駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『AfO』に吹く風

2017年08月13日 | 観劇記/タイトルあ行
 宝塚歌劇月組『All for One』大劇場公演初日と二日目11時、千秋楽近くの8月12日にダブルの観劇をしてきました。
 楽しい! よくできてる!! この良さについては理屈でくだくだ言いたくない、おもしろいからみんな早く観てー!とだけつぶやいてきましたが(ウソ。いろいろあれこれわあわあ語りはした)、やっぱりこの場所で理屈でくだくだ語りたくなってしまったので、書きつけてみました。毎度ワガママ勝手ですんません。
 本当は、比べて語るのってあまり良くないことだとはわかってはいるのです。でも大劇場の活気を見るにつけ、客入りはいいようですが日比谷の沈痛な空気のことを私は思い起こさないではいられないのです。
 邪馬台国には吹かなかった風が、こちらでは確かに吹いていました。それは何故か、風って結局なんなのか、それをここでは語りたいのです。

 『AfO』については、いい意味でも悪い意味でも、中身ないじゃんカラッポじゃん、という意見があることも知っています。でも、本当にそうかな? あるいは、ほめている意味でそう表現されていてもほめているように聞こえないことが多いし言う方もそう感じていたりするんだけれど、でも本当に中身がないことってほめられないことかな? あるいは本当に中身がないかな? そんなことないんじゃないかな、実はすごく難しくて大切なことを今回イケコは(まあもしかしたら生田先生かもしれないけど)やりとげているんじゃないのかな?
 日本人って、小難しくて理屈っぽくて深そうで渋そうなものを高尚っぽいってありがたがりすぎるところがあると思うんですよね。まして宝塚歌劇ファンなんて、他の趣味や娯楽よりこっちの方が独特である種文学的だとか思ってそうじゃないですか。偏見だったらすみません、あるいは単に自分がズバリそういうタイプだってことがはからずもバレているだけかもしれない書きっぷりですみません。
 そう、私自身は、暗くて深くて渋い、もっといえばしんねりして辛気臭い、悲劇の方が好みなんですよ。想いは通じた、愛は成就した、志は通された、しかし命は失われた…みたいな終わり方のドラマの方が好きなんです。報われない人生のむなしさや世の中の理不尽さに絶望して泣き、だから今の社会は駄目なんだと怒り呪い悔しくて泣き、その中で志を貫きしかし道なかばで倒れたキャラクターたちのせつなさ気高さ美しさに泣いて、そして泣くことでスッキリした気になりたいタイプの人間なんです。自分でもヤラしいなとは思っています。
 難しいテーマだけれど、たとえば一番好きな宝塚歌劇の作品って何?ってなったときに、悩んで悩んで、とりあえず『琥珀』とか『バレンシア』とか『コルドバ』とかを挙げてしまうと思うんですよね私って(結論は未だ出ていません。理想の、究極の一作を求めて観劇し続けているのかもしれません)。柴田スキーだし、こういうタイプのロマンス、悲劇が好みなんです。『金色』を挙げないのは、あれはふたりとも死んで終わるのでそこで世界が終わってしまってあとはどうでもよくなってしまっているからです。でも世界は続いているでしょ? 私たちは残されて、未だその世界で生きているでしょ? もちろんこの作品だってたとえばジャーとかは生き残っているんだけれど、やはり主役ふたりのうちのどちらかは残っていて、私たちと同じでいてくれないとダメなように私は感じます。だからくーみんなら『月雲』が一番好きかな。あれも主役ふたりは死んで終わるけれど同時に死んでいるわけではないし、残されたキャラクターの重さとして穴穂はジャーより断然勝っていると思うのです。残された者がちゃんといるという意味では『星逢』もそうだけれど、まああくまで好みの問題としてあれは私にはちょっとしょっぱすぎたかな…そしてそれで言うと『』は大好きなんだけどややヌルいとも感じるので…って、いやまあちょっと脱線しました。
 とにかく私はこういうタイプの作品の方が好みなんだけれど、でもたとえば卑近な例で言えば(卑近言うな)『王妃の館』でもいいけれど、真の悪人が出てこない、誰も死なない、ハッピーミュージカルっていいね!みたいな感覚って一方であるじゃないですか。まあミーマイとか。老若男女万人が楽しめて笑顔になれておおらかになれて、世界って明るいと信じられるような、希望と幸福しかない未来をあっさり信じさせてくれるような…そういう作品が与えてくれる幸せな感情にもっと素直になりたいし、なるべきなんじゃないかなってことを言いたいんです。
 だから中身ないけどおもしろいなんて奥歯にものの挟まったような言い方じゃなくて、もっと開けっぴろげに真っ正面からオープンマインドで全方向に認めたっていいんじゃないの? これはいいよ、素晴らしいよ、これこそエンタメが目指すべき形だよ!って。だってエンタメって人を幸せにするために作られるべきものですもんね? 
 『AfO』はおもしろい。原作というか元ネタはあるにしても、日本のオリジナル・ミュージカルとして、ひとつの頂点を極めたのではあるまいか、くらい言ってしまってもいいのではあるまいか、ってことです、つまり。
 私は日本のミュージカルには楽曲の弱さを感じることが多いのだけれど、これは、たとえばすごく高度な五重唱とかがあるワケではないにしろ、ある程度幅のあるいろいろな曲があったことやわりとキャッチーな曲が多かったことなど、なかなかに健闘していて評価していいとも思うのですよ。その点でもちゃんとしている。

 イケコって、デビュー作が『ヴァレンチノ』だったんだからホント天才だなとは思いますし、海外ミュージカルの翻案の腕は本当に素晴らしいです。でも一方でオリジナルではいろいろやらかしていますし、原作や史実、元ネタがあるものでもその出来はぶっちゃけさまざまです。『カサブランカ』は私はよくできていたと思うけれど役が少なすぎたかなーという宝塚歌劇としてはけっこう致命的な弱点があったと思っていますし、『眠らない男』も私はわりと好きだったんだけれどロマンスの在り方がやっぱり宝塚歌劇としてはしょっぱすぎましたよね。『銀英伝』もよくできていたと思うのだけれどラブは弱かったし、ああいうジャンルは意外と観る人を選ぶという難点もあったと思っています。『PUCK』は再演もされたし、いい作品ですよね。『オーシャンズ11』も再演されましたし、これもわりとちゃんとしていたと言っていいかな?(でもイリュージョンというか奇術というものを誤解しているとは思う) 『太王四神記』もよくできていたと思います。『るろ剣』はオリキャラのジェラ山さんの造形に問題があったため物語としては崩壊していたと私は考えていて、その他のキャラの再現性の素晴らしさは生徒に帰すものだし、作品としての私の評価はかなり低いです。
 でもイケコはそういう数々の経験や失敗から学習し弱点を克服し改造しチューニングしブラッシュアップして、最新作はきっちり仕上げてきたわけですよ。どうにも脚本の上がりが遅かったらしいのでたまたまなんじゃないのとか実のところは演出補の生田先生の手腕なんじゃないのとか邪推もいろいろありますが、製作発表のときのコンセプトからストーリーを大きく変えてきたらしいことは確かで、そんなことはやはりイケコ当人にしか決断できないことでしょう。一番違っていたのはモンパンシェ公爵夫人のキャラクターだから、いわゆるミレディー・ポジションにあったこのキャラとそれに絡むおそらく陰謀の筋をばっさりカットして今のものを残したんだと思うんですよね。何を残し何を生かすかの取捨選択は大事です、そしてイケコはその勝負に勝ちました。残されたものは、シンプルなラブコメとチャンバラ。すなわち大・正・解、です!
 芸術とか創作って、もちろん天才が今までと全然違うレベルのものを突然生み出してしまうことももちろんあるけれど、結局ある程度はテクニックとセンスできっちり仕上げられるひとつの技能でもあって、イケコは天才でもある一方でそのあたりも断然ちゃんとしているんだと思うんですよ。ちゃんと勉強している、ちゃんと学習している、基本が押さえられている。そこはもっと認めたい。だって基本すらできていない作家があまりに多すぎる…!
 みんな浅いなわかりやすすぎるなイージーだな中身ないなとか、これくらいなら誰でもすぐ作れるなとか思うんだろうけど、実はそんなことって全然なくて、これってすごく難しくて大変なことで、そしてこれだけちゃんとしてるって本当に奇跡みたいなものなので、みんなもっとちゃんとありがたがった方がいいよ、ってことを私は訴えたいのです。毎度エラそうでホントすみませんが。みなさん表立って言わないだけでちゃんとわかってるっつーの、って思ってたらホントすみませんが。
 芸術ぶって辛気臭いこと言って自爆したものなんかより、きっちり技で仕上げてシンプルだけど大事な真実をきちんと伝えてみんなに喜ばれているものを、まっとうにまっすぐに、素晴らしいと評価したい。上出来だとほめたたえたい。明るく正しいことを支持したい、享受したい。テレて韜晦してそんなのダサいよとか恥ずかしいよ逃げたり単なるおとぎ話じゃんとか茶番じゃんとか言ってごまかそうとするって卑怯だと思うしの、度胸がないと思う。幸せになることを恐れてはいけない、善いことを信じる強さを持ちたい。
 だから私は声を大にして言いたい、『AfO』はいい、と。

 お友達が言っていましたが、もう毎夏、大劇場公演はその時期に当たった組がこの演目を上演する、ってことにしてもいいくらい、当たり役ならぬ当たり作だと思います。
 そうなんだよね、当て書きのようで実はある程度どこの組でもできるゆるいキャラクター布陣なんですよ実は。というか設定はちゃんとあるんだけれど、役者のニンに寄せられる部分が大きいというか。『エリザベート』なんかより全然役者を選ばないと思う。たとえば『ロミジュリ』があれだけ頻繁な再演に耐えられる理由に近い。楽曲がいいっていうのももちろん大きいけれど、あまり役者を選ばないタイプの作品ですよねロミジュリって。そしてたとえば『金色』なんかも再演がけっこう困難だと思うんですよね、あんなキャラにはまるトップコンビって普通なかなかないですからね。
 でもこの作品は、五組で順番にやってもきっと大丈夫。どこにでもある程度ハマります。一巡したらトップは変わっているからまたやってもいいだろうし、他のメンツが同じすぎるっていうなら次の五年かそこらは封印して、またその次の世代で上演する…とかね。それでも普通にお客は入ると思いますね。リピーターは少なくても、初めてのお客さんが増えそうだし、それってものすごくいいことだと思うのです。今のチケットの取れなささは客を狭めるし未来に響きます。
 あと、私は宝塚と言えばベルばら、みたいに世間で語られることが大嫌いで、それは宝塚歌劇の『ベルサイユのばら』は初演はともかく以降は脚本的にはてしなく駄作だからで、かつオリジナルの漫画の素晴らしさを越えられるワケはないと思っているからです。だからずっと、宝塚歌劇と言えばこれ、という代表作が欲しいと思っていました。そしてそれはエリザとかスカピンとかミーマイとかロミジュリとかではダメだと思うのです。だってそれは海外ミュージカルの翻案輸入版にすぎないから。仮にもオリジナル新作主義の劇団で、100年かけても代表作にオリジナルを挙げられないってどうなのよ、とずっと歯がゆく思ってきました。それが今、コレなんじゃない!?という気持ちになっているのですよ!
 三銃士は元ネタがあるし太陽王は史実だし、でも中身はオリジナルですよね。というかオリジナルというのも口幅ったいくらい、昔からある定番のネタしか入っていない、と言ってもいいくらいです。でもそこがいいのだしそれが大事、定番をきっちりやることが大事。そしてそういう定番って長い時間をかけて「定番」に磨きあげられてきたものだから、みんなが好きだし全方向に強いんです。
 どこに出しても恥ずかしくない、エンタメとしてちゃんとしたものが、やっと、やっと、できた。そして一見イージーに見えてその実、愛と勇気、信頼、誠意、忠義、親子の情愛や立場に伴う責任などなど、まっとうなことをきちんと伝え訴えている。それはものすごくすごいことなのである、ということを私はここで訴えたいのでした。
 きちんとしたテクニックやセオリーに裏打ちされてまっとうなテーマを伝えること、それこそが「風」なのです。
 
 さて、創作においてというか物語において、大事なのはまずはキャラクターです。宝塚歌劇で言うならトップコンビが演じる主人公とヒロインに魅力と個性があること。そして彼らの抱える事情や彼らの望み、生き方を巡ってドラマが展開され、起承転結あるストーリーがつづられること。さらに、多彩なスターにしどころある役を与えるべく、主役ふたりの他にもさまざまなキャラクターがいてドラマに関わり、ストーリーを盛り上げること。そしてミュージカルらしいソング&ダンスがあること。
 大事なこと、必要なことは意外にそんなに数多くないのです。基本がしっかりしていれば、少々のご都合主義やうまくいきすぎな偶然展開なんかには目をつぶれるのです。でもキャラがブレていたりその感情や生き方がコロコロ変わって見えたり、唐突すぎたり意味不明だったりするダンス場面をたびたびつっこまれると客は引くのです。お話についていけなくなるのです。そのお話がヤマはどこ? オチはそれ!? みたいなものならなおさらです。それが『邪馬台国の風』でした。残念ながら風は吹いていませんでした。
 翻って『AfO』はどうだったか? 以下、ネタバレ全開で語ります。というかまあもうそろそろネタバレも何もないよね、そんなにたいしたことやってるワケじゃないしね(^^;)。
 演目が発表されたときにほぼほぼストーリーを言い当てていた豪の者もいましたもんね。サブタイトルが「ダルタニアンと太陽王」なんだから、そりゃ珠城さんがダルタニアンでちゃぴが太陽王ルイ14世なんでしょう、と予想はつきました。もちろん二番手ないしその他の男役スターがルイになりちゃぴがヒロイン役、ということもありえるとは思うのですが(この時点では主な配役は出ていませんでしたよね?)、何しろちゃぴは元・男役ですからね。そしてルイ14世といえば双子説、鉄仮面伝説のネタはそれこそ定番です(宝塚歌劇で言えば『ブルボンの封印』や『仮面の男』です)。だからそれを男女の双子にするなりなんなりして、ちゃぴは二役なのか、男装している女子なんだよね、それを知らずに珠城さんダルタニアンが恋しちゃって動揺しちゃってみたいなラブコメ展開がきっとあるんだよね…みたいな予想は、この時点でツイッターでは私はかなり見ました。
 そんなベタな、と当時は笑ったりもしていたわけですが、はたしてその予想は結局全然大きくはずれていなかったわけです。てかほぼまんまだったワケです。ベタ大事!

 では主役ふたりのキャラクーから見ていきましょう。
 主人公のダルタニアンは田舎出身の無骨者、礼儀作法には疎い世慣れない若者ですが、まっすぐな好青年。わかりやすい設定ですね、大事なことです。
 彼は銃士隊一の使い手でもあり、国王の剣術の師範に抜擢されるところから物語は始まります。出自や現在の立ち位置と人となりが冒頭できちんと明示され、必要十分に立ったキャラクターで、在り方としては完璧ですね。そして珠城さんにぴったりですが、演じる役者を選ばないタイプの、わかりやすい、シンプルなヒーロー像でもあります。
 対するヒロインは、私は新公は観られなかったのでわからないのですが、でも普通の娘役が扮してもちゃんと成立させられるくらいしっかり作られたキャラクターだと思います。元・男役の娘役でないと演じられないヒロイン、ではないと思う。そこもちゃんとしています。
 彼女はルイ13世とアンヌ王妃の間に生まれた双子の片割れで(兄妹なのか姉弟なのか明示せず「兄弟」「姉妹」という表現で通していましたが、どちらが上の子か決めてもよかったのではと個人的には思いました)、不吉だということで捨てられそうになっていたところ、間違えて残されてしまった女の子で、男の子として育てられ今やルイ14世になってしまった少女、です。摂政である母親とマザランの助けを借りて政治のこともがんばってきた、でも貴族の男性のたしなみとして必要な剣術にはあまり熱心になれず、バレエが大好き。年頃になり、政略結婚でスペイン王女を妻に迎えることになるかもしれないとあって、自分は一生このままなのかといよいよ焦り出した、ある意味ではごく普通の女の子です。お洒落してみたい、男子にウインクしてみたい、とか妄想しちゃうような、ごく普通の娘さん。
 そんなに強い個性や特徴はないけれど、ヒロインが類型的になりがちなのはよくあることですし、可愛いから大丈夫です(笑)。
 銃士隊一の使い手ダルタニアンを剣術師範に選んだのはマザランで、そこにはある深謀遠慮がはかられていたのですが、それはそれとしてふたりは出会います。そして相手が王だからわざと負けてみせる…なんてことができないダルタニアンは王を怒らせてしまい、クビになるどころか銃士隊まで解散させられてしまう…うまい立ち上がりですよね。銃士として王を守りたいと思っているのに、そのまっすぐな性格故に王を怒らせてしまう主人公、そのトラブルから転がり始める物語。起承転結の起として完璧です。
 一方で、マザランの甥でありマザランが作った護衛隊の隊長であるベルナルドは、ダルタニアンなんぼのもんじゃいと思っているし、イタリア出身ということをフランス人から差別されたりしていますがそれは田舎であるということではなくむしろ往年の都で豪奢で洗練された暮らしを送ってきたのだろうし、だからダルタニアンを田舎者、礼儀知らず、垢抜けない間抜けだと侮蔑する。ヒーローとは正反対に位置するライバル、この布陣もとても正しい。教科書どおりってなもんです。宝塚歌劇はトップトリオの役がちゃんとしていればほぼほぼできたも同然なのです(ベルナルドは今回は三番手スターが演じていますが、構造としてはそういうことです)。
 女装して街に出たルイが酒場でダルタニアンと会って…というのはイージー展開ですが、いいんですお話なんだから。そしてここで三銃士たちのキャラクターもきっちり見せている、これまた大事なことです。お話として全体を見たときにはどうしてもライバル役のベルナルドの比重が大きくなり、三銃士は主人公の大事な仲間役とはいえ少々ワリを食う形になっています。なんならいなくても話はつながるくらいでもある。でも宝塚歌劇だから必要なの、そしてそれぞれ役に扮した生徒がそのちゃんとキャラになってちゃんといい仕事をしているの。大事。
 正直、ポルトスのありちゃんだけはもの足りないかもしれないけれど、さすがにおじさんには見えないというだけであとは健闘していたと思います。豪放磊落というかおおらかでおおざっぱな、力持ちの明るい大酒飲みを楽しそうに演じていました。話が脱線しますが、れいこちゃんの組替えはありちゃんが一息つけてよかったと思うんですよね。劇団はずっとありちゃん推しで珠城さん以上に上げてきましたが、抜擢に応えきれていないように見える部分もありましたし、一方で当て馬のように使われてきたあーさの方の人気が意外と出ちゃうという劇団にとっての誤算もあって、そのあたりもあってのれいことのチェンジだと思います(雪はひとこのものにしたかったのでしょう)。でもれいこがきれいに新生月組の新三番手に収まって、ありちゃんはダブル三番手の下席ないし四番手、のポジションで十分だしそれくらいでこそのびのびやれる部分もあると思うし、その方が結局のちのち大きく育つってこともあると思います。そしてれいこは、送り出すときの餞の反対で迎え入れるときのそういうサービスというのはなんていうんだろう? とにかくそういうこともあってのおいしいベルナルド役だったのかもしれませんが、でも正二番手であるみやちゃんもちゃんと気を使ってもらっていて懺悔のソロなど大きなナンバーももらっているし、これまたいいバランスを保てていると思うんですよね。さらに別格上級生スターのトシゆりがまたちゃんと場所を得ているのも素晴らしい。このあたりの布陣は本当にたいしたものです。でも他組でやっていいスターがいないならもっと小さく見える役にしてもいい、それくらいの自由度もあるのがまた素晴らしい。
 というわけで話を戻して、再会するふたり(ダルタニアンは気づいてないけれど)は恋に落ちます。イージーだけどいいの。珠城さんはお茶会でまあ一目惚れなんでしょうね、初めての恋だったんでしょうねみたいなことをあっさり言っちゃってましたけど、要するに恋に落ちるに足る具体的なエピソードがないということは確かで、弱点ではあります。でも鄙には稀なというか、こんな下町の安酒場では見ない身なりのご令嬢に見えて最初は気を使ったんだろうし、なんかちょっと変なこと言うな変な仕草するなおもしろいな可愛いなよくよく見たらすごく可愛いな美人だなもっと親しくなりたいな…って思っちゃったんですよねいいのよわかるわうんうん。
 そしてルイの方では、実はダルタニアンが語る父との思い出話が意外と刺さったんじゃないかなと私は思うのでした。
 これまた先述のお友達が、フィナーレにちゃぴがバリバリ踊る場面が欲しかった、デュエダンだけではもの足りない、どこかで尺が捻出できないか、みたいなことを言っていて私もちょっと候補を考えてみたのですが、つまむとしたらここの「♪おおガスコン」みたいな歌とか、銃士隊の解散ソング、アラミス神父の懺悔ソング、ヘイヤーって歌う歌のくだり(笑)あたりかなとは思いました。でも二番手スターみやちゃんのためのショーアップ場面は削れないし、といって父とのこの回想場面もあまりあっさりにしちゃうとルイの心に響ききらないんじゃないかと思ったのです。
 幼くして即位したルイに、父親の記憶はほとんどないのではないでしょうか。だからダルタニアンが父の熱い薫陶を受けたことを誇りに思い、田舎と言われようと生まれた故郷を誇りに思い同じ出身の王とその子孫である現国王を愛し敬い、真摯に仕えようとしている姿勢に心打たれ、そして熱く語るそのキラキラさに異性として惹かれたのではないでしょうか。
 なのでイージーだろうとなんだろうと一応の理由はちゃんとあってふたりは惹かれ合い、ラブコメ展開にもつれ込みます。
 いわゆる「壁ドン」も素晴らしかったけれど、私は『阿弖流為』にもあった「私では不足ですか」にハートを鷲掴みされましたね。「俺では不足か」もつまりは反語であって修辞疑問なんだけれど、それでも疑問文ってところがいいのだと思うのです。つまり一応こちらに聞いてきてくれているわけでしょう? まずこちらの価値を認め、しかも高いものだとしてくれて、かつ、自分の方を謙遜含めて貶めて見せて、不釣り合いでしょうかって尋ねてきてくれる、こちらの回答を待っていてくれる。そういうふうにこちらを尊重してくれるのがいいんです、頭ごなしに言ってこないところがいいの。女が望んでいることは女が何を望んでいるのか尋ねてくれることだ、みたいな有名な言葉が確かあったはずですが、たいていの男は女に意志や要望があるということに気づいていなかったり想像すらしてしなかったりするものなんですよ。そういう中において、こういうことを言ってくれる男性キャラクターって本当に輝いて見えます。そういう理屈がちゃんとわかってるのかは別にしてちゃんと書いてくれるイケコや大野先生を私は高く評価したいです。
 さて、というわけで無事に恋に落ちたふたりは三度目の再会で想いを通わせ合い、お話はここからはふたりが無事結ばれるかどうか、すなわちルイの生き別れた兄弟を捜し出して王位を譲りルイを女に戻し結ばれたいという望みを叶えることに焦点が移ります。それはマザランによって解散させられた銃士隊を復活させたいというダルタニアンの望みや、国政へのマザランの影響力を下げさせたいという民衆の望みとも相まっていきます。そこに三銃士たちのそれぞれの活躍も絡んでいく。上手い。そして女性としてのルイに興味を持ち出したベルナルドは恋敵としても立ってくる。上手い。
 ジョルジュの存り方とか、そりゃイージーですよ。でも何度でも言いますがお話ってそういうものです(そしてそれはヒミコの予知がノー・ルールで発動するご都合主義とはまったく違うのです)。そして彼に関しても、血筋さえあればいいんじゃなくて、彼が愛情豊かに育てられたいい若者で、かつそれでもボーフォール公爵の教育を受ける必要があるとされていることが素晴らしいし、マリア・テレサの好みのタイプとされていることも素晴らしい。国王には義務があるということと、国のために政略結婚せざるをえないとしてもそこに愛が生まれる方が望ましい、ということをきっちり見せています。
 クライマックスの大チャンバラはある種のダンスであり見せ場です。そしてマザランが単なる私利私欲の塊の極悪非道な悪役ではなく、アンヌもまた単なる弱く愚かな母で摂政の王太后ではなく、それぞれ国のため民のため王のためよかれと思い手を尽くしてきた大人であり、だから今また憎しみではなく感謝と誠意を持ってお互い別れるのだ…という流れも本当に素晴らしい。
 唐突な関白宣言もまた微笑ましいし、もちろんルイーズがダルタニアンに負けていないのも素晴らしい。彼らは剣の腕とバレエの才があるだけの、若く貧しい何者でもない若者で、しかしこの愛があれば、そして今まで築いてきた仲間や家族と支え合えれば、なんだってできるしなんにだってなれる、未来には希望しかないと信じられる…素晴らしい結末だと思います。てか泣く。
 これが風です。観客の心が動くってことです。
 観客が主人公たちに感情移入し、その心情と言動に寄り添ってストーリーを追い、ハッピーエンドのラストシーンによかったねと喜ぶ。物語に感動し、自分たちが生きる世界の未来も信じられるようになる。エンタメが起こす風って、そういうことだと思うのです。
 たわいのないお話でも、基本的なこと、大事なことは全部ある。愛し愛される者同士が結ばれる幸福、努力や勇気が報われる幸福、仲間や家族と助け合い支え合う幸福、悪を正しあるべきものをあるべきところに納める幸福…
 そこに、風は起きるのだと思うのです。


 なので『邪馬台国の風』に風を吹かせようと思ったら、暗転の多さをどうにかしようとかセリや盆を活用しようなんてレベルの話ではなく、もっとシンプルに、キャラクターとストーリーを確立させるだけで全然違ったはずなのです。
 私だったら…タケヒコは、最初は両親の復讐がしたくて師匠に棒術を習い始めるんだけど、実は泣き虫で優しい少年…というふうにキャラ付けするけれどな。みりおのイメージで。
 長じて、棒術では師匠をしのぎ剣の腕も立つ、立派な武人になるのは、いい。ヒーローですからね。でも、ちょっと山の麓の村人との触れ合いエピソードでも入れて、本質的には優しくて争いを好まず、師匠が生まれた外つ国へいつか行ってみたいと夢見るような、理想家肌のキャラクターにします。その巻き込まれ型のドラマに仕上げる。
 で、狗奴兵に襲われているマナを助け、不思議な縁を感じ、いつか外つ国へ旅立つという予言を受け、母の形見の首飾りをもらって別れる。本当は師匠を弔ったらそのまま外つ国へ渡ろうと思っていたけれど、マナのことが気にかかっていたこともありアシラのスカウトもあったので、邪馬台の兵になることにする、とする。
 仲間を得て、女王ヒミコの予言どおり築かれていた狗奴の砦を襲い、狗奴を退け邪馬台国に平和をもたらしたいと願うようになるタケヒコ。そして祭りの日にヒミコを遠目で見て、マナだと気づき動揺する。あのとき確かに縁を感じたのに、今は女王と一介の兵士…とマナへの想いを押さえ込もうとするけれど、アケヒにそそのかされて、最後に一度だけ…と会いに行ってしまう。こういう心の動きを丁寧に描写したい。
 一方のマナは、予言の才を買われて巫女になる気で来たもののまさかの女王にまで祭り上げられ、諸国の王たちの手前キリッとしていたものの、実は責任の重さにちょっと疲れてもいる、とする。ハナヒたち、祭りを楽しみ好きな男と酒を呑む娘たちを見て、うらやましく思うような描写を入れたり。自分にはもう許されない、普通の娘としての暮らし…そこへ、遠目にタケヒコを見てしまい、動揺はさらに激しくなる。こんなに心が定まらないようでは、神の声も聞けなくなってしまうかもしれない、と自分を抑えようとするが、女装して宮に忍んできたタケヒコと再会し、懐かしさと愛しさに思わず抱きついてしまう。タケヒコも応えてマナを抱きしめてしまう。これはヒミコではない、マナだ、俺のマナだ…と。なんならやることやってもいいと思う。で、気が済んだのか(オイ)、やっぱりこれっていけないわ、国のため民のため、女王と兵士に戻りましょう、共に協力して争いのない世界を作りましょう、となる。別れを決意し、次の世でこそ結ばれようと誓い、万感の想いで最後の抱擁をした…ところをヨリヒクたちに目撃されてしまう、とする。
 神に身を捧げたはずのヒミコが不義密通だなんて、と騒ぎ立てる王たちに対して、タケヒコは女王は不義など侵していない、自分たちは無実だ、神の審判として盟神探湯に応じよう、と言い出す。やることやってんだったらそういう意味では有罪なんだけど(^^;)愛故なんだし、想いを断って別れることにしたんだから今さら外野からゴタゴタ言われたくない。だからタケヒコは強く出る。実は彼には師匠直伝の秘策があり、勝算があったワケですよ。沸騰する熱湯に手を突っ込んでも無実なら神のご加護で無傷なはず、なんてナンセンスだ、くらいの合理的で現代的な感覚の持ち主にしてしまってもいいと思うんですよね。その方が最後に外つ国に旅立つ理由のひとつにもなるし。そしてやることはやっちゃったかもしれないけれど自分たちは別れると決めたのだし、私利私欲に駆られている王たちよりもマナの方がこの国の王にふさわしい、彼女は女王としてこの国に必要な存在だ、だからハッタリかましたる!くらいな方がヒーローっぽいとも思うのです。
 でもマナは秘策のことなんか知らないし、一度は神も国も民も捨ててただのマナに戻ってタケヒコと逃げたい、と考えた罪悪感もあって気が気ではない。タケヒコが無事で、なんらかのカラクリがあったらしいことは気づくものの、自分を守るために彼が無理をしたことに動揺してしまうマナは、一度は引っ込んだ王たちが雨乞いの祈りを依頼してきたときに集中しきれず、神の声が聞けなくなってしまう…
 マナが女王の座を降ろされ、処刑されてしまうかもしれないとなって、タケヒコは再び宮に忍び込み、だったら逃げよう、ただのマナに戻ろう、ふたりで生きていこうと彼女を連れ出そうとする。そのとき、狗奴の襲来をイヨが予言することにしてもいいと思うのです。このままでは邪馬台の里が荒らされる、それは見過ごせない、とヒミコは残ることにし、タケヒコは戦いに赴く…
 マナが王たちに処刑されそうになるまさにそのとき、日食が起き、怯えた王たちは処刑を取りやめる。タケヒコの報告を受けたアシラが狗奴の襲来を告げ、王たちは迎え撃とうと一致団結する。決戦の中で、タケヒコとクコチヒコの一騎打ちがあり、タケヒコが勝つ。
 イヨが新しい女王に立ち、ヒミコでなくなったマナはタケヒコと外つ国へ旅立つのでした…おしまい。
 …ってのはたとえば、いかがでしょうかね? フルドリたちのことまではちょっと手が回っていませんが、とりあえずメインどころだけでもこれならだいぶ風が吹くと思うんですよねえ…A先生いかがですかね?
 親友(みりお担)は「AIが書いたんじゃない? でなきゃあんなに支離滅裂にならないでしょ」となかなか大胆なことを言っていましたが(^^;)、先述とは別のお友達は「酔って5分で書いたのでは」説を唱えていました。どちらもありえそうですが、まあフツーに、いろいろやりたくていろいろ書けているつもりで削ったり足したりいろいろいじっているうちにワケわからなくなっちゃったんだろうなと思っています。
 でもとにかく、大事なのはまずはキャラクター、そしてその生き様から立ち上がるストーリー。基本はそれだけなのです。訴えたい何か壮大なテーマがあるのだとしても物語の形で表現するというのなら基本はそこなのです。それを押さえてほしい。
 そんなにたいそうなことは求めません。でもそれすらできないのだったら、もう二度と登板しないでいただきたいですマジで…(ToT)

 今週末にはいよいよ『神土地』です。くーみんはさすがちゃんとしてくると思いますよ、こちらも心して挑んできますよ…
 毎度毎度、ホント勝手な私見をランボーな書きようで綴るブログですみません。読みに来てくださる方に本当に感謝しています。
 本日めでたくまたひとつ歳を取りまして、ムラで楽しく幸せに過ごしてきましたありがたや。去年のルドルフ初日から一年ですよ、早いなあ濃いなあ…
 今後ともよろしくお願いいたします、おそらく来週の今ごろ、またアレコレ書いて上げてますきっと。よかったらおつきあいくださいませ。



 
コメント (4)
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