シアターコクーン、2014年11月8日ソワレ。
1871年9月、パリのモーテ・ド・フルールヴィル家に16歳の少年アルチュール・ランボー(岡田将生)が現われた。彼の詩才に驚嘆しパリへ呼び寄せたのは、すでに詩人として名声を得ていた27歳のポール・ヴェルレーヌ(生瀬勝久)。18歳の妻マチルド(中越典子)の実家フルールヴィル家に居候していたのだ…
作/クリストファー・ハンプトン、翻訳/小田島恒志、演出/蜷川幸男。1968年初演、95年にはレオナルド・ディカプリオのランボーで映画化(邦題は『太陽と月に背いて』)。全2幕。
『危険なメソッド』は映画の試写を観た気がするけど、つまらなかった記憶があるな…88年の映画『危険な関係』というのは私が知っているものかしらん?
それはともかく、知らない作家かと思っていたら意外とこれまで接点はあったのでした。ただし有名な『太陽と~』は未見です。「ランボーとヴェルレーヌ」と言えば「のように」をつけるという、竹宮惠子作品での知識程度しかないままに観ました。
仰天したのは、これが初舞台だという岡田くんが実に素晴らしかったこと。前日に女ふたり芝居を観ていましたが今回は他のキャラクターが点景的に現れる以外はほぼ男ふたり芝居。その一方を、というか主役を、まったく問題なく、ただただランボーとして、自然に、自在に、演じていました。すごい!
A席だったし、若いから、美男子だからランボーに見えるとか、そういうことではないのです。顔なんか見えない遠目でも彼がランボーとして舞台にいられていることがわかるのです。たいしたもんだなあ。
お話の流れはほぼ史実のとおりだそうです。すごいよな。しかし何故男性作家は決定的な場面を書かないのだろう…次の場面ではもうデキてたとかつまんないじゃん!(下世話)
イヤでもいいのです、別にBLを観に来たわけじやないし、それで言うなら史実がどうであれハゲヅラとかやめてくれとか言いたいことは別にできてしまうので。
でも三角関係ってホント誰かが死ななきゃまとまらないというか、刃傷沙汰になってかつ関係が散開して終わるしかない、ってのは世の理なんでしょうかね…
このヴェルレーヌはホントにただの男で、フツーの男で、だからこそしょーもなくて、でもランボーは彼に最初に出会っちゃったんだからどうにもできなかったんだよね。
同性同士だし自分たちは結婚できないけれど、でもヴェルレーヌがマチルドと結婚しているのはイヤで離婚させたがったんだよね、わかるよ。マチルドと結婚しているヴェルレーヌが嫌いだったんだよね、でもヴェルレーヌのことは好きで、それが同一人物というかひとりの中に共存しているのが許せなかったんだよね、わかるわ。
「ひとつだけ耐えられないのは、なんだって耐えられるってことだ」、刺さったわ。
でも男はどっちも好きだししょうがないじゃんとか言うんですよホント、なんなんだろうね。ランボーが詩もヴェルレーヌも捨てて生きた後半生は語られることが少ないのだけれど、それは決して空虚だったこととイコールではないので、彼がそれなりに幸せであったことを祈らざるをえません。
ヴェルレーヌはいいのよ、最後は困窮して死んだんだろうと、本人は不満タラタラだったんだろうと、こういう人はいつでも幸せなの、最後まで幸せなのよ。詩は魅力的だが魅力的な詩人ではない、というのはそういうことよ。そしてランボーは詩ももちろん魅力的でありそれ以上に詩人として魅力的だったわけですよ。彼が詩作をしたのは若き日のほんの一時だったにもかかわらず、結局は詩人として一生を生きた…というか、その生き様が詩になった、というのは言い得て妙だと思いました。
蜷川さんが「イケメン俳優」について書いたごくつまらないコラム(と私には思われた)が意外と波紋を呼んでいますが、蜷川自身は消費していないのか、また消費の対象とされていないのか、たとえばかつてランボーはそうであったのか、今回舞台に描かれたランボーはどうなのかとかつきつけたいですけどね、とはちょっと思いました。
発信されるものはすべて受信するものの存在なしでは成立しない、シュレディンガーを持ち出さなくてもそんなことは世の当然の理です。それを「消費」なんて言葉にするなんて、天に唾するようなものではないの? そうすることで自分が唾を受けたかったのかもしれないけれど、だったら自分だけでやってほしいわ。人を巻き込まないでいただきたい。
消費だろうがなんだろうが育つものは育つ、作者でも役者でも観客でも。今日も私はそれを観た、そんなことも考えました。
音楽はヘンにベタでしたが美術は美しかったな。ゆっくり間を取る場面転換も味があってよかったです。
しかし何故蜷川作品はいつも場面の日時と場所をわざわざ電光掲示板に出すのかな…戯曲にあるのかもしれないけれどあまり意味も効果もなくないか? 私はわりと目障りに感じるのですが…
そこにも並々ならぬこだわりがあるのならすみません。
1871年9月、パリのモーテ・ド・フルールヴィル家に16歳の少年アルチュール・ランボー(岡田将生)が現われた。彼の詩才に驚嘆しパリへ呼び寄せたのは、すでに詩人として名声を得ていた27歳のポール・ヴェルレーヌ(生瀬勝久)。18歳の妻マチルド(中越典子)の実家フルールヴィル家に居候していたのだ…
作/クリストファー・ハンプトン、翻訳/小田島恒志、演出/蜷川幸男。1968年初演、95年にはレオナルド・ディカプリオのランボーで映画化(邦題は『太陽と月に背いて』)。全2幕。
『危険なメソッド』は映画の試写を観た気がするけど、つまらなかった記憶があるな…88年の映画『危険な関係』というのは私が知っているものかしらん?
それはともかく、知らない作家かと思っていたら意外とこれまで接点はあったのでした。ただし有名な『太陽と~』は未見です。「ランボーとヴェルレーヌ」と言えば「のように」をつけるという、竹宮惠子作品での知識程度しかないままに観ました。
仰天したのは、これが初舞台だという岡田くんが実に素晴らしかったこと。前日に女ふたり芝居を観ていましたが今回は他のキャラクターが点景的に現れる以外はほぼ男ふたり芝居。その一方を、というか主役を、まったく問題なく、ただただランボーとして、自然に、自在に、演じていました。すごい!
A席だったし、若いから、美男子だからランボーに見えるとか、そういうことではないのです。顔なんか見えない遠目でも彼がランボーとして舞台にいられていることがわかるのです。たいしたもんだなあ。
お話の流れはほぼ史実のとおりだそうです。すごいよな。しかし何故男性作家は決定的な場面を書かないのだろう…次の場面ではもうデキてたとかつまんないじゃん!(下世話)
イヤでもいいのです、別にBLを観に来たわけじやないし、それで言うなら史実がどうであれハゲヅラとかやめてくれとか言いたいことは別にできてしまうので。
でも三角関係ってホント誰かが死ななきゃまとまらないというか、刃傷沙汰になってかつ関係が散開して終わるしかない、ってのは世の理なんでしょうかね…
このヴェルレーヌはホントにただの男で、フツーの男で、だからこそしょーもなくて、でもランボーは彼に最初に出会っちゃったんだからどうにもできなかったんだよね。
同性同士だし自分たちは結婚できないけれど、でもヴェルレーヌがマチルドと結婚しているのはイヤで離婚させたがったんだよね、わかるよ。マチルドと結婚しているヴェルレーヌが嫌いだったんだよね、でもヴェルレーヌのことは好きで、それが同一人物というかひとりの中に共存しているのが許せなかったんだよね、わかるわ。
「ひとつだけ耐えられないのは、なんだって耐えられるってことだ」、刺さったわ。
でも男はどっちも好きだししょうがないじゃんとか言うんですよホント、なんなんだろうね。ランボーが詩もヴェルレーヌも捨てて生きた後半生は語られることが少ないのだけれど、それは決して空虚だったこととイコールではないので、彼がそれなりに幸せであったことを祈らざるをえません。
ヴェルレーヌはいいのよ、最後は困窮して死んだんだろうと、本人は不満タラタラだったんだろうと、こういう人はいつでも幸せなの、最後まで幸せなのよ。詩は魅力的だが魅力的な詩人ではない、というのはそういうことよ。そしてランボーは詩ももちろん魅力的でありそれ以上に詩人として魅力的だったわけですよ。彼が詩作をしたのは若き日のほんの一時だったにもかかわらず、結局は詩人として一生を生きた…というか、その生き様が詩になった、というのは言い得て妙だと思いました。
蜷川さんが「イケメン俳優」について書いたごくつまらないコラム(と私には思われた)が意外と波紋を呼んでいますが、蜷川自身は消費していないのか、また消費の対象とされていないのか、たとえばかつてランボーはそうであったのか、今回舞台に描かれたランボーはどうなのかとかつきつけたいですけどね、とはちょっと思いました。
発信されるものはすべて受信するものの存在なしでは成立しない、シュレディンガーを持ち出さなくてもそんなことは世の当然の理です。それを「消費」なんて言葉にするなんて、天に唾するようなものではないの? そうすることで自分が唾を受けたかったのかもしれないけれど、だったら自分だけでやってほしいわ。人を巻き込まないでいただきたい。
消費だろうがなんだろうが育つものは育つ、作者でも役者でも観客でも。今日も私はそれを観た、そんなことも考えました。
音楽はヘンにベタでしたが美術は美しかったな。ゆっくり間を取る場面転換も味があってよかったです。
しかし何故蜷川作品はいつも場面の日時と場所をわざわざ電光掲示板に出すのかな…戯曲にあるのかもしれないけれどあまり意味も効果もなくないか? 私はわりと目障りに感じるのですが…
そこにも並々ならぬこだわりがあるのならすみません。