越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【元亀元年8月下旬】

2014-04-06 20:25:06 | 上杉輝虎(謙信)の略譜

元亀元年(1570)8月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)  【41歳】


なおも、外様衆(揚北衆)の中条越前守景資(越後国蒲原郡の鳥坂城を本拠とする)・黒川四郎次郎平政(同じく黒川城を本拠とする)の同族間の所領相論における中条側の輝虎側近への不服の申し立てが続くなか、17日、側近の山吉孫次郎豊守(輝虎の最側近)らを伴って鷹狩りを催す。

同日、黒川側の取次を務める直江大和守景綱(輝虎の最側近)が、在府中の中条越前守景資の屋敷へ返状を届け、御書中の通り、ここしばらくは手が空いていなかったにより、御無沙汰してしまい、もどかしかったこと、よって、黒川方と仰せ結ばれている子細について、内々でもって何度も申し届けたとはいえ、承服できないとのことで、(輝虎の)御耳に立てられたいとのこと、すでに彼の地の件については、先年(天文24年)に塚原(信濃国更級郡)から(当時は長尾景虎の輝虎が)御帰陣の折、長慶寺(天室光育。輝虎の恩師)の御取り扱いをもって時宜落着したところ、今また新しく(主張を)仰せ立てられるのは、今さらながら道理を弁えない行為であること、 上様(輝虎)においても、たしかに前々の出来事で落着したところも御存知であり、またこのたびも(同様に)聞いて御承知された通りであるので、速やかに(黒川へ彼の地を)返し置かれるのが適切ではないかと思われ、このように申し述べたからとて、一方への肩入れをもって言うような、勝手はしないこと、御斟酌に勝るものはないこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、(このたびの御相論は)黒川方が申し立てられたものであること、およそ拙夫(直江)が彼方(黒川)の取次をも致すについて、(輝虎への御披露を)頼まれたので、(輝虎の)御耳へ立てたところ、速やかに聞いて御承知されたので、(中条は)そのように御心得られるのが専一であること、新尾(外様衆の新発田忠敦。忠敦の世子である源次郎長敦は中条景資の実弟の可能性がある。越後国蒲原郡の新発田城を本拠とする)にも(中条へ)意見を致すべきと、(輝虎の)御内儀であるから、かならず詳しくは彼方(新発田)から仰せ届けられること、御斟酌されるのが適当であること、詳細は山孫(山吉豊守)からも申し入れられること、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』793号 直江「景綱」書状 封紙ウハ書「越州 参御報 大和守景綱」)。

18日、中条側の取次である山吉孫次郎豊守が、中条越前守景資の屋敷へ返状を届け、昨晩に御書中を預かったこと、すぐにでも御返答に及ぶべきであったとはいえ、御使いが見聞された通り、御差し障りなどがあって準備が整わなかったので、御返答できなかったこと、いささかも(中条を)ぞんざいにつもりはないこと、されば、黒河方との御相論について、繰り返し拙者(山吉)へ御頼みにより、とりもなおさず披露に及び、(その結果を)速やかに御挨拶を申し入れるべきでありながらも、思慮しなければならない点が多いにより、見送ったこと、これでは、(中条が)拙者に御頼みのところ、(山吉の)手落ちのように思われるかもしれないので、以前から二度も貴殿(中条)の御存分の通りを、一旨も漏れなく(輝虎へ)申し上げたこと、そうしたところに、先年のとつさか(越後国蒲原郡奥山荘の鳥坂城)への御帰城時における不満などを事細かに申し立てられ、そのうえ、貴殿はただ今、彼の地(黒川との相論)の件について、御存分(異議)を申し立てられたのは御不審であるとのこと、拙者(山吉)においては、貴殿(中条)から仰せ越された以外の事情に存じていないので、 (輝虎の)御諚の通りを御使いに詳しく申し述べたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、この一件に限らず、貴殿の御立場をいささかも侮り軽んじる考えはないので、どのようにも御存分を遂げられるように心得ていること、そうではあっても、 上様(輝虎)の御諚を承る時には、(どのような結果であっても受け入れるほか)どうしようもないこと、詳細は御両使に申し達したこと、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』794号 山吉「豊守」書状 封紙ウハ書「越州 参御報 山孫 豊守」)。

同日、山吉孫次郎豊守が、中条越前守景資の屋敷へ即刻、返状を届け、二通りの御書中を披読し、よって、黒川殿との御論地の件について、以前から仰せ下さっているので、とりもなおさず披露するべきでありながらも、繰り返し御返答に及んでいる通り、第一は、急いで取り次ぐべき事案とは知らず、また承るところでは、彼の御論地の件については、先年に本美(本庄美作入道宗緩。俗名は実乃。当時は越後国長尾家の奉行人であった)が御取り扱いされて、解決した事案であるそうなので、(山吉は)黒河殿の言い分を承っていないこと、もっとも前回の経緯を知らないまま、軽々しく披露しては、 上様(輝虎)の思索のところを混乱させてしまうことになり、幸いにも本美は入庵(中条越前守の前代にあたる中条弾正忠か)の時から御奏者を務めていたわけであるから、彼方(本庄宗緩)へもしっかりと仰せ届けられるのが適切であること、そのようであれば、御不審のところを(輝虎へ)繰り返して申し上げ、よくよく(相手の)弱みを把握しないまま(輝虎へ)申し上げても、また、 (輝虎の)御前において黒河方の存分をよく存じている方(直江)が、(輝虎へ)色々と申し上げたならば、そのまま、 (輝虎の)御前において不利な状況で審理が進んでしまうので、これはどうかと思い、先送りしたこと、しかしながら、こうした不十分な状態で審理に臨むように御覚悟されているのならば、ただ今でも仰せになられた通りだけは、披露に及ぶのは容易いこと、なお、(詳細は)御使いへ申し述べたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、前日は御書中を預かったところに、ついに御返事できなかったのは、申し訳ないこと、(山吉は)昨日は御鷹野(鷹狩り)の御供をし、留守中の件はなおさら存ぜられなかったこと、某(山吉)が留守の者に尋ねたところでは、彼の御文を御使いのかたが持ち帰られたと、今朝方に申していたこと、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』795号 山吉「豊守」書状 封紙ウハ書「越州 参御報 山孫 豊守」)。

同日、在府中である外様衆(揚北衆)の新発田尾張守忠敦が、中条越前守景資の屋敷へ返状を届け、二通りの御捻を披読したこと、時勢においては以前に御使いへ申し述べた状況に変わりはないこと、このうえのことは、何分にも (輝虎の)御意次第になされるべきこと、いささかも小理屈などを仰せになっては、無意味であると思うこと、ならびに(中条が)証文を山孫(山吉豊守)へ御渡しになったこと、(証文を)ひょっとしたら紛失など致されるような事態があるかもしれないので、其元(中条)からも取り扱いの注意をしっかりと仰せ届けられるべきであること、老拙(新発田)のところへは山孫からは何の連絡も寄越されていないこと、ただ今(中条が寄越された)御ふみの内容については、(山吉の)返事を得てから寄越されたものなのかどうなのか、承りたいこと、これらを畏んで伝えている。さらに追伸として、御ふみの内容を見た限りでは、不安な思いであること、重ねて、 上様(輝虎)へ御意を得られたうえでの御返事なのかどうなのか、承りたいこと、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』790号 新発田忠敦書状 端裏ウハ書「越州 御報 尾張守 より」)。

20日、山吉孫次郎豊守が、中条越前守景資の屋敷へ返状を届け、仰せの通り、昨日は、 上様(輝虎)の御挨拶の通りに(中条へ)申し述べたところに、(中条から)重ねて彼の御証文が届けられたこと、披読し、その旨には由緒があること、大事な御証文であるので、(山吉が)内々に一時でも保管しているのは、どうかと思っていたところに、幸いにも(中条から)御返却を求められたので、とりもなおさず返却すること、なお、御使いへ申し達したこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、御証文数、以上三通を返却すること、以上、これを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』796号「越州 参御報」宛山吉「豊守」書状)。

21日、山吉孫次郎豊守が、新発田尾張守忠敦の屋敷へ返状を届け、仰せの通り、近日は御目にかかる機会がなかったこと、心配申し上げること、よって、越州(中条)から御証文が寄越されるも、大事な家伝文書であるので、写しを取って本文を返却したこと、これについて、貴殿(新発田)と相談し合って、彼の写しを拠りどころとし、重ねて、 (輝虎の)御意を請けるべきと思われるも、昨今は、(輝虎に)御支障などが多いゆえに延引せざるを得ず、事の次第は、後刻に掃部助(豊守の族臣であろう)をもって申し述べること、只今は出仕しているので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、御鷹(鷹狩りの獲物)の鴫三羽を頂戴したこと、ひときわ御賞味に預かること、これを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』797号 山吉「豊守」書状 端裏ウハ書「尾州 御報 孫次郎 豊守」)。

同日、新発田尾張守忠敦が、中条越前守景資の屋敷へ書状を届け、あらためて申し上げること、よって、山孫へ彼の一件について、拙夫(新発田忠敦)から(御披露を)催促を致したところ、(山吉から)このように返事があったこと、「毛頭も野拙(山吉)は(中条越前守を)見除申す(見放すつもり)には、これなく候、さりながら、 屋形様(輝虎)はかたん気成義など(どちらかに肩入れするなどといったことは)御嫌に候間、(山吉からは)指出(余計な口出し)候而申さず候、心底においては、(中条を)少しも疎略を存じなされず候」というもので、後刻に(使者の山吉)掃部助を(新発田の屋敷へ)寄越すつもりであると申されており、(山吉掃部助が)到来したら、重ねて申し述べること、またぞろ、畏んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも(山吉は)毛頭も心底において(中条を)疎略に扱う考えなどないこと、かしく、様々については重ねて申し述べるので、(この紙面は)省略すること、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』801号 新発田忠敦書状 封紙ウハ書「越州 御宿所 尾張守 より
」)。

同日、新発田尾張守忠敦が、中条越前守景資の屋敷へ返状を届け、御書を披読したこと、よって、山孫もよろず取り込んでいるので、(輝虎の)御機嫌を見計らって披露に及ばれるつもりであり、すぐには難しい状況なので、(山吉は)明日は出仕を致されないこと、先に(山吉へ)御使いを差し向けられるのが適当であると思われること、今夕のことは、夜分に入るため、まずまず御延引された方が良いであろうこと、詳しくは、御使いへ申し述べるにより、(この紙面は)省略すること、これらを畏んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、我等(新発田)においてもどうにもし難いこと、(中条の)御存分が(輝虎が)聞いて御承知されるように致したくても、万が一このように立ち回っている様子などが、(輝虎の)御耳へ入っては、かえって事態を悪化させてしまうと思いあぐねていること、本美(本庄宗緩)だけはさおさお御身(中条)を以前と変わらず気にかけてくれていること、(中条の)御存分の通りを(宗緩へ)申し届けたこと、詳しくは御使いが御説明されるであろうこと、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』791号 新発田忠敦書状 端裏ウハ書「越州 御報 尾張守」)。

22日、かつて輝虎の長尾景虎期の最側近で現在は一線を退き、五・六日に一度ほど出仕する身ながら、何かと駆り出される老齢の本庄宗緩(美作入道。俗名は実乃)が、中条越前守の屋敷へ返状を届け、仰せの通り、ここ数日は申し承らず、御床しい次第であったこと、よって、愚入(宗緩)の煩いとは老病であるにより、今になってもしっかりとしていないこと、されば、(中条が)御詫言の旨は、決して山孫(山吉豊守)は私情を挟んではならないので、各々方からも彼方(山吉)に御説明されるのが適切であること、吾等(宗緩)も孫次郎(山吉豊守)の所へ様子を問い尋ねるつもりなので、御安心してほしいこと、なおなお、御道理についても、(宗緩が山吉へ)申し届けるつもりであること、(宗緩は中条を)いささかも疎略に扱う考えはないこと、心に迫る御懇書に預かったこと、恐れ多い次第であること、是非にも(体が)達者になったならば、対応させてもらうこと、(中条の存分の)一切を申し承るつもりであること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、是非にも達者になったならば、対応させてもらうこと、一切を申し承るつもりであること、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』798号 本庄「宗緩」書状 礼紙ウハ書「越州 参御報 本庄入道 宗緩」)。


23日、また鷹狩りを催す。


24日、新発田忠敦が、中条越前守の屋敷へ書状を届け、あらためて申し上げること、昨日は(留守中に)御使いを給わったこと、恐れ多く思っていること、(昨日)鷹野へ参上したので、(山吉に)様子をそっと伺ったこと、さりながらも以前とは様子が変わったようであるので、(状況が)良くなるものと考えていること、山孫(山吉)からはまだ掃部(山吉掃部助)は寄越されていないこと、おそらく(山吉は輝虎の)御目へはすでに立てられたのではないかと思われること、そうでなければ、(山吉から)内々に御挨拶もなかったであろうこと、そういうわけで、鷹の鴫(灰鷹・隼)二本を進上すること、雲雀の時期はもはや過ぎてしまったので、(獲物は)御ざらぬこと、是非とも面上をもって、一切を申し述べるので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、返す返すも、まずまずこれまでよりもよろしい様子であるので、そうなるはずであると考えていること、(中条も)きっと御同意されるであろうこと、是非とも面談をもって申し述べるつもりであること、(この紙面は)省略すること、以上、これらを申し添えている(『上越市史 上杉氏文書集一』800号 新発田「忠敦」書状 端裏ウハ書「越州 御宿所 尾張守 忠敦
」)。



こうしたなか、友好関係にある遠(三)州徳川家康の使僧である権現堂叶坊光幡が到来し、22日、同盟関係とするために、徳川家康へ宛てて返状を調えた。

同日、遠(三)州徳川家の宿老である酒井左衛門尉忠次へ宛ての初信となる自筆の書状を認め、これまで申し遣わしてはいなかったとはいえ、一筆申し上げること、よって、(徳川)家康からわざわざ使僧(権現堂光播)を寄越されたのは、誠に大慶に勝るものはないこと、これからにおいては、(徳川家と)唯一無二に申し合わせていきたい心積もりであること、かくして、取り成しを頼み入ること、されば、見立てに自信はないといえ、兄鷹(雄の鷹)を遣わすこと、末永く繋ぎ置かれるならば、喜悦であること、これらを恐れ謹んで申し伝えた(『上越市史 上杉氏文書集一』931号「酒井左衛門尉殿」宛上杉「輝虎」書状【花押a4】)。

同日、同じく松平左近允(真乗。大給松平氏)へ宛ての初信となる直筆の書状を発し、これまでは申し遣わしていなかったとはいえ、一筆申し上げること、よって、家康からわざわざ使僧を寄越されたのは、誠に大慶に勝るものはないこと、これからにおいては、唯一無二に申し合わせていきたい心積もりであること、かくして、御取り成しを頼み入ること、なお、委細は彼(権現堂)の口上にあること、これらを恐れ謹んで申し伝えた。さらに追伸として、真羽(真鳥羽。矢羽をつくる鷲の尾)二十尾を、遠方から到来した物を差し遣わすこと、誠にわずかばかりであること、これらを申し添えた(『上越市史 上杉氏文書集一』932号「松平左近允殿」宛上杉「輝虎」書状写)。

同日、ここに至るまでの徳川家との通交に関与していなかった直江大和守景綱(輝虎の最側近)が、これまで携わってきた河田豊前守長親(大身の旗本衆。越中国魚津城代)の代理として、遠(三)州徳川家の宿老である石川日向守家成(遠江国懸川城代)へ宛てた条書を認め、覚、一、ここしばらくは申し承らなかったにより、御心配していたところ、(家康から)わざわざ御使僧が到来し、喜悦であること、一、権現堂(叶房光播。三河国秋葉寺の別当)」の口上の趣は、御頼もしく思っていること、この補足として、信長(濃(尾)州織田信長)と義景(越前国朝倉義景)の御一和について、家康と相談し合いたい内儀であること、一、信玄(甲州武田信玄)の表裏は、親子の情愛も知らず、家臣の忠信も知らず、そして誓詞血判の重みも知らないこと、一、相・越はまず一和をもって、多くの言葉を尽くし、信玄を討ち果たす所存であること、一、彼(権現堂から)の口上、同じく信長の御臆意(の通りとなるのが)が肝心であると思われること、かくして、御斟酌されたうえで(信玄への)御対策を講じてほしいこと、そしてまた、誓詞を互いに取り交わすべきであろうかのこと、この補足として、(本来の取次である)河田豊前守は越中在国であるので、愚拙(直江景綱)が代わりに申し入れたこと、以上、これらの条々を申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』933号「石川日向守殿」宛「直江大和守景綱」条書写)。

30日、遅れて河田長親からも、松平左近允へ宛ての初信となる書状を認め、これまで申し交わしていなかったとはいえ、申し達すること、もとより長年にわたって家康と輝虎が格別に申し合わされてきたについて、このほど権現堂(叶坊光播。徳川家康の使僧)をもって、御懇情を仰せ越されたのは、(輝虎は)ひときわ祝着の旨を、(家康へ)御知らせに及ばれたこと、これにより、貴所(松平左近允)へも直札をもって申し述べられたこと、ますます(両家が)唯一無二の御入魂をように、御取り成しを仰ぐところであること、拙者も若輩ながら、御取次を務めるに過ぎない、自分においても相応の件があれば、御隔心(馴染まない態度)なく承ること、(役目を)疎かにはしないこと、なお、詳しくは彼(権現堂)の口上にあるので、(この紙面は)省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』935号「松平左近允殿 御宿所」宛河田「長親」書状写)。


※ 徳川氏との外交については、栗原修氏の論考である「上杉氏の外交と奏者 ―対徳川氏交渉を中心として―」(『戦国史研究』32号)を参考にした。以下、越・三(遠)同盟については同論考を参考にする。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)

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5 コメント

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『上様』呼称について (高村)
2014-04-26 02:50:30
いつもながら参考になる記事で、大変勉強になっています。さてまたお教えいただきたいのですが、山吉らは上杉輝虎を原文でも『上様』と呼んでいるのでしょうか。後北条は上に関東公方がいるため名乗ったことはないのですが、今川氏では散見されています。『屋形』とどう違うのかいつか調べたいと思いつつ、なかなか果たせません。ご知見拝借できますと幸甚です。

また過日は年比定で的確なご教示ありがとうございました。深く納得できました。輝虎は名乗りが変わってはいるものの、越中・北信・上野か国内鎮圧というパターンを何度も繰り返しているように見えて、それはそれで年比定が難しそうだと傍目に思っていました。でも、ご説のように着実に紐解くことで比定が進んでいるのですね。
上杉輝虎に於ける「上様」と「屋形様」の尊称について1 (こまつ)
2014-04-28 20:16:21
 遅くなりまして申し訳ありません。こちらこそ色々と勉強させてもらっています。

 早速、お尋ねの件ですが、この越後奥郡国衆の中条と黒川の境界地相論に関与した山吉豊守らは、原文でも上杉輝虎を「上様」、若しくは「屋形様」と尊称しています。但し本庄宗緩だけは、「御実城」、若しくは「屋形様」と尊称しています。こうして見ると、輝虎期の越後上杉家に於いては、「上様」と「屋形様」は同義で用いられたように思えてなりません。でも普通は「上様」の方が「屋形様」より上位なのですから、こちらの可能性も探ってみました。

 すみませんが、ここで一旦、終わらせてもらいます。
上杉輝虎に於ける「上様」と「屋形様」の尊称について2 (こまつ)
2014-04-30 20:03:00
 先日の続きになります。

 初めは今回の件について、上杉輝虎は、越後上杉家優位の越・相同盟が成立したのに伴い、関東の盟主であるとの自負から(あまり関東公方の足利義氏を気にかけている様子もないので)、「上様」と尊称されることを望んだのかと思ったのですが、すでに同盟成立以前から「上様」と尊称されていました。こうなると輝虎は、関東管領山内上杉家の名跡を継いだのに伴い、「上様」と尊称されることを望んだといえるでしょうか。

 しかしながら、輝虎が「上様」と尊称された文書は、上杉家中(養子の上杉景勝や越後奥郡国衆も含む)及び、それに極めて近い越中国味方中の神保家中と出羽国味方中の大宝寺家中に限られますので、そこでのみ通用していたようです。

 このように限定的ではありますが、越後上杉家に於いても「上様」は「屋形様」を上回る尊称として用いられていたようです。

 とは言ったものの、あまりにもサンプルが少ないので、はなはだ心許なく、むしろ今川家を始めとする他家の用例を知りたいくらいです。

 すみません、高村さんに投げ返しちゃいました。
屋形と上様 (高村)
2014-05-01 23:08:05
お調べいただきありがとうございます。越相同盟で輝虎が獲得したのは「山内殿」という呼称を後北条氏に使わせることだったと思います。しかし、家中であっても「上様」と呼ばせた実力は大きいですね。意外でした。

関東ですと、「上様」はやはり古河公方のみが用いていたようです。政氏と高基が抗争していた際に矢野憲信が「両上様」と書いています。

その他は、関東八屋形と言われるように、守護系統の大名は「屋形」を称したようです。今川・武田といった守護系は屋形号です。

輝虎と同じ守護代系だと、織田は急激に成長して一気に「上様」までいっているようですが、朝倉・尼子辺りは屋形号で止まっていたのではないかと思います(この点は憶測ですけれど)。

後北条は元々「今川屋形」の下にいました。独立してからは「屋形」となったものの、古河公方を意識して独自の「大途」と呼ばせています。この点は異色だと考えています。

家中の狭い範囲では、『北条幻庵覚書』が参考になると思います。私のサイトではアップしていませんが、検索すればすぐに原文が出てきます。ご参考まで。

※「殿様」名称まで含めると、結構複雑かも知れません。
上杉輝虎に於ける「上様」と「屋形様」の尊称について3 (こまつ)
2014-05-02 07:46:15
 こちらこそありがとうございました。

 こうした敬称も気にしてみると面白いものですね。これまで「北条幻庵覚書」は、ざっとしか目を通していなかったので、この機会に読んでみます。

 ひとつ忘れていました。元亀元年10月8日に徳川家康の使僧である権現堂光播が、上杉謙信(輝虎)の側近である直江景綱に宛てた書状(『上越市史』944号)のなかで、謙信のことを「御屋形様」とも「上様」とも尊称しています。この「上様」については、権現堂は徳川家の宿老(取次)ではなく使僧でありますし、また、同年8月には輝虎と直談しているわけですから、取り分け気を遣った表現をしてもおかしくはないと考え、特殊な用例として除外しました。

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