◆体験談◆

◆体験談◆

落馬事故乗り越え不屈のカムバック、今、調教師へ

2006年10月04日 | くも膜下出血
1995/05/24: ◆体験 落馬事故乗り越え不屈のカムバック、今、調教師へ 
茨城 岩城博俊

 *騎手から調教師へ/挑戦の祈りが勝利のゲートを開いた/悪夢の落馬事故か
ら不屈のカムバック/来春の厩舎オープンへ向け海外研修へ
 ###   ###
 【茨城県・美浦(みほ)村】約三千頭の馬を抱え、約百三十の厩舎(きゅうし
ゃ)が建ち並ぶ日本中央競馬会の美浦トレーニングセンター(通称・トレセン)
。道路には「馬優先」の標識が掲げられ、馬の足に負担を掛けないようにと
車道以外の道には砂が敷き詰められ、さながら“馬の国”である。岩城博俊さん
(43)=美駒支部、地区部長=は、この世界で二十五年間、騎手として、調教助手
として、馬とともに生きてきた。この春、念願の調教師試験に合格。それは、
落馬事故、瀕死(ひんし)の重傷からの再起と、幾つもの人生の風雪を、不屈の
祈りと変わらぬ馬への愛情で乗り越え、開いた、第二の人生のゲートであった。
 ###   ###
 「すごいねえー、お父さん」。満面に笑みを浮かべて、妻のあけみさん(42)
=地区担当員=が祝福してくれた。
 今年二月十六日、八度目の挑戦となる調教師試験の結果が発表された。岩城さ
んは十倍を超える競争率を勝ち抜いて晴れて合格。「自分の名前を見つけた時、
“よーし、やるぞ”と気の引き締まる思いでした」
 調教師はこの道を歩む者にとって最終目標。かつて騎手として活躍した岩城さ
んにとっても念願の免許であった。そこには、一度は絶望の淵(ふち)に落ちた
苦闘の日々が。「大好きな道ですから、苦労と思ったことはありません」と笑う
岩城さんだが、来し方の日々を思い、淡々と体験を語ってくれた。
 --それは悪夢のような出来事だった。昭和六十年(一九八五年)
一月二十七日、東京・府中の東京競馬場での障害レースの最中、岩城さんは
落馬事故を。外傷性くも膜下出血、脳挫傷(ざしょう)、右半身マヒの重傷。
ヘルメットが割れるという、滅多にない大きな事故だった。
 直ちに都立府中病院に収容。集中治療室で治療が始まった。あけみさんが病院
に駆け付けた時には、岩城さんは意識不明、出血が止まらない状態で、医師たち
は最悪の事態に備えて治療を続けていた。
 “死なせてなるものか。どうか夫の命を救ってください”。懸命の唱題が続く
。男子部の騎手メンバーや地域の同志の人たちが、「岩城さんを救え」と真剣な
唱題で応援してくれた。
 八時間後、岩城さんは意識を回復。CTスキャン検査で頭に十円玉ほどの腫瘍
(しゅよう)が発見されたが、もう少し様子を見るということで手術は見合わさ
れた。
 ひたぶるな祈りのなかで、腫瘍は一週間で消え、回復ぶりは奇跡的といえるも
のだった。数カ月かかると思われた入院も、わずか十一日にして自宅療養を許さ
れた。
 しかし……。本当の苦闘はそこから始まった。一時的な記憶喪失、平衡感覚の
欠如とさまざまな後遺症との闘いが待っていた。
 岩城さんが競馬の世界に入ったのは十八歳の時。何の縁もなかったが、生来の
動物好きから選んだ道である。徒弟の世界での厳しい修業の日々を経て、
五十一年、二十三歳で騎手としてデビュー。この世界では遅咲きのスタートだっ
た。
 五十三年に結婚。あけみさんが信心していたことから、二年後の五十五年、
自らも入会。まじめに信心に取り組んだ。待望の長男も生まれ、順調な人生に見
えた矢先の事故だった。
 騎手にとって平衡感覚は生命線。周りのだれもが引退を考えた。が、岩城さん
はあきらめなかった。“まもなく四歳になる長男に騎手姿を見せたい。必ず、も
う一度コースに出る”。懸命のリハビリを続けた。
 「復帰までの一年八カ月は出口の見えないトンネルの中にいるようでした。こ
の時、御書の全編拝読を始めました。『妙とは蘇生の義なり』(九四七ページ)の
御文などを心に焼き付け、自分を奮い立たせました」
 経済的にも苦しいなか、あけみさんも夫を支えながら、一家の宿命転換を願い
、弘教と機関紙啓蒙に取り組み、一歩も引かずに苦境に立ち向かった。「馬に乗
れない夫がかわいそうで……。“必ず良くなる”と無我夢中で祈り、動きました

 六十一年十月四日、岩城さんは見事、騎手としてカムバックを果たした。所も
同じ東京競馬場。堂々二着の成績でファンの声援に応えた。更に翌年四月には、
二年三カ月ぶりの優勝を。スポーツ紙にも感動のドラマとして紹介された。
 平成元年、岩城さんは騎手を引退。調教助手として新しい道を歩き始めた。
 その前の年から調教師試験に挑戦を始めていた。毎年十月に一次試験、それを
クリアすると、翌年の一月に二次試験が待っている。競争率は常に十倍を超える
。挑戦してみて改めて難しさを痛感した。
 毎年夏から秋にかけて真夜中に起きて試験勉強に取り組む岩城さんの姿が。し
かし二年目に一次試験を通っただけで、七年間不合格が続いた。
 そして昨年、八度目の挑戦に臨んだ。すでに四十代となり焦りがないわけでは
なかった。しかし地区部長・担当員としてあけみさんと広布の最前線を走るなか
で、「それまでは試験勉強を最優先していた生活を、今回は唱題にも広布の活動
にも、勉強にもベストを尽くそうとハラを決めて臨みました」。
 事故から十年の節目に、文字通り“七転び八起き”で栄冠を勝ち得た岩城さん
。来春の厩舎オープンへ向け、来月から一カ月余り、フランス、イギリス、
アイルランドへ研修へ赴(おもむ)く。
 「どんな困難にも夢と希望を捨てないことの大切さを学びました。調教師は言
わば個人事業主。大変な根気とバイタリティーが要求されます。良い人材に恵ま
れるためにも、もっともっと自分を磨いていかなければ。これからが勝負です」
 ###   ###
 広布の庭でも“おしどりコンビ”の岩城さん夫妻。新たな出発に二人三脚の
足どりも軽い
 早朝、霞ケ浦の水面(みなも)を渡る五月の風が吹き抜けるトレセンで調教に
汗を流す岩城さん。“大好きな道を前へ前へ”と真剣勝負の目が光る

くも膜下出血 産後3日目に発症、半年で再起

2006年10月04日 | くも膜下出血
1998/02/14: ◆ファイル くも膜下出血 産後3日目に発症、半年で再起 
岐阜 逸見富美子


 *ファイル/File/出産のドラマ(2)/くも膜下出血/産後3日目に発症、
半年間の入院生活から再起/生死を超えた母としての責任感/「回復不可能」を
覆し“生きるんだ!子供のために広布のために”/家族、同志の真摯な祈りを力
に変え
 ###   ###
 【岐阜県高山市】逸見富美子さん(35)=中山支部、ブロック担当員=が、突然
の頭痛に襲われたのは、生後三日目の我が子に母乳を与えている時でした。
バットで殴られたような激痛。嘔吐。診断結果は生命の危険が非常に高い「
くも膜下出血」……たとえ助かっても子育てができる体に回復するのは不可能と
医師。しかし彼女は意識が混濁するなかで、必死に生きようとしました。母とし
て我が子を育てねばとの責任感が、驚異的な回復力を生んだのです――。
 ###   ###
 *手術ができない!?
 「お腹(なか)の子は未熟児のようです」。高山日赤病院の産婦人科医師から
検診の時に言われたことだ。
 そのたびに、「この子もなの……」と思い、真剣に唱題を重ねてきた。逸見さ
ん自身も未熟児で生まれた。母もまた未熟児で生まれたという。“ここで宿業を
断ち切らなければ……”と、決意しては出産までを広布に駆けた日々。
 そして一九九一年(平成三年)六月二十四日。体重二六〇〇グラムの女児を出産。
「少し小さいけど元気な女の子じゃないか」と夫の勤さん(40)=副支部長=にも
笑顔がこぼれた。名前は友香里(6つ)……。
 母としての責任感が増した。出産の疲労も苦痛も、赤ちゃんの元気な泣き声を
聞ければ、安堵(あんど)し、力がみなぎる気がする。
 だが、出産から三日目、母の身に異変が起きた。逸見さんは、病院のベッドの
上で母乳を与えていた。突然、激痛が走った。「この子をお願い……」「どうし
たんだ!」。勤さんに赤ちゃんを渡すと、頭を抱え込んだ。「少し横になるから
……」とベッドに寝たものの、そのまま意識をなくしたように眠ったという。し
ばらくすると、起きて嘔吐を繰り返した。額には脂汗がにじんでいる。
 医師の顔が曇った。意識障害が見られたが、産後の体のために精密検査は制限
がある。翌日、CT、脳血管撮影。
 「くも膜下出血です。断層写真には二カ所から出血が認められます。ただ、は
っきりとした部位が特定できないのです……」。その後も、脳血管撮影は三回試
みられた。だが、出血した場所は特定できなかった。「疑わしい場所はあるので
すが……特定できない以上、手術は不可能です……」。勤さんは、昏睡(
こんすい)状態になった妻の寝顔を呆然(ぼうぜん)と見つめた。
 *「食べられるか?」「うん」
 その日から勤さんは、長男の悟くん(10)と生まれたばかりの友香里ちゃんを
両親に預け、病室に泊まった。
 何もしてやれないもどかしさ。ただ、汗を拭いてやり、耳元に題目を唱え続け
た。最悪のことが頭に浮かぶ。このまま乳飲み子を残したまま、妻は死んでいく
のか……。それをうち消すように、再び題目を送る。地域の同志も回復を信じ祈
った。
 内科的治療が続けられた。頭蓋内圧降下剤や止血剤、抗生剤を使用。
 二日後に逸見さんは意識を取り戻した。しかし、言葉を失っていた。右半身の
マヒも。
 その後も意識障害、混濁と昏睡を繰り返し、容体は一進一退。左脳にある血腫
のためにマヒが出ていると医師。「手術ができないのがもどかしい。再出血があ
れば九割は絶望的です。このままの状態を維持しても、植物状態もしくは、
半身不随で寝たきりは免れません」
 当時のメモに、勤さんは「この世の終わりか」と書いた。だが、夫として、
父親として、諦めるわけにはいかなかった。「母の顔を知らない子供には絶対さ
せない」。それは、一家の宿命転換の戦いともいえた。自身に言い聞かせた。「
難を乗り越えてこそ、人間革命ができる」のだと。
 変化が起こった。意識障害に陥ることが少なくなってきたのだ。といっても
言葉は出ない。だが、勤さんが語りかける言葉に応えたそうな瞳(ひとみ)を返
すのだ。“僕の言葉が分かっている”。一生懸命に話しかけた。子供の写真も見
せた。涙を浮かべている。
 一カ月後、それまで点滴だけで生きていた逸見さんに、医師が「そろそろ
ヨーグルトをあげてもいいですよ」と。「本当ですか!」。勤さんは、外へ出て
、「万歳!」と大きな声で何度も叫んだ。今までこぼれなかった涙が一度にあふ
れるように頬(ほお)を伝った。
 売店でヨーグルトを買った。「食べられるか?……」。「うん」と妻は確かに
言った。スプーンを妻の口に運ぶ勤さんの手は喜びで震えていた。
 *子供たちが待っている
 意識を取り戻した当時、逸見さんが覚えていた言葉は、自分の名前と、住んで
いた町の名前、そして「南無妙法蓮華経」の三語だったという。
 逸見さんは、我が子が会いに来ても、名前を呼べずにいた。自分の子だとは分
かるが、名前が出ないのだ。“我が子の名前を忘れるなんて……”。子供の名前
を何度も口にしては“覚えよう”とした。題目を唱えては、またそれを繰り返し
た。
 二カ月が過ぎた。言葉は徐々に戻ってきたが、自分の意思とはうらはらに体は
思うようにならなかった。右手と右足が動かない。かつて整形外科の看護婦をし
ていたこともあって、自分の病状がはっきりと理解できた。医師や看護婦の言葉
の「立つのは難しい。車イスの生活です」と夫に話す言葉も聞いた。「退院する
までに二、三年はかかる」とも。
 ある日、勤さんが仕事を終え病院に戻ると、看護婦から、逸見さんが窓から飛
び降りようとしたことを聞いた。自由にならない体を、これほどまでに悩んでい
たのかと思うと、ともに苦しみを分かち合うことのできなかった自身を責めた。
 妻の顔が涙にぬれていた。“普通の生活は二度とできない。それは皆に迷惑が
かかる”
 「絶対治る! 何のために信心しているんだ。子供たちが君の元気な姿を待っ
ているんだよ……」
 池田名誉会長にも、必ず治すとの妻の思いを手紙に託し報告した。すぐさま
励ましの伝言と「健康」の色紙が届いた。
 「健康になって、子供たちのもとに帰らねば……もう一度広布のために戦わね
ば……」。母はリハビリに励んだ。どんなにつらくとも苦痛に耐えた。そして
子供たちの写真を見ながら、題目を唱えた。自身に勝て。自身の弱き心に勝て…
…と心を定めて。
     ◇
 五カ月後、病院のベッドで我が子を抱いた。激痛に襲われた日以来のことだ。
乳房を子供の小さな口に近づけた。思うようにいかない。不自由な右手が邪魔を
する。何度も試みる。もう母乳は出ないと思った。だが、我が子は吸い付くよう
に“母の愛”を頬張(ほおば)った。
 〈逸見さんは、七カ月後の九二年(平成四年)一月に退院。医師も「この
回復力はどこから来るのか」と驚くほどの回復ぶり。マヒは右の手足に多少残っ
ているが、現在、車を運転するほどまでになった。また地域の合唱団に入り、
コーラスにも励んでいる〉
      #
 *祖父母の“孫育て”
 二人の孫を預かり育てた、義父の清さん(72)=久々野支部、副本部長=と義母
のみよ子さん(73)=婦人部副本部長=の苦闘も光る。とくにみよ子さんは、
生後六日目に、病院でミルクの作り方や、産湯の入れ方などを学び、約一年間、
母親代わりとなって“孫育て”を。夫妻は、草創の高山を築いてきた。旧習深い
地域で、学会の正義を体現してきた。営林署に長年勤めた清さん。その留守を守
ったみよ子さんは、初代支部婦人部長として地域広布に尽力。飛騨(ひだ)で初
の個人会場も。
      #
 *メモ/くも膜下出血
 脳の表面を覆っている硬膜、くも膜、軟膜の3層の膜のうち、くも膜と軟膜の
すき間(くも膜下腔)に出血する疾患。激しい頭痛、嘔吐、意識障害などが突然
起こる。生命の危険が非常に高い。
 ###   ###
 「私を必要としている子供たちがいる――そう思うと、頑張れました。私は“
母親”なんですから」。母と子の絆(きずな)は強く
 祖父母、同志の励ましは限りなく尊い(左から5人目がみよ子さん、その右隣
が清さん)
 家族のぬくもりがあればこそ――それを逸見さん家族は実感している

くも膜下出血 死の淵からの生還

2006年10月04日 | くも膜下出血
1999/08/31: ◆ファイル くも膜下出血 死の淵からの生還 
愛知 可児亜佐子さん


 *ファイル/File/くも膜下出血/死の淵からの生還/“もう一度、生き
る喜びをつかみたい”/後遺症も全くなく元気に社会復帰/「夫や同志に感謝」
と今、報恩の日々
 ###   ###
 【愛知県犬山市】「脳卒中」の一種である「くも膜下出血」は、生命に及ぶ
危険が高く、また、後遺症として手足のまひ、言語障害、呼吸困難、てんかんの
症状を伴うことがある深刻な病気です。疾患(しっかん)にかかった本人はもと
より、家族の心配、苦労は計り知れません。今ではすっかり元気に活躍している
可児(かに)亜佐子さん(56)=楽田支部、圏副婦人部長=が、くも膜下出血に襲
われ、生死の境をさまよったのは四年前のこと。その闘病の奇跡を、夫の義郎さ
ん(61)=副本部長(支部長兼任)=の視点から追います。
 ###   ###
 *もし目を覚まさなければ
 一九九五年(平成七年)九月二十八日の夜、可児さんは知人と会って帰宅した
後、一階の居間でうたた寝をしていた。ふと目覚めた時、時計は午前二時を回っ
ていた。トイレに行こうとして立ち上がり、廊下に出た瞬間、足をすべらせ転倒
、そのまま意識を失った。
 そのころ、夫・義郎さんは、二階の寝室で休んでいた。
 バタン! という物音で目覚めた義郎さんは、反射的に布団をはねのけ、階段
を駆け下りた。そして、廊下でぐったりしている可児さんを発見したのだ。どこ
かにぶつけたのか、頬(ほお)がすり切れている。とっさのことに我を失いそう
になりながらも、可児さんを抱えた。
 ただちに救急車が呼ばれ、可児さんは近くの病院に担ぎ込まれた。
 CT検査の結果、頭部右側の動脈瘤(りゅう)が破れていて、しかも、
破裂部分が深い位置にあることが分かり、脳脊髄(せきずい)液採取で
くも膜下出血と診断された。
 切迫した表情の医師の説明を聞きながら、義郎さんは鼓動の高鳴りを覚えてい
た。
 “妻を死なせてはならない”。思わず拳(こぶし)を握った。そして、妻が倒
れた時、自分がもし目覚めなかったら、と思うと身震いした。
 「部位が部位だけに、手術は難しいです。助かっても植物状態、良くても、
車イスの生活は覚悟しておいてください」――医師の言葉が頭の中でグルグル渦
巻いていた。
 “どんな状態でもいい。とにかく、命だけは助かってほしい”。口をついて
題目が出た。
 *入会20年の“佳節”
 夜が明けてから手術となった。
 意識を失ったままストレッチャーに乗せられて手術室に向かう妻を見送りなが
ら、義郎さんは心の中で唱題した。地域の同志が駆け付け、激励してくれた。「
絶対、大丈夫」「奥さんは死ぬわけないよ」。その一言一言に勇気づけられた。
地元では、可児さんの手術の無事を祈って唱題会が行われているという。
 義郎さんは胸に込み上げてくる熱いものを感じながら、病室に戻り、ベッドの
端に腰掛けると静かに唱題を始めた。
 医師は「手術には七時間ほど要します」と言っていた。脳裏に来し方の
あれこれが走馬灯のように流れた。自他ともに認めるおしどり夫婦として
二十数年間。七五年に一緒に入会してからというもの、ともに支え合いながら
広布の活動に励んできた。その間の笑いと涙がよみがえってきた。
 “妻が死んだらどうなるだろう……”。ふとわいてくる悪い予感を打ち消しな
がら、唱題を続けた。
 五時間が経過したころ、あれほど荒立っていた心が不思議と落ち着いてきた。
義郎さんは、必死に手術台の上で闘っているであろう妻の姿を思い、更に唱題を
続けた。
 「無事に手術は終わりました」。疲弊した医師の顔を見た時、義郎さんは体じ
ゅうの力が抜けるようにホッとした。手術開始から既に七時間がたっていた。
 しかし、予断は許さなかった。「後遺症は覚悟していてください」と医師は語
った。
 酸素マスクをつけたまま昏睡(こんすい)状態の妻の顔を見ながら、ふと、呼
び掛けた。
 「もう一度、二人で、広布のために頑張ろう」
 その年は、ちょうど入会して二十年の佳節だった。支部長、支部婦人部長と
広布の庭を駆けてきた。その中で、信心の素晴らしさを訴え、弘教も実らせてき
た。困難を乗り越える信心の大切さを説いてきた。しかし、自分たちが「生死」
の淵を垣間見せられるような困難に直面したのは初めてのことだった。生きてい
ることの尊さが、妻の病を通して、実感させられた。
 三日目には、脳血管れん縮による軽い意識障害が見られたものの、ようやく
可児さんの意識が戻った。前日まで反応がなく、マヒが心配された左足も感覚を
取り戻した。
 当初は何が起こったのか、事態が飲み込めないでいた可児さんだったが、次第
に自分の置かれた状況が分かるようになっていった。病院内の重篤(じゅうとく
)な患者を目の当たりにするようになって、更に、自分が重い病を患ったことを
知った。
 歩いて一人でトイレに行けるようになって、ふと、廊下に張り巡らされた
色とりどりのテープを見た。脳疾患などの意識障害のために自分の病室に帰れな
くなる患者のために張られたものだった。しかし、自分は、そのテープの助けな
しに病室に戻ることができた――可児さんは、当初の予想よりも二カ月も早く、
十一月三日に退院した。
 *命懸けの信心を学ぶ
 可児さんは退院してから、いろいろなことを冷静に考えられるようになった。
 可児さんの姉もくも膜下出血を患っていた。そして、母親も脳血栓で亡くなっ
ていた。
 「それまでは病気らしい病気をしたことがありません。後で思い返して、これ
が『宿業』かと思いました。そして、そうなら、私が今回でそれを転換しようと
、御本尊に祈ったのです」
 「それにしても、同志の方々の存在は、本当に心強いものでした」
 わざわざ店じまいをして、題目を送ってくれた自営業の夫婦。今まで取り組ん
だことのないぐらいの時間、唱題してくれた壮年。面識もないのに、全快を真剣
に祈ってくれた同志――後から後から数々のエピソードを聞くうちに、自分の置
かれていた状況の深刻さを知らされ、何としても元気に回復して、恩返しをしな
ければ、という決意がみなぎってきた。
 「そして、もちろん、夫がいてくれました」
 入会以来、毎朝、出勤前の一時間の唱題を持続してきた義郎さんだった。
 「でも、今回、“絶体絶命”のなかで、今までにない真剣な唱題をさせてもら
いました。その中で、自分の心が決まったような気がします。妻の命を助けてい
ただきましたので、夫婦してどこまでも広布に頑張ります! と心から決意でき
たんです」と義郎さん。
 「命懸けで信心をするということ、他人のために尽くしていくということを、
今回のことを通して改めて教わりました」と可児さん。
 「先日の『わが友に贈る』(注・本紙一面に連載)に『折伏とは真実を語るこ
と。さあ堂々と 楽しく妙法の素晴らしさを語ろう!』とありましたが、この
信仰の喜びを、自分たちの姿をもって、周囲に訴えていこうと思っています」
 退院から四カ月という早い時期に車の運転ができるようになった可児さん。
心配された後遺症は全くなく、元気にはつらつと、地域を駆ける。
 信仰の強い絆(きずな)で結ばれた可児さん夫妻に幸福の実証が輝く。
 ###   ###
 「健康でいられることに感謝の日々です」と可児さん
 この人たちありて今の自分たちが――地域の同志と語らう可児さん夫妻(左か
ら3人目が夫・義郎さん)

くも膜下出血 戦う心が開いた再起の道

2006年10月04日 | くも膜下出血
2000/03/19: ◆ファイル くも膜下出血 戦う心が開いた再起の道 
岐阜 野村勝秋さん

 【岐阜市】岐阜駅から北へ車で十分あまり。「リフォーム・ノムラ」の看板を見つけて店に入ると、主人の野村勝秋さん(57)=長良支部、副支部長=の元気な声が響いた。一九九八年(平成十年)の正月、「くも膜下出血」に倒れ、生死の淵(ふち)をさまようこと一カ月。奇跡的に一命は取り留めたものの、意識が戻った時、左半身の自由は完全に奪われていた。たたき上げで身につけた洋服仕立て・リフォームの技術も、もはやお手上げ。絶望に打ちひしがれ、一時はやけっぱちにも。だが、地域の同志の励ましがその背を温かく支えた。「皆、祈ってるよ」「頑張ってね」。執念のリハビリが続く。そして、ついに勝ち越える日が来た――。
 つらい現実が待っていた
 家族そろって新年勤行会に出掛けようとした矢先のことだった。野村さんは、着替えの途中、急に「気分が悪くなった」と布団に入った。その意識は、急速に薄れていく――。
 一緒に出掛けるはずの夫がいつまでも布団から出てこない。“おかしい……”。千津子さん(55)=婦人部員=は、肩を揺さぶろうとして、ハッとした。ただならない様子なのだ。大声で呼び掛けても、ピクリとも反応しない。気は動転してしまい、救急車を呼ぶ受話器は、小刻みに震えた。
 折悪(おりあ)しく、医療機関はどこも正月休み。岐阜赤十字病院の脳神経外科に運び込まれた時は、すでに五日になっていた。典型的な「くも膜下出血」と診断した医師は、救命医療の体制が整った県立岐阜病院への移送の手続きをとった。
 野村さんにとって幸運だったのは、双方の病院の脳神経外科の担当医が旧知の間柄で、移送の連携プレーが極めてスムーズにいったことだろう。
 転院後の精密検査で「動脈瘤(りゅう)破裂による」くも膜下出血と判明。しかも脳血管攣縮(れんしゅく)の合併症が認められた。麻酔を施すことも相当の危険を伴う。
 積極的な治療ができないまま、時間だけが過ぎていく。
 そうこうしているうちに、さらに深刻な事態が……。動脈瘤が破裂し、再出血が起きてしまったのだ。このままでは死亡の危険が一挙に高まる。
 一月二十七日、緊急手術が行われた。とにかく救命を急がなければならない事態。千津子さん、長女の枝美子さん=女子部員=ら家族が呼ばれ、今後の後遺症の問題、特に深刻な視覚障害などを残す心配の大きいことが伝えられた。
 朝九時から始まった手術は、七時間に及ぶ大がかりなものだった。
 「野村さんを死なせるわけにはいかん!」
 発作で倒れ意識を失ったまま、一カ月が過ぎようとしていた野村さんの手術に、地域の同志は、無事終了と回復を、九時間、十時間と、ひたぶるに祈り続けていた。
 “不可能をも可能に…”
 “ここは、どこだ。俺(おれ)は何をしているんだ。目が見えない。左の手足が全く動かない……”
 根治手術は大成功し、一週間後、意識を回復。懐かしい妻や娘の声を再び耳にすることもできた。だが、そこには自由を奪われたつらい現実があった。
 いら立ちから錯乱状態になり、寝間着を脱ぎ捨ててしまう。暴れ回って、あちこちに体をぶつけ、打ち身や生傷が絶えない。
 さんざんにスタッフの手を焼かせた。
 千津子さんが、携帯用お守り御本尊をベッドの高い場所に御安置。数珠をもたせた。声を潜めての、しかし真剣な唱題のなかで、野村さんは次第に冷静さを取り戻していった。
 社会復帰へのリハビリは、ことのほかつらかった。平行棒につかまり、まひした足を繰り返し振り上げる。まひした指一本一本を屈伸させる。そのたび、神経が引きちぎられるような激痛が走った。
 それでも、洋服仕立て・リフォーム業に早く復帰しなければとの思いで、耐えた。
 「縫製など細かい手作業ができるまで回復するのは無理」と、信頼する主治医から転職を勧められた時は、さすがにつらかった。
 しかし“不可能を可能にする信心”との指針がよみがえった。「湿れる木より火を出(いだ)し乾ける土より水を儲(もう)けんが如く強盛(ごうじょう)に申すなり」(御書一一三二ページ)
 “世話の焼ける患者”は“闘病に意欲的な模範の患者”へと一変していく。
 四月半ば、本格的なリハビリ訓練のため、岐阜赤十字病院へ転院。この時、杖(つえ)をつきながら歩けるほど左足は回復していた。だが黒紫色をした左手は回復の兆しが見えない。
 復職への執念は炎と燃える。真剣な祈りの勢いはさらに増した。そして迎えた四月末。ほんのわずかだが自分の意志で左手の指が動き始めた。試しに右手で杖をあてがうと、ちゃんと握れるではないか。
 希望の虹(にじ)が見えた。
 生き抜く喜びを伝えて
 五月二十一日に退院。週二回の通院に切り替わった。まだ杖を手放せない不自由さはあったが、生死の淵から蘇生し、闘病の大きなヤマを乗り越えた喜びは大きかった。
 「この素晴らしい信心を伝えたい」。以前から入会を願ってきた一人を、電車に乗って半日がかりで訪問すること三度。三度目の訪問の帰り、杖なしで歩ける自分に気が付いた。喜びが全身を包み、感激の涙がほおを伝った。
 残された課題は、仕立て・リフォームの仕事の再開だ。「針の穴に糸を通す」――この一番の基本さえ、退院当時はとてもできなかった。毎朝、勤めに出掛ける妻を見送ると道具箱を取り出して、縫製作業の練習を重ねた。中学校を卒業し、仕立ての修業をたたき込まれた当時の思い出が、胸をよぎる。だが感傷に浸っている暇はない。
 「調子はどう」「頑張って」。復帰を祈って、相次ぎ励ましに訪れる地域の同志。真心にこたえたかった。
 こうして仕上げた“復帰一作目”の背広のリフォーム。自信作のはずだった。ところが、注文した寿恵(すえ)林士(りんじ)さん(59)=支部長=は、受け取った品を身に着けて驚いた。ソデのボタンが反対に付いているではないか。調べると、不具合がいくつも見つかった。
 だが寿恵さんは、そっと別の洋服屋に直しを頼み、着用。「ようできとる。もう大丈夫や」と笑顔で、野村さんの肩をポンとたたいた。自信をもって頑張れ!――こんな同志の真心が、復帰を目指す野村さんの背を優しく押し、長年の修業で培った本来の技は見事に、その冴えを取り戻していったのである。
 「お願いしてた品物できたかしら?」「できとるよ。かっこよく直っとるでしょう」「ほんまや!」
 明るい対話が弾む店先で野村さんの笑顔が輝いた。
 医師の声/当時の主治医(県立岐阜病院脳神経外科医長)だった、三輪嘉明・揖斐(いび)総合病院脳神経外科部長
 入院直後の検査で破裂脳動脈瘤(りゅう)と判明しましたが、脳血管攣縮(れんしゅく)と呼ばれる合併症のため、直ちには手術ができませんでした。その後、合併症の悪化で意識レベルも低下。左半身は全く動かない状態になってしまいました。
 一月二十七日の根治手術後は、約三カ月間、リハビリテーションを中心にした治療を行って転院となりましたが、CT検査で多発性の脳梗塞(こうそく)が認められるなど、とても元の仕事に復帰できるとは思えない状況でした。
 ところが転院から数カ月後、野村さんを当時担当していた看護婦から「仕事をやってるみたいです」と報告があり、関係のスタッフ一同「よう頑張った。よかった、よかった」と大喜びしたことを覚えています。
 入院中も復職への意志が強かった野村さんですが、その努力に心から敬服します。
 メモ
 「くも膜下出血」 くも膜は脳の表面を覆う膜の一つ。この膜の下で脳脊髄(せきずい)液のたまっている部分(「くも膜下腔〈かくう〉」)に、何らかの原因で出血が起きたのが、くも膜下出血である。
 原因は、脳動脈瘤や脳動静脈奇形の破裂によることが多く、急激に始まる頭痛、吐き気、嘔吐、意識障害が代表的な症状。血腫(血の塊)が脳幹を圧迫したり、脳血管攣縮によって生命維持にかかわる部位の循環障害が起きると、死の危険も増大する。
 手術の適否や時期は、CTや脳血管造影などの検査結果、重症度、年齢などを総合して決められる。また、命を取り留めた後のリハビリも極めて大切な治療である。