馬会の美浦トレーニングセンター(通称・トレセン)
。道路には「馬優先」の標識が掲げられ、馬の足に負担を掛けないようにと
車道以外の道には砂が敷き詰められ、さながら“馬の国”である。岩城博俊さん
(43)=美駒支部、地区部長=は、この世界で二十五年間、騎手として、調教助手
として、馬とともに生きてきた。この春、念願の調教師試験に合格。それは、
落馬事故、瀕死(ひんし)の重傷からの再起と、幾つもの人生の風雪を、不屈の
祈りと変わらぬ馬への愛情で乗り越え、開いた、第二の人生のゲートであった。
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「すごいねえー、お父さん」。満面に笑みを浮かべて、妻のあけみさん(42)
=地区担当員=が祝福してくれた。
今年二月十六日、八度目の挑戦となる調教師試験の結果が発表された。岩城さ
んは十倍を超える競争率を勝ち抜いて晴れて合格。「自分の名前を見つけた時、
“よーし、やるぞ”と気の引き締まる思いでした」
調教師はこの道を歩む者にとって最終目標。かつて騎手として活躍した岩城さ
んにとっても念願の免許であった。そこには、一度は絶望の淵(ふち)に落ちた
苦闘の日々が。「大好きな道ですから、苦労と思ったことはありません」と笑う
岩城さんだが、来し方の日々を思い、淡々と体験を語ってくれた。
--それは悪夢のような出来事だった。昭和六十年(一九八五年)
一月二十七日、東京・府中の東京競馬場での障害レースの最中、岩城さんは
落馬事故を。外傷性くも膜下出血、脳挫傷(ざしょう)、右半身マヒの重傷。
ヘルメットが割れるという、滅多にない大きな事故だった。
直ちに都立府中病院に収容。集中治療室で治療が始まった。あけみさんが病院
に駆け付けた時には、岩城さんは意識不明、出血が止まらない状態で、医師たち
は最悪の事態に備えて治療を続けていた。
“死なせてなるものか。どうか夫の命を救ってください”。懸命の唱題が続く
。男子部の騎手メンバーや地域の同志の人たちが、「岩城さんを救え」と真剣な
唱題で応援してくれた。
八時間後、岩城さんは意識を回復。CTスキャン検査で頭に十円玉ほどの腫瘍
(しゅよう)が発見されたが、もう少し様子を見るということで手術は見合わさ
れた。
ひたぶるな祈りのなかで、腫瘍は一週間で消え、回復ぶりは奇跡的といえるも
のだった。数カ月かかると思われた入院も、わずか十一日にして自宅療養を許さ
れた。
しかし……。本当の苦闘はそこから始まった。一時的な記憶喪失、平衡感覚の
欠如とさまざまな後遺症との闘いが待っていた。
岩城さんが競馬の世界に入ったのは十八歳の時。何の縁もなかったが、生来の
動物好きから選んだ道である。徒弟の世界での厳しい修業の日々を経て、
五十一年、二十三歳で騎手としてデビュー。この世界では遅咲きのスタートだっ
た。
五十三年に結婚。あけみさんが信心していたことから、二年後の五十五年、
自らも入会。まじめに信心に取り組んだ。待望の長男も生まれ、順調な人生に見
えた矢先の事故だった。
騎手にとって平衡感覚は生命線。周りのだれもが引退を考えた。が、岩城さん
はあきらめなかった。“まもなく四歳になる長男に騎手姿を見せたい。必ず、も
う一度コースに出る”。懸命のリハビリを続けた。
「復帰までの一年八カ月は出口の見えないトンネルの中にいるようでした。こ
の時、御書の全編拝読を始めました。『妙とは蘇生の義なり』(九四七ページ)の
御文などを心に焼き付け、自分を奮い立たせました」
経済的にも苦しいなか、あけみさんも夫を支えながら、一家の宿命転換を願い
、弘教と機関紙啓蒙に取り組み、一歩も引かずに苦境に立ち向かった。「馬に乗
れない夫がかわいそうで……。“必ず良くなる”と無我夢中で祈り、動きました
」
六十一年十月四日、岩城さんは見事、騎手としてカムバックを果たした。所も
同じ東京競馬場。堂々二着の成績でファンの声援に応えた。更に翌年四月には、
二年三カ月ぶりの優勝を。スポーツ紙にも感動のドラマとして紹介された。
平成元年、岩城さんは騎手を引退。調教助手として新しい道を歩き始めた。
その前の年から調教師試験に挑戦を始めていた。毎年十月に一次試験、それを
クリアすると、翌年の一月に二次試験が待っている。競争率は常に十倍を超える
。挑戦してみて改めて難しさを痛感した。
毎年夏から秋にかけて真夜中に起きて試験勉強に取り組む岩城さんの姿が。し
かし二年目に一次試験を通っただけで、七年間不合格が続いた。
そして昨年、八度目の挑戦に臨んだ。すでに四十代となり焦りがないわけでは
なかった。しかし地区部長・担当員としてあけみさんと広布の最前線を走るなか
で、「それまでは試験勉強を最優先していた生活を、今回は唱題にも広布の活動
にも、勉強にもベストを尽くそうとハラを決めて臨みました」。
事故から十年の節目に、文字通り“七転び八起き”で栄冠を勝ち得た岩城さん
。来春の厩舎オープンへ向け、来月から一カ月余り、フランス、イギリス、
アイルランドへ研修へ赴(おもむ)く。
「どんな困難にも夢と希望を捨てないことの大切さを学びました。調教師は言
わば個人事業主。大変な根気とバイタリティーが要求されます。良い人材に恵ま
れるためにも、もっともっと自分を磨いていかなければ。これからが勝負です」
### ###
広布の庭でも“おしどりコンビ”の岩城さん夫妻。新たな出発に二人三脚の
足どりも軽い
早朝、霞ケ浦の水面(みなも)を渡る五月の風が吹き抜けるトレセンで調教に
汗を流す岩城さん。“大好きな道を前へ前へ”と真剣勝負の目が光る
茨城 岩城博俊
*騎手から調教師へ/挑戦の祈りが勝利のゲートを開いた/悪夢の落馬事故か
ら不屈のカムバック/来春の厩舎オープンへ向け海外研修へ
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【茨城県・美浦(みほ)村】約三千頭の馬を抱え、約百三十の厩舎(きゅうし
ゃ)が建ち並ぶ日本中央競馬会の美浦トレーニングセンター(通称・トレセン)
。道路には「馬優先」の標識が掲げられ、馬の足に負担を掛けないようにと
車道以外の道には砂が敷き詰められ、さながら“馬の国”である。岩城博俊さん
(43)=美駒支部、地区部長=は、この世界で二十五年間、騎手として、調教助手
として、馬とともに生きてきた。この春、念願の調教師試験に合格。それは、
落馬事故、瀕死(ひんし)の重傷からの再起と、幾つもの人生の風雪を、不屈の
祈りと変わらぬ馬への愛情で乗り越え、開いた、第二の人生のゲートであった。
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「すごいねえー、お父さん」。満面に笑みを浮かべて、妻のあけみさん(42)
=地区担当員=が祝福してくれた。
今年二月十六日、八度目の挑戦となる調教師試験の結果が発表された。岩城さ
んは十倍を超える競争率を勝ち抜いて晴れて合格。「自分の名前を見つけた時、
“よーし、やるぞ”と気の引き締まる思いでした」
調教師はこの道を歩む者にとって最終目標。かつて騎手として活躍した岩城さ
んにとっても念願の免許であった。そこには、一度は絶望の淵(ふち)に落ちた
苦闘の日々が。「大好きな道ですから、苦労と思ったことはありません」と笑う
岩城さんだが、来し方の日々を思い、淡々と体験を語ってくれた。
--それは悪夢のような出来事だった。昭和六十年(一九八五年)
一月二十七日、東京・府中の東京競馬場での障害レースの最中、岩城さんは
落馬事故を。外傷性くも膜下出血、脳挫傷(ざしょう)、右半身マヒの重傷。
ヘルメットが割れるという、滅多にない大きな事故だった。
直ちに都立府中病院に収容。集中治療室で治療が始まった。あけみさんが病院
に駆け付けた時には、岩城さんは意識不明、出血が止まらない状態で、医師たち
は最悪の事態に備えて治療を続けていた。
“死なせてなるものか。どうか夫の命を救ってください”。懸命の唱題が続く
。男子部の騎手メンバーや地域の同志の人たちが、「岩城さんを救え」と真剣な
唱題で応援してくれた。
八時間後、岩城さんは意識を回復。CTスキャン検査で頭に十円玉ほどの腫瘍
(しゅよう)が発見されたが、もう少し様子を見るということで手術は見合わさ
れた。
ひたぶるな祈りのなかで、腫瘍は一週間で消え、回復ぶりは奇跡的といえるも
のだった。数カ月かかると思われた入院も、わずか十一日にして自宅療養を許さ
れた。
しかし……。本当の苦闘はそこから始まった。一時的な記憶喪失、平衡感覚の
欠如とさまざまな後遺症との闘いが待っていた。
岩城さんが競馬の世界に入ったのは十八歳の時。何の縁もなかったが、生来の
動物好きから選んだ道である。徒弟の世界での厳しい修業の日々を経て、
五十一年、二十三歳で騎手としてデビュー。この世界では遅咲きのスタートだっ
た。
五十三年に結婚。あけみさんが信心していたことから、二年後の五十五年、
自らも入会。まじめに信心に取り組んだ。待望の長男も生まれ、順調な人生に見
えた矢先の事故だった。
騎手にとって平衡感覚は生命線。周りのだれもが引退を考えた。が、岩城さん
はあきらめなかった。“まもなく四歳になる長男に騎手姿を見せたい。必ず、も
う一度コースに出る”。懸命のリハビリを続けた。
「復帰までの一年八カ月は出口の見えないトンネルの中にいるようでした。こ
の時、御書の全編拝読を始めました。『妙とは蘇生の義なり』(九四七ページ)の
御文などを心に焼き付け、自分を奮い立たせました」
経済的にも苦しいなか、あけみさんも夫を支えながら、一家の宿命転換を願い
、弘教と機関紙啓蒙に取り組み、一歩も引かずに苦境に立ち向かった。「馬に乗
れない夫がかわいそうで……。“必ず良くなる”と無我夢中で祈り、動きました
」
六十一年十月四日、岩城さんは見事、騎手としてカムバックを果たした。所も
同じ東京競馬場。堂々二着の成績でファンの声援に応えた。更に翌年四月には、
二年三カ月ぶりの優勝を。スポーツ紙にも感動のドラマとして紹介された。
平成元年、岩城さんは騎手を引退。調教助手として新しい道を歩き始めた。
その前の年から調教師試験に挑戦を始めていた。毎年十月に一次試験、それを
クリアすると、翌年の一月に二次試験が待っている。競争率は常に十倍を超える
。挑戦してみて改めて難しさを痛感した。
毎年夏から秋にかけて真夜中に起きて試験勉強に取り組む岩城さんの姿が。し
かし二年目に一次試験を通っただけで、七年間不合格が続いた。
そして昨年、八度目の挑戦に臨んだ。すでに四十代となり焦りがないわけでは
なかった。しかし地区部長・担当員としてあけみさんと広布の最前線を走るなか
で、「それまでは試験勉強を最優先していた生活を、今回は唱題にも広布の活動
にも、勉強にもベストを尽くそうとハラを決めて臨みました」。
事故から十年の節目に、文字通り“七転び八起き”で栄冠を勝ち得た岩城さん
。来春の厩舎オープンへ向け、来月から一カ月余り、フランス、イギリス、
アイルランドへ研修へ赴(おもむ)く。
「どんな困難にも夢と希望を捨てないことの大切さを学びました。調教師は言
わば個人事業主。大変な根気とバイタリティーが要求されます。良い人材に恵ま
れるためにも、もっともっと自分を磨いていかなければ。これからが勝負です」
### ###
広布の庭でも“おしどりコンビ”の岩城さん夫妻。新たな出発に二人三脚の
足どりも軽い
早朝、霞ケ浦の水面(みなも)を渡る五月の風が吹き抜けるトレセンで調教に
汗を流す岩城さん。“大好きな道を前へ前へ”と真剣勝負の目が光る