国境をなくすために

戦争をしない地球の平和を求めるには、国境をなくすことが必要と考えました。コミュニティガーデン方式を提案します。

夏草の賦 上下 司馬遼太郎著 1977、文春文庫

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項目C 国境をなくすために → 歴史
(冊子『国境をなくすために』の送り状は2007年10月22日にあります)
     (ブログ『国境をなくすために』の趣旨は2008年10月15日にあります)

戦国時代に四国で生まれた長曾我部元親は、天下をとりたいと志し、家臣を留学させて都の情報を採り入れ、明智十兵衛光秀の家臣斉藤内蔵助の妹菜々を嫁にもらい良い跡継ぎを生んでもらいたいと願いました。 菜々は人が止めるのもかまわず土佐へ行くと応じます。 子供信親も得て、元親は四国征服であわよくば京へと頑張った時、織田信長に先をこされました。

p269 天正4年、信長は近江に安土城をきずき、それに移った。 信長は常に四面に敵をもち、その生涯の多忙さは、かれほどの多忙を史上で経験した者はないといっていいほどだが、安土にうつってからはおなじ多忙でもやや気持ちにゆとりができた。 織田政権の所領は近畿を中心に五百万石に近く、しかもさきに強敵の武田信玄が病没し、さらに天正6年上杉謙信が死んだため、東方や北方からの脅威が去っている。 天正7年から8年にかけ、信長にとって四国がしきりと脳裏にうかびはじめた。

信長は元親に四国は自由にせよと言った前言をひるがえし、明智光秀を呼び「元親には土佐一国と阿波の一部は与えるが、切り取った阿波、伊予、讃岐の3国をもとの持ち主に返してやれ」との命令を伝えました。 明智の家来が四国の元親へ伝える、

p324 「おれも3国を返上してしまっては、いままで働いてくれた家臣どもにあたえてやる城や領地がなくなる。 家臣どもはいままでただ働きをしたことになる」

p325 「それほど拙者に同情してくださるのなら、いっそ、かの信長を斃してしまわれては?」 「げっ」

p326 信長から光秀が手ひどい仕打ちをうけているということは、この使者から聞いたばかり、「明智どのが、信長を斃す。 斃したあと、毛利家と同盟していちはやく京をおさえる。 拙者は四国勢をあげて大いに応援つかまりましょう」

明智光秀は四国を拝領できると思っていたのに、豊臣秀吉を助けるべく毛利征伐を命じられた不満で本能寺の信長を打ち、毛利攻めから急きょ帰った秀吉に倒され、秀吉が天下を受け取ったのですが、土佐一国に封じ込められた元親は秀吉の采配のもと家臣として命を受ける身。

p210 元親の思案は、こんにちどのような家と縁組すれば長曾我部家が安全か、理想としていえば秀吉には子がなかった、秀吉の縁者―実弟の秀長、実姉、実妹ひとりづつ―にも、適齢の娘はいない。 その他の大名もふしぎなほど子供が少ない。 「唐瘡(梅毒)のせいなのだ」 戦国初期から急にまんえんしはじめたこの新しい伝染病は、戦陣を馳駆することの多い大名にまたたくまに感染した。 もとは外国貿易船とともに入ってきた。 ちなみにこの時期から100年ばかり前に、ジェノアうまれのコロンブスがスペインの女王の後援で冒険航海に乗り出し、アメリカ大陸を発見した。 かれの乗組員はアメリカ原住民からこの病気をうつされ、ヨーロッパに帰ってからこの風土病を蔓延させるもとをつくった。 4年後に全ヨーロッパにひろがったというが、おそらく事実であろう。 ヨーロッパで最初の流行をみてからわずか15,6年後の永正10年、日本に上陸したという。 この病はときに骨まで達するような潰瘍をひろげつつ進行する。 感染は婦人との接触による、ということはわかっていたが、むろん細菌性のものであるとは医家でもわからない。 元親の同時代の大名たちの多くが、これにかかっていた。 加藤清正、黒田如水、結城秀康らは明白なこの患者であり、秀康は鼻が欠け、如水は頭髪が抜け落ちていた。 それほど顕著な病痕をとどめぬ者でも子が少ないのはこの病気によるものであろう。

「毛利征伐の先陣を務めよ」 立派に武芸を身に着けた長男信親は父の制するのもきかず、雄々しく戦い、戦死。
父・元親の希望通り、毛利は遺品を丁重に渡す、
p309 遺品である左文字の大太刀は、きっさきが折れ、刃こぼれ甚だしく、もはや太刀の体をなしていないほどであった。 カブトも鎧も戻ってきたが、無数の刀傷があり、袖はちぎれ、シコロも切れている。 元親は、やっと瞼をあげてひと目みた。 が、あわてて目をそらし、「もうよい」とつぶやき、早くどこぞへおさめよ、回向せよ、といって二目とそれを見る勇気をもたなかった。

p310 秀吉が弥三郎信親の死をきいたとき、「自分の罪である」「仙石ごとき者を、手に合わざる軍目付にして、あたら信親を討たせてしまったことの不憫さよ」といったという。 大隅を加増するという、「なんの功もござらぬのに、それほどの大封を受けるいわれがございませぬ、お気持ちだけを」
p311 その後の元親は、あきらかに老い霞んだようである。
p313 「奥には知らすな」といっておいた。 このため、菜々は信親の死を知らずに死んだ。 菜々の死は、元親は九州で知った。 (すべてが終わった)
信親の3年の忌がすんでも沈黙、次男、三男の擁立派は元親の怒りを買い、自滅させられた。 末子千熊丸(菜々の子)が相続者(盛親)、
p316 元親は慶長4年5月19日、61歳で死んだ。 翌年関ケ原の役がおこり、盛親は様子もわからぬまま成り行きにみをまかせて石田三成につき、敗亡し、土佐をとりあげられてしまっている。

* p267 余談、慶長元年の初秋、土佐の浦戸にスペイン船サン・フェリペ号が漂着した。 木造船ながら、千トンという巨船で、その山のような大きさに土佐人はみな目を見張った。 元親は、その乗組員を城下に収容し、手厚く看護する一方、じきじき船内を見学した。 帆柱だけで3人でかかえねばならぬほどふとく、その積荷のおびただしさは気が遠くなるほどであった。 このあとこの船荷を和船に分載して大坂へ回航してやったが、そのために83そうの船が必要であった。 船に乗っていた人間は、ドミニコ会修道士7人をふくめて233人という多数である。

交渉ごとに菜々を使ったり、戦国大名夫婦なのによく相談をする場面が多く、読みやすい本でした。
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